×
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -







24. さよなら、僕らの青い夏


もう何度目だろう。ポケットに突っ込んだままのスマホが着信するたびにバイブしている。
さっきから震え出すたびに回数をカウントしていたけど、すでに十回は越えているはず。
そのしつこさに観念して席を立ち、通話ボタンをタップすると同時に右耳の鼓膜を聞き慣れた怒鳴り声が貫いた。

『みょうじ! なんでさっさと出ないんじゃボケ!』
「だから試合中に電話してくるなって言ってたでしょ! 速報サイトも教えたのに!」
『サイトじゃタイムラグがあって苛つくんや!』
「タイムラグくらい我慢しなさいよ! 私も応援してんだから邪魔しないで!」
『元キャプテンに向かって邪魔とはなんや! 聞き捨てならんぞ!』
「あーもうめんどくさいなー!」

今年からプロ入りした東はシーズン中かつ練習日というわけで、本日の西東京大会決勝戦に駆けつけることもできずに電話の向こう側で地団駄を踏んでいる。
東の気持ちもわからなくもないけど、私に当たり散らされても困るんだけどなぁ。
ブラスバンドと歓声に声がかき消されそうになるから、電話口に向かって怒鳴り返すように話していると、さすがに人目が気になって場内の出入り口へと移動する。
ただでさえ真夏日で暑くてバテそうなのに、東の暑苦しい声を聞いていると本気で熱中症になりそうだ。

『戦況はどうなっとる!?』
「六回裏、一対三で稲実リード。今は稲実の攻撃でワンナウト二塁」
『なんやとぉぉぉ?!』
「東うるさい鼓膜破れる」

通話画面の向こう側で顔を真っ赤にし怒り狂ってる東の姿が容易に想像できる。
私だってずっともどかしい思いを蓄積しながら戦況を見守っていたんだから、東も少しは冷静に現状を受け止めてほしい。

『誰が投げとる?!』
「丹波だよ」
『丹波か……大丈夫なんか、アイツ』
「まだ2イニング目だから、体力的には問題無いとは思うけど……」

二人ともその先の言葉に詰まる。
夏前の練習試合で丹波が顎の骨にヒビが入ってしまったことは、お互いに把握していた。
それ故に、今の丹波が『大丈夫』だとはお互い口に出せずに言い淀む。
丹波・御幸バッテリーは、先ほど本塁打を打たれた山岡を四球で歩かせて一死一・二塁にして、七番平井をセカンドライナーで打ち取り、これで二死一・二塁となった。
平井の打球がセカンド方向へ行った時には一瞬ヒヤリとしたけど、ちょうど小湊の正面へ飛んできたので強張った全身から力が抜ける。
続く八番梵には初球をレフト前に運ばれて、あわや二塁走者が三塁を回って本塁へ突っ込もうとするところを、レフトの降谷君がダイレクト返球で間一髪阻止した。
その一部始終を実況も忘れて見入っていたせいで、また東が騒ぎ出す。

『おい! みょうじ、何があったんや?!』
「レフト前にヒット打たれて二塁ランナーがホームに突っ込もうとしたところを、降谷君のレーザービームで間一髪阻止したの! さすが怪物君! 肩がめっちゃ強い!」
「なんやレフトは坂井やないんかい! しかし降谷も強肩やな……まぁワシには劣るけどな!」
「……(東に突っ込むの面倒くさいなぁ)」
『同意せんのかい!』
「さて、ツーアウト満塁になっちゃったけど……どうしようか』
『そんなもん守りきるしかないやろ! アイツらを信じろ!』

東の力強い言葉で背筋が伸びるような感覚に、あぁこの感じも懐かしい、と思い出す。
私が不意に弱音を吐くと、東から荒っぽい言葉でよく励まされたものだった。
でも、その励ましに何度も救われていたことも、昨日のことのように確かにまだ覚えている。

九番冨士川も初球を狙い打ち、打球はセンター方向へと弾んでいく。
小湊は瞬時に駆け出し、ギリギリのタイミングで打球へと飛び込む。
打球は無情にも小湊の黄色グラブの先を弾いて「センターに抜ける!」と思わず叫んだ瞬間、カバーしに来た倉持が素手で打球をキャッチして、そのまま二塁を踏んだ。
満塁なのでフォースアウトが成立して、スリーアウトになる。

