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23. 祈りの朝に、願いは白く瞬いて


ゆったりと意識が浮上して微睡みながら薄く目を開くと、カーテンの隙間から差し込む白い朝日が足元に光の水溜りを作っていた。
寝ぼけながらもスマホに手を伸ばしてロック画面を確認すると、時刻は五時半になったばかり。
設定していたアラームよりも早く目覚めてしまってもう一度まぶたを閉じるけど、寝過ごす予感しかしないのでベットから起きがって洗面台へ向かう。

大学生になってからは高校生の頃よりも、身支度に時間がかかるようになった。
たっぷり泡立てた洗顔フォームで顔を洗い、化粧水や乳液をぺたぺたと塗りつけ、入念に日焼け止めを塗り込む。
ファンデーションやチークで顔色を整えて、眉を描き、まぶたには控えめにブラウンのアイシャドウを。マスカラで睫毛を立ち上げて、最後につやっとするコーラルのリップを塗って仕上げる。
自分なりに試行を凝らしたナチュラルメイクを完成させ、毛先はアイロンでワンカールさせて、最近買ったばかりの半袖のブラウスに袖を通した。
前回の反省を生かしてスニーカーを履いてから、変な格好じゃないか玄関の全身鏡の前に立ってチェックする。気合いは入りすぎてないけど手は抜いてない風だ。
うん、これなら大丈夫なはず。
毎朝六時に起きるお母さんがリビングの戸を開ける音がして、おはようと挨拶するとびっくりして目を丸くする。

「どうしたのあんた、こんな朝早くに。決勝戦はお昼からでしょ?」
「ちょっと呼び出されてさ。さすがにまだ早いから、このあと一旦家に帰ってくるよ」

お母さんは不思議そうに首を傾げながらも、誰に呼び出されたかまでは詮索せず「いってらっしゃい」と送り出してくれた。
早朝に自転車に乗って青道まで行くのは久しぶりで、懐かしい道のりにペダルを漕ぎだす足は軽い。
軽快なペダリングとは裏腹に、昨日の夜からずっと気持ちが落ち着かなくて、嫌な予感で頭の中がいっぱいだった。
一昨日見せた小湊の真剣な表情には、微かに不安の色が混ざっているような気がしていたから。
明確な根拠なんて無いけど、経験上この嫌な予感は外れてくれないことがほとんどだった。
杞憂であればいいのにと願いながら、速度をまた上げる。
青道までは、あともう少しだ。







「おはようございます。朝早くからありがとうございます」
「おはよ。起きられたから良かったけど、いくらなんでも朝早すぎない?」
「すみません。人目を避けたかったので、こんな時間に呼び出しました」

指定された時間通りに室内練習場に顔を出すと、すでに小湊が待ち構えていた。
今日は決勝戦だし、さすがに緊張してるかな? と思ってみれば、いつもと変わらぬ調子で逆に私の調子が狂いそうになる。
なんなら卒業生の私の方が緊張していると思うくらいに、小湊はいつも通りだ。
本当に頼もしいというか、神経が図太いというか。

「まぁ、別にいいんだけどさ。それで、早朝に先輩を呼び出してまで頼みたいことって、一体なんなの? 」

結局のところ、昨晩のメッセージは集合場所と時間しか送られていただけで、用件は伏せられたままだった。
早急に話を進めたかった私が、小湊よりも先に本題を切り出す。
すると、小湊はジャージのポケットの中からテーピングとアンダーラップを取り出して差し出してきた。いったい何のことやら訳がわからなくて、私の目は点になる。

「テーピングの巻き方を教えてもらいたくて」
「え? どこか痛めてるの? いつから?」
「・・・・準決勝の時に、脛を」
「・・あのホームでのクロスプレーの時か」
「よくわかりましたね」
「あの時キャッチャーとがっつり接触してたもんね。実は心配してたんだよ」