そして、私はまた叫んでいた。

「うわぁぁぁ倉持ナイスカバー!!」
『今度は何が起きた?!』
「小湊が飛びついて弾いた打球を、倉持がカバーに入ってアウトにしたの! さすが鉄壁の二遊間だわぁ」
『小湊のヤツ弛んどるんやないか!? いつもなら飛びついた打球は絶対に逸らさんやろ』

グラブタッチをしながらベンチへと帰っていく小湊たちを見守りながら、東の指摘に何も返す言葉が浮かばず押し黙る。
東の言う通りだ。いつもの小湊ならあの打球は捕球できていたはず。
でも、今は脛を痛めている。そして、そのことを知らされているのはおそらく倉持と私しかいない。
大きな秘密を抱えていることに耐えきれなくなって、東につい本音を零した。

「……小湊、脛を怪我してんの。だから思うようにプレーできないんだと思う」
『怪我の一つや二つは誰しもあるやろ! 試合に出る以上、プレーに出したらアカン!』
「太り過ぎで試合に出してもらえずにダイエットしてる東も、結構アカンと思うけど? 」
『お前……昔からワシに厳しすぎやないか?』
「東は他人に厳しいくせに自分に甘すぎるんだよ! もう攻撃始まるから電話切るよ、練習頑張ってね!」

スピーカーから騒ぐ声が聞こえたけど構わずに終話すると、今度こそ電源を落としてポケットに突っ込んだ。
ごめんね、東。私も忙しいの。


七回表は先頭の結城があわやフェンス直撃の強烈な打球を飛ばすも、センター神谷の好捕で流れを作れず、結局は三者凡退に終わった。
四番からの好打順でも出塁すら出来ず、青道スタンドは一瞬水を打ったように静まり返った。
去年と同じような張り詰めた雰囲気をビリビリと肌で感じる。
これが甲子園を経験し稲実エースになった、成宮のピッチング。
ベンチもスタンドも黙らせる圧巻の投げっぷりに、固く拳を握りしめる。
去年味わった敗戦の苦味が喉の奥から迫り上がってくるのが気持ち悪くて、スポドリごと飲み込んだ。

七回裏は先頭の神谷がヒットで出塁し、白河が犠打で走者を二塁へ送ると、犠打処理し終えた丹波がガックリと膝から崩れ落ちた。
その様子を見た貴子は、不安に表情を歪めながら小さく悲鳴を上げる。
監督が守備のタイムを取って慌てて丹波の元へと駆けつけ、内野手たちも心配そうにマウンドの丹波を囲んだ。
スタンドから様子を見ていると、どうらや丹波は脚がつったようだった。
マネージャーたちは動揺の色を隠せずに、心配そうに狼狽ている。その気持ちは手に取るようによくわかった。
スタンドにいてはグラウンドの選手にしてあげられることなんて、何一つ無い。
それがどれほどに歯痒いことなのか、私も今になってようやく実感しているから。

マウンドで何度か屈伸を繰り返し、大丈夫だとしきりに頷く丹波はどうやら続投するらしい。
再びマウンドに立った丹波へと、球場全体から励ましの拍手が降り注ぐ。
三番吉沢は渾身のピッチングで三振に仕留めると、地の底から沸き立つような歓声が球場を揺らした。
マウンドで吠えた丹波の姿を見て、これが二年半の集大成のピッチングなんだと直感する。
身長は高いのにひょろひょろで頼りなくて、先発を任されると気合いが空回りしてよく炎上していた。
そんな一年生の頃の面影なんて微塵も感じさせない、堂々たるエースのピッチング。
怪我やアクシデントをねじ伏せる精神力の強さは、紛れもなく丹波が築き上げてきたものだ。
感動のあまり涙が浮かんで視界が霞んでしまうのを、必死に堪える。
それは貴子も同じようで、つぶらな瞳には薄っすらと涙の膜が揺らめいていた。

「丹波、かっこよくなったね」
「はい! 丹波君、すごく頼もしくなりました……!」

笑顔で貴子に問いかけると、花が咲いたような笑顔が返ってくる。
お互いに涙目になっていることに気付いて、照れ臭くてまた笑い合う。

次の四番原田は敬遠し、五番成宮で勝負かと思いきやアナウンスは投手の交代を告げる。
なんと、あの一年生左腕の沢村君が丹波に代わってマウンドに上がった。
予想外の交代劇に青道側だけではなく、球場全体がどよめいた。
左打者の成宮に対して、左腕の沢村君を当てたかったのだろうと容易に想像できるけど、それでもこの試合は西東京大会の決勝戦なのだ。
沢村君の登板は準決勝で見ていたけど、1イニングを投げて一失点していた。
今この状況では、一失点すら絶対に許されない。
監督の決断とはいえ、正直心配でしかない。また胃の底がじんわりと痛み出す。