嫌な予感はそれは見事に的中してしまって、軽い目眩でふらつきそうになるのをなんとか踏ん張った。
プレー中の怪我は致し方ないことではあるけど、今ばかりは仙泉のキャッチャーを恨みたくなる。
うちの後輩に何してくれたんだ、まったく。
ため息をつきたくなるのを我慢して飲み込み、カウンセリングを続ける。

「医者には診せたの?」
「いえ」
「なんで?」
「脚を痛めたことに誰も気づいていないので、報告するまでもないかと」
「・・はぁ」
「そんな盛大にため息つかないでください」
「ため息くらいつかせてよ・・」
「手のかかる後輩ですみません」
「手がかかってる自覚はあるんだ」

今度こそ耐えきれなくて、さっきよりも大きく深いため息を吐き出した。
私はかなり動揺しているというのに、小湊は平然と悪びれる様子もなく謝るんだから呆れてしまう。
どこまでも太々しいヤツなのだけど、だからこそ青道のレギュラーが務まるんだろう。

「脚を痛めてることを隠してるから、貴子じゃなくて私を頼ってきたわけか」
「まぁ、そういうわけです」
「・・ねぇ、小湊。今からでも間に合うから、監督に報告しに行こう」
「それは出来ません」
「どうして?」
「ようやく決勝まで来たんです。あと一つ勝てば甲子園なのに、こんなところでスタメンを外されたくない」
「それは、そうかもしれないけど・・!」

小湊は私の提案を険しい口調で一蹴し、頑なな態度を示してきた。
監督は選手のその日のコンディションや、怪我や故障の様子も加味しながら、選手の起用方法や采配を考えなくてはいけない。
小湊の怪我の場合は、擦り傷程度では済まされない。本来なら怪我を負った報告は必ず監督にしなければいけないはずだ。
きっと自分自身でも、怪我をしたことを報告するか否かについては相当悩んだはず。
怪我をしたことを報告しないメリットもデメリットも頭に入れた上で、小湊は監督には報告しないという選択をした。
私からの提案でも、今更考えを改めるつもりはないんだろう。

小湊は拳をきつく握りしめる。
怪我はプレー中のことだから誰のせいでもない。それでもきっと、怪我をした自分自身を叱咤しているのだ。
小湊は昔から自分に厳しすぎる。

「初戦から全試合でスタメンだった俺が欠場したら、稲実にトラブルがあったと勘付かれます。・・それより何より、メンバーを動揺させたくない」
「・・脚を痛めた状態で、どこまでプレーできるの?」
「それは・・わかりません。でも、少しでも俺がチームの足を引っ張るようなことがあれば、倉持から監督に言ってくれと頼みました」

小湊の言葉を聞いて、頭の中でスイッチがカチッと入った。カァッと瞬間的に顔へと熱が集まっていく。
湧き上がる怒りを抑えることを忘れて、思ったことをそのまま言葉にする。

「なに言ってるの? 自分の状態が一番よくわかるのは自分でしょ。交代の判断を倉持に任せるのは、絶対におかしいよ」
「・・」
「倉持は小湊のことを心から尊敬してる。そんな尊敬する先輩と勝利の瞬間、一緒にグラウンドに立っていたいって・・倉持ならきっと、そう思うはずだよ」

自分でも冷静じゃないってわかっていたけど、頭が沸騰しすぎて自制が効かなくて言いたいことを全部言ってしまっている。
怒りに任せて一気に捲し立てたせいか、私のあまりの剣幕にさすがの小湊も大人しく話を聞いている。
小湊は倉持のことを信頼しているからこそ、交代の判断を任せようとしていた。
でも、倉持の気持ちを考えた時に、尊敬する小湊に向かって「足を引っ張っているので交代して下さい」と言えるはずがない。
そんなことは冷静に考えればすぐにわかることなのに、小湊は倉持に交代の判断をさせようとしたのだ。
それは絶対におかしいって、今ここで私がはっきりと言っておかなければいけない。