「なまえ先輩、大丈夫ですよ!」
「….…ありがとう、春乃ちゃん」

真夏の日差しの下で真っ青な顔色をした私を心配して、春乃ちゃんは励ますように明るく声をかけてくれた。
春乃ちゃんは普段から沢村君の努力している姿を見てきたから、こんなにも強く彼を信じてあげられるんだろう。
まだ出会って間もないはずなのに、ちゃんと絆ができているのだ。私もその絆を信じようと思う。

沢村君は前回の登板の不安定さを感じさせない立ち上がりで、成宮をインコースのみの三球三振でねじ伏せて仲間の期待に応えると、青道スタンドは驚きと喜びの声でどよめいた。

「沢村君、ナイスピッチ!」
「やるじゃん沢村!」
「ナイスピッチ、沢村!」
「すごいじゃない、沢村君!」
「良い投げっぷりだよ! ナイスピー!」

ベンチへと走って帰ってくる沢村君に、青道スタンドからはフルボリュームで称賛の声を送る。
私も手が腫れそうになるほど、何度も何度も拍手を繰り返した。
走者を置いた場面での登板ほど、中継ぎ投手にとって緊張感のあるマウンドは無いはず。
二死とはいえ、走者を背負った状況で交代すると立ち上がりを攻められて、なし崩しに得点を許してしまうことは、高校野球ではよくあることだった。
そんな大ピンチな状況で一年生投手が完璧な火消しをしたのだから、感動もひとしおなのだ。油断したら泣きそうになる。ていうかすでに半泣きだ。

「しかも初球できっちりバントまで決めちゃうし、凄いね沢村君」
「はい! バントは上手いんですよ、バントは!」
「なるほどヒッティングだとアレな感じか……」

春乃ちゃんがやたらに『バントは上手い』と強調するので、バント以外は大味なバッティングなんだろうと察しがついてしまう。

先頭打者の怪物くんこと降谷君はライト前ヒットで出塁し、沢村君が完璧な送りバントを決めて、これで一死二塁のチャンスメイクができた。
続く白州は燻銀なバッティングでセカンドへの内野安打を放ち出塁し、これで一死一・三塁の大チャンスを迎えて、打順は一番倉持へと帰っていく。

「スクイズだね」
「スクイズですね」

顔を見合わせた貴子と頷き合う。
三塁走者の降谷が生還すれば同点の場面で、最悪ゲッツーで無得点のリスクもある強行策は片岡監督なら選ばないだろうと、おおよその予想はついている。
打席に立つ倉持からを見ていると、彼の張り詰めた緊張感がスタンドまで漂ってくるようで、私の心臓が止まりそうだ。

「スリーバントスクイズきた!」
「倉持君! ナイバン!」
「これで同点ですよぉ!」

ツーストライクに追い込まれたものの、倉持は見事に同点のスクイズを成功させ、三塁走者の降谷君が土煙を舞い上げながら本塁へ滑り込み、生還した。

スタンドの喜びが弾ける瞬間に、止まりかけていた心臓がものすごい勢いで脈動し始める。
マネージャーたちも大喜びで声を弾ませ、身を抱き寄せあっている。
全身に汗が吹き出すけど、不愉快さよりも同点に追いついた喜びの方が遥かに勝っていた。

さぁ、次は小湊の打席。
まだ二死二塁のチャンスは続いている。
脚の状態に不安はあるけど、小湊のバッティングで更なる追加点を期待するしかない、と思っていた。

「え? 亮介君に代打……?」
「小湊先輩……何かあったんでしょうか?」
「打率十割のラッキーボーイきたぁ!」

不安と期待の入り混じる声が、至るところから聞こえてくる。
ネクストバッターズサークルにいた小湊と、弟の春市君が入れ違いで打席へと向かって行く様子を、ただ黙って見守ることしかできなかった。

アナウンスは無情にも代打を告げる。
ここが、小湊の限界だったということだ。

小湊の交代が、自分のことのように悔しくて堪らなくて、噴き出しそうな感情を拳の中に握り締めた。
再び動揺するマネージャーたちに、本当のことを告げようと一瞬気の迷いが生じたけど、私は押し黙る。
小湊が怪我をしていることを、この子たちはまだ知らされてない。
それなのに部外者の私が小湊が怪我をしていることを知っていたと言えば、この子たちを傷つけてしまうかもしれない。
私が貴子の立場だったら、絶対に傷つく。
どうして私たちを頼ってくれなかったの? と虚しい気持ちになるはずだ。
だから、この試合が終わった後に、この子たちにはちゃんと小湊から事情を説明してもらおう。

「監督にもきっと策があるんだよ。春市君を信じよう」
「……そうですね」

同意した貴子の瞳はいまだに不安そうに揺れていて、無意識に眉間にしわがよってしまう。
貴子の気持ちは痛いほどわかる。この打席はともかく、この後の守備はどうするのか?
公式戦での試合経験が豊富なセカンドは、ベンチ内には小湊しかいない。
この緊迫した決勝戦で下級生に不動のレギュラーだった小湊の代わりが務まるのか。
その不安は細波のようにベンチからスタンドまで伝わり、徐々に広がってきている。

祈るように強く、不安を振り切るように高く、私は大きな声でチャンステーマを歌う。
お兄ちゃんの分も、どうか君が全力でプレーしてほしい。
小湊の二年半の弛まぬ努力を、どうか君が繋いで。

「うわぁぁぁ弟くん打ったぁぁぁ」
「ナイバッチー!」
「やった! すごいよ小湊君!」

木製バットの乾いた快音を鳴らして、打球は二遊間を切り裂いてセンター前へと転がっていく。
一塁キャンバスに立ってぎこちないガッツポーズを掲げた春市君は、スタンドから見ても赤面している姿が手に取るように想像できた。
マネージャーたちは細腕を振りかざしてガッツポーズを春市君へと突き出す。
代打春市君のヒットでチャンスを繋ぎ、これで二死一・三塁のお膳立ては整った。
ここから先はクリーンナップが続く好打順だし、なんとしても美味しいところを掻っ攫ってもらわないと。
期待を込めた眼差しで、打席に立つ伊佐敷を見つめる。
タイムリーを願いながらチャンステーマを歌えば、伊佐敷は吠えながら執念で四球を選んだ。
結果はなんでもいいから欲張らずに、続く四番の結城に繋げるための、実に伊佐敷らしい打席だった。
大きな拍手を鳴らしながら「ナイ選!」と伊佐敷に向かって叫ぶ。
私の声、ちゃんと届いてるといいな。

「これでツーアウト満塁!」
「お願い結城君……打って!」
「結城先輩なら絶対打ってくれます!」
「結城先輩、ここで一本お願いします!」
「頼んだよ結城……!」

四番結城がバッターボックスへ入ると、球場のボルテージは今日一番の最高潮に到達した。
ブラスバンドの演奏も、応援団の声援も、観客たちの騒めきも、そのすべてが感覚を刺激するうな、そんな錯覚に鳥肌が止まらなくなる。
武者震いで手が震える。汗が止めどなく流れ落ちる。それでも、グラウンドから目が離せない。
枯れそうな喉が痛むけど、そんなのお構い無しに声をさらに張り上げる。
グラウンドとスタンドも、みんなの思いは一つだと確認しなくてもはっきりと分かっていた。
この試合で結城に打席を回せるのは、この回がおそらく最後になるということ。
この打席で結城がタイムリーを打たなければ、青道の勝機が遠のくということ。
これは大ピンチでもあり、それと同時に大チャンスなのだ。この機を絶対に逃すわけにはいかない。
その思いはきっと、打席に立つ結城も同じなはず。
早くもツーストライクと追い込まれた結城は、それでも躊躇することなく自分のスイングを貫いて、成宮の投球を正確に捉える。
耳元で金属が破裂したかのような快音を響かせて、打球は美しい弾道を描きながらセンター前へと落ちた。
三塁、二塁走者はヒッティングの瞬間にスタートを切っていて、無事に本塁へと帰還する。