「小湊に多少の無理をしてもらっても最後まで試合に出てほしいって・・倉持ならそう願うと思うよ。でも、それは小湊の本意じゃない」
「・・その通りですね。ほんと、みょうじさんには昔から敵いませんよ」
「元マネージャーを舐めんなよ」
「こんな風に怒られるの久しぶりですね」
「そうかもね」

私が仁王立ちで腕組みして息巻いて見せると、小湊は観念したかのように張り詰めた表情を崩して、その隙間から自嘲の笑みを零した。
その様子を見て、私の意見に納得してくれたことを察する。物分かりが良くて話が早いのも、小湊の良いところなのだ。
ようやく腹をくくったのか、小さく息をついてから真っ直ぐに私の目を見る。
私もその眼差しを真っ直ぐに受け止めた。

「みょうじさん・・俺、試合に出たいです。自分の納得できるプレーができなくなるまでは、グラウンドに立っていたい」
「・・・・」
「だから、怪我のことは監督には言いません。でも、自分の限界は自分で決めます」
「・・うん」
「みょうじさんにしか頼めないんです。テーピングの巻き方を教えてください。お願いします」

姿勢は四十五度前傾させてきっちりとお辞儀されてしまうと、冗談でも「嫌だ」とは言えなくなってしまう。
いつになく真剣な声色で頼み込まれたら、断れるわけなんてない。
というか、そもそも私が頼まれたら断れないタイプだとわかってるから呼び出したんだ。確信犯だ。ここまで計算尽くなんだろう。
まるで犯罪の片棒を担がされているかのような罪悪感で、頭が痛くなってきた。
選手の怪我に気付きながらも報告を怠れば、あとで監督や高島先生に謝罪する必要もある。
そうなった時は一緒に頭を下げてあげよう、と私も腹をくくることに決めた。何よりももう悩んでいる時間すら無い。
引退した身でも先輩として出来ることがあるのなら、全力で協力してあげよう。
せめて今できる最善の準備をして、小湊をグラウンドへ送り出してあげたい。

「テーピングはプレー中の痛みを少しでも取り除くための補強しかできないよ。それでもいい?」
「はい」
「我慢できないくらい痛いのに無理したり、無茶なことはしないって・・約束できる?」
「約束します」
「絶対に?」
「絶対に」
「・・わかった。その言葉を信じるからね。脚出して」
「ありがとうございます」

ベンチに腰掛けさせてズボンを捲ると、まだ熱を持って腫れている脛が痛々しい。痛めた直後に冷やし切れていなかったんだろう。
あの後は確か球場に残って二試合目を見ていたし、患部を冷やす暇はなかったはずだった。
もし、小湊から声をかけられたあの時に怪我に気付いていれば、何か出来たことがあったかもしれない。
そう思うと今になって後悔で酷く胸が痛む。鼻の奥がツンとして、目頭が熱くなってきた。
どうしてこんな大事な時に怪我をさせてしまったのか。こんな仕打ち酷すぎるよ、野球の神様。あまりにも辛すぎる。

「なんでみょうじさんが痛そうな顔してるんですか」

小さい子供をあやすように、柔かい声が耳元をふわっと撫でる。私は冷静を装いながら、内心はとても取り乱していた。
どうして、なんで、と心の中で何度も叫ぶ。
野球の神様の理不尽さに怒り狂いそうなのに、小湊はどうしてこんなに冷静でいられるんだろう。
せめて小湊の力になってあげたいと思うのに、今の私にはテーピングの巻き方を教えてあげることしかできない。出来ることなんて、たったのそれだけ。
それが悔しくて悔しくて、心臓が張り裂けそうに痛む。

「小湊の痛いのを、私が代わってあげられたらいいのになって。本気でそう思うよ」
「代わってなんかあげませんよ・・絶対に」

この怪我の責任は全て自分にあるのだと、私を突き放した。これは小湊の優しさだ。
とうとう我慢できなくて溢れた涙が一筋、頬を伝うのを見られたくなくて、顔を伏せる。
膝に軽く額を添えると、そのまま少しのあいだ祈るようにまぶたを閉じた。