たった今、逆転した。
この試合で初めて、青道がリードを奪った瞬間だ。

今のチームには、主砲だった東はいない。
それでも後輩たちが自分たちの力だけで、あの成宮から四点目を奪ったのだ。
信じられないという驚きと、信じていたという確信が、同時に脳内へと押し寄せて私は軽く混乱していた。
二塁キャンバスで拳を掲げる結城の姿は夢でも幻なんかでもなくて、奇跡でもない。
気付けば涙が溢れて結城が霞んで見える。

「結城! よく打った! ナイバッチー!」
「なまえ先輩、泣いてますよ」
「貴子だって泣いてるじゃん!」

貴子と私と二人で笑いながら泣いているものだから、幸子たちにからかわれるように笑われてしまった。
嬉しい時にも涙は出るものだって、教えてくれたのは選手たちだった。
貴子もきっと、そうだったんだろう。

逆転の余韻に浸っていると、増子が鋭い打球を飛ばすものだからまたスタンドが湧き上がるけど、惜しくもセンターライナーに倒れて青道の攻撃が終わった。
高校野球では『点を取った裏の守備は失点をしやすい』と言われている。
得点して気が緩んだ隙を突かれて失点をしやすいという意味らしいけど、まさにそのような場面は現役時代に何度も経験してきた。
しかし、裏を返せば無失点で抑えれば、試合の流れは完全に青道に来ることになるということ。

八回裏も沢村君が続投し、先頭の山岡がレフト前へポテンヒットで出塁した時には肝を冷やしたけど、その後は送りバントを阻止、サードゴロでダブルプレーに打ち取り、テンポ良く三つのアウトを取っていった。

お互いの攻撃はあと一回のみ。
一人の走者の生還も許さず、あと三つのアウトを青道が取れば、甲子園に行ける。
夢にまで見たあの場所に、手が届くところまで来たんだ。

九回表の攻撃は、先頭の御幸がライト線へ長打を放ち、ノーアウト二塁。
御幸たった一人でチャンスメイクをしてしまった。本当によく出来た後輩だと思う。
一年生の夏から正捕手という重責を背負っているというのに、この大舞台でも自分の実力を充分に発揮できている。
プロのスカウトからも注目されている理由が、なんとなくわかる気がした。

「ランナーいないのに御幸君が打った……!」
「やればできるじゃん! ナイバッチ、御幸君!」
「あれ? 御幸ってそんなに打てないキャラだっけ?」
「ランナー無しからヒットで出塁するのは、珍しいかもしれません」

貴子の解説を聞いて妙に納得してしまう。
確かに御幸のやつ、タイムリーはよく打ってたような気もするけど、得点が絡みにくいシーンだと凡打が多かったような……。
昔の記憶を引っ張り出している間にも、降谷君がセカンドゴロに倒れて一死三塁になっていた。
降谷君は最低限の仕事を果たし、入れ替わるように打席に立ったのはバント職人の沢村君だ。
ここはもう、アレしかない。

「スクイズだね」
「スクイズですね」

春乃ちゃんと声が揃って、お互いに深く頷き合う。
沢村君ならきっと決めてくれますよ、と春乃ちゃんはグラウンドから目を離さずに言った。私も固唾を飲んで沢村君を見守る。
スクイズが成功すれば点差は二点に広がるのだ。
稲実を相手にして一点差ではセーフティリードとは言い難い状況なので、沢村君がきっちりとスクイズが決められれば、青道の勝利はより堅くなる。
そして、やはり監督からのサインはスクイズだった。
沢村君は打球の勢いを殺してピッチャー前に転がしたけど、成宮の素早いフィールディングで原田へと打球をグラブトスし、本塁でクロスプレーになる。
ほんの一瞬の差でタッチが早いと判定され、本塁でアウトを取られてしまった。

青道スタンドは騒然とした様子で言葉を失っている人と、スクイズ失敗に絶叫する人で二分された。
沢村君の転がした打球も、御幸のスタートも、決して悪くなかった。
スクイズが決まったと誰しもが直感したはず。
それにもかかわらず、スクイズを阻止した成宮の鬼気迫るプレーに誰もが圧倒されていた。

続く白州も、成宮の全力投球を前に三振に切って取られた。
あれが、チームを勝たせる投手のピッチング。
去年よりもずっと磨き上げられたフィールディングに、的を絞らせない完成された投球術は、全国トップクラスの投手と言えるだろう。
認めるのが悔しいけど、成宮は良い投手だと思う。

「いよいよラストイニングだね……」
「あとアウト三つで、甲子園ですよ!」

唯が声を弾ませ、幸子はグラウンドへ向かって選手たちへと檄を飛ばしている。
私はさっきからずっと気分が落ち着かなくて、浅い呼吸を繰り返す。
球場の酸素が急に薄くでもなってしまったかのように、息がしづらい。
最終回のマウンドに立ったのは、好投を続ける沢村君。
私は胸の前で手を組み、静かにグラウンドの選手たちを見渡す。

もしも、今ここに小湊がいたら。
どれほど頼もしかったか、どれほど嬉しかったか。

想像するだけで壊れかけの涙腺が緩みそうになる。
でも、この一点リードの展開は小湊が後を託した選手たちが実現させたものだ。
もうここまで来たら、信じるしかない。私たちの想いを、彼らに託すしかない。
グラウンドで戦っている選手たちが、願いを繋いでくれると、強く信じて。

「あとアウト一つ……!」
「お願いみんな、頑張って……!」

先頭の代打矢部をセカンドゴロ、一番神谷を浅いレフトフライに打ち取り、青道高校はいよいよ九回裏二死という場面を迎えた。
汗なのか涙なのか、判別がつかない何かが頬を伝って止まらない。

あとアウト一つで、夢に手が届く。
青道が、甲子園に行ける。

小湊と交わした約束が、叶う。





キンッと金属の快音が鳴った瞬間、鋭い打球が低い弾道を描きながら右中間を切り裂いて、落ちた。

私はその打球を目で追いかけながら、一瞬にして頭の中が真っ白になった。
つい数分前に思い描いていた、甲子園でプレーする選手たちの姿も「約束、叶えましたよ」と言う小湊の笑った顔も、全部が真っ白になって、消えた。

二塁に滑り込んだ吉沢が猛然と本塁へ疾走し生還して、稲実ナインがベンチから飛び出して一斉に抱き合っている。
いったい何が起きたのか、これは現実なのか。
混乱したままの脳は、情報処理が追いつかない。

『稲実のサヨナラ勝ちだ!』

観客の興奮した声を聞いて、いま何が起きたのか、ハッキリと理解する。


青道が負けた。
稲実が、サヨナラ勝ちをしたのだ。


球場が大きな声援と拍手でいっぱいに満たされているのに、私の耳には微かな音しか届かない。
閉会式が始まってもしばらくの間は、呆けたままグラウンドを見つめることしかできなかった。

ーーー西東京大会を制し、甲子園への切符を掴んだのは、稲城実業高校。

青道高校野球部の甲子園への挑戦は、幕を下ろした。





このグラウンドに足を踏み入れるのも随分久しぶりだなぁ、と懐かしくなって目を細める。
もうすぐ日没だというのに、まだ日中の蒸せ返るような暑さが空気の中に閉じ込められている。
このグラウンドから眺める夕焼け空は、相変わらずゆっくりとオレンジに焼けていく。

最後にこのベンチに来たのは、ちょうど一年前の夏大の準決勝が終わった、あの日の夕方だった。
あの時も小湊と二人で、このベンチの中で過ごした。
ずっと泣き続けていた私のそばに、小湊は黙ってついていてくれた。
まぶたを閉じればあの日の情けない私の姿が浮かんでしまって嫌になるから、ふーっと大きくため息を吐き出した。
そして、俯いていた顔を上げる。

「待ってたよ、小湊」

遠くから近づいてくる小さな足音を、確かに耳に捉えていた。
俯きがちな小湊の頬は、涙が流れた跡がまだ乾ききらないままで胸が締め付けられる。

「……どうしたんですか、わざわざ呼び出したりして」
「脚、大丈夫かなと思って。様子見に来た」
「しばらく安静にしていれば問題無いそうです」
「そっか。それなら良かった」

ベンチの端に腰掛けた小湊と少し距離を置いて腰掛ける。
本当は話したいことは沢山あるはずなのに、さすがに私も気が滅入っていて、重たい口がなかなか開いてくれない。

「……負けました」

本当に小湊のものなのか疑いたくなるほどに、弱々しく消え入りそうな声が耳に届いた。
私の頭の中は真っ白で、かける言葉も見つからずに開きかけた口を再び閉ざす。

「約束も叶えられなくて……すみませんでした」
「謝らないで! 今日の決勝戦、今まで見てきた試合の中で、一番強い野球だったと思う」

誇張するわけでもなく、お世辞でもなくて、心の底から思っていたことだった。
今までの公式戦や練習試合も含めて、何十試合も見てきたけど、今日が一番強い野球だった。
不作の年だと言われていた後輩たちが、西東京大会の決勝戦まで勝ち上がって、稲実と互角に戦った。
私はもうそれだけで、胸がいっぱいだった。

「確かにそうかもしれません。でも、今日勝てなければ……甲子園に行けなければ、意味が無かったんです」

涙声で力無くそう言った小湊は、項垂れて背中を丸める。
いつもはしゃんと背筋の伸びた背中も、強気な声も眼差しも、見る影もない。
小湊の気持ちが、心の中まで流れ込んでくる。
一年前の私も同じで、底無し沼に落ちていくような、出口の無い迷路に迷い込むような、そんな絶望感に陥っていた。

私は我慢できずに衝動的に立ち上がって小湊の前にしゃがみ込み、マメだらけの両手をぎゅっと握り締めた。
綺麗な励ましなんて出来そうにないけど、それでも言葉にしようと、勇気を振り絞って口を開いた。

「意味はあるよ。ここにある」

はっきりとした声で、真っ直ぐに小湊の顔を見上げながら、そう言い切る。
小湊の頬に涙が伝っては流れ落ちるのを見つめながら、私は心臓から溢れ出した声で語りかける。

「私も甲子園に行けなかったけど、今日の決勝戦を観て改めて思ったの。私の過ごしてきた二年半って、後輩たちが成長するための時間でもあったんだなって」

気がつけば私も泣いている。我慢なんて出来るはずがなかった。
小湊は静かに私の言葉に耳を傾けてくれている。
涙が溢れて止まらないけど、鼻をすすりながら話し続ける。

「甲子園には行けなかったけど、私の二年半の努力に意味はあったよ。小湊たちの存在が、その証明。みんな自慢の後輩だよ」
「……っ」
「本当は小湊もさ……今まで努力してきた意味を、見つけられたんじゃない?」

項垂れる頭が微かに頷いて、その様子を見て笑いながら涙を流す。
今は悔しくて自暴自棄になってるだけで、小湊は本当に大切なことをちゃんとわかってるはずだって、わかっていた。
しゃくり上げながら泣く小湊の隣で、私も悔しくて堪らなくて泣き続けた。
小湊と出会ってから一緒に過ごした日々が、昨日のことみたいに思い出されて、余計に苦しくて、切ない。
私の気持ちはあの夏に取り残されたままなんだと、改めて思い知らされる。


「……みょうじさん、目が真っ赤ですよ」
「……小湊だって鼻赤いよ」
「お互いに酷い顔ですね」
「一生のお願いだから、今日見たものは全て忘れて」
「忘れませんよ……絶対に」
「後でみんなに言いふらす気でしょ! 後輩より号泣する先輩とか、ネタでしかないもんね!」
「……みょうじさんは相変わらず空気が読めませんね」

相変わらずとはなんだ! と目くじらを立てても、小湊は「その顔で怒っても怖くないです」と軽く一蹴した。
お互いに泣くだけ泣いて、それでもまだ悔しくて堪らなくて。
今は空元気なだけだけど、小湊はきっと大丈夫。この悔しさからも立ち直れるはずだって、そんな気がする。
だって、結城がいるし、伊佐敷もいるし、丹波だって増子だってクリスだってそばにいる。それに後輩たちもそばにいてくれる。
私が出来ることは、もう何も無い。あとは小湊次第だ。

「昔ね、東が『野球の悔しさは、野球でしか晴らせない』って言ってたの」
「はい」
「だからね、小湊も悔しくて諦めきれないって思ったら、野球続けた方がいいと思う」
「……もちろん、そのつもりです」
「それなら良かった」

泣き疲れて枯れた声に、いつもの意志の強さが戻る。
真っ直ぐに私を捉えた眼差しに、目を細めて応えた。
 

小湊はこれから前を向いて、今までと違う道を歩き始めるのだろう。
だから、私も早く自分の道を進んでいかなくちゃと、急かされるような気持ちになる。
立ち止まっていられないんだ、私も。いい加減に前へ進まなくちゃいけない。いつかこの恋が、笑い話になるように。私たちにとっての、過去になるように。