小湊がいつものプレーを出来ますように。
なるべく怪我が痛みませんように。
最後までグラウンドに立っていられますように。
今日勝って、甲子園に行けますように。
強く強く、願う。心の底から祈った。

不意に後頭部に重さを感じる。
それは小湊の温かな手のひらだとすぐにわかる。落ち込む私を慰めるように、励ますように、二、三度髪を撫でた。
喉の奥がきゅっと苦しくなる。無性に小湊の手のひらに触れたくなる。そんな欲を固く目を閉じて封じ込めた。

こうやってまた自覚する。
私は小湊のことが、まだ好きなんだと。


「・・ありがとう」
「お礼を言うのは俺の方ですよ」

過去を悔やんでも、とうに過ぎたことなら仕方がない。
小湊は現実をしっかりと受け止めているようだ。私も頭を振って無理やり思考を現実に切り替える。
泣き言を言っている暇すら、もう残されていない。

テーピング類を受け取り、まず先にアンダーラップを巻いてから、キネシオテープで脛を補強するように貼っていく。
手順を説明しながら巻いていると、時々痛みに顔を歪ませていたので、キツすぎず緩すぎない力加減に手間取ってしまう。
いくつか手順についての質問に答えながらも数分で巻き上げると「すごいですね。痛みが少なくなりました」と感心したようにテーピングが施された脚を見つめる。

「どう? キツくない?」
「これくらいがちょうどいいです。ありがとうございます」
「動いたら緩むから、時間ある時に巻き直した方がいいかも。巻き方は覚えられた?」
「問題ないです」
「じゃあ、もう大丈夫だね」
「みょうじさん」
「ん?」
「あの日の約束、覚えてますか」

頭の上から降ってきた問いかけに跪いたまま顔を上げると、小湊の真剣な顔がすぐそこにあって息が止まりかけた。
小湊の言う『あの日の約束』は忘れられるはずもなくて、今もなお心の真ん中に居座り続けている。
私の胸中なんて知る由もない小湊は、顔を強張らせて私の答えを待っている。

「・・私も一緒に甲子園に行くんでしょ? もちろん覚えてるよ」
「今日勝って甲子園に行きます。なので、八月の予定はちゃんと空けておいて下さい」
「わかった! 甲子園の決勝戦の日まで、ちゃんと空けとくね」
「そこまで連泊したら宿泊代だけで破産しそうですね」
「怖いこと言わないで!」

悪い笑みを浮かべる小湊は、すっかりいつもの調子に戻っている。ズボンの裾を下ろしてしまえば怪我をしているかわからないほどだ。
立ち上がった小湊に続いて、私も膝を払って立ち上がる。目線が同じ高さになると急に気恥ずかしい気持ちになるから、誤魔化すように笑ってみせた。

「今日も応援よろしくお願いします」
「応援は任せて! チャンテをたくさん歌わせてね」
「善処します」
「今日も暑いからちゃんと水分補給すること! あと脚が痛むようなら適宜アイシングして」
「わかってますよ。みょうじさんって本当に心配性ですね」
「心配くらいさせてよ。・・私は小湊の先輩なんだから」

そうだ。私はただの先輩で、小湊はただの後輩なんだ。自分に言い聞かせるように言葉を選ぶ。
私はただの『先輩』で、それ以上でも以下でもない。それはこれから先もずっと変わらない事実だから、小湊にも安心してほしかった。
先ほどから話していると時折、小湊の声が切なげに掠れることに気づいていた。
きっと私からの告白を断ったことに、いまだに罪悪感を感じているのかもしれない。
それでも私たちは、あの日に選択したんだ。
私は小湊に告白することを、小湊は私の告白を断ることを。
お互いにお互いの最善を選択したのだから、小湊も私の前で堂々としていてほしい。だから、私は精一杯の強がりな笑顔を見せる。
私はもう大丈夫だよって、言葉にしなくてもわかってもらいたかった。
小湊は私の意図を知ってか知らずか、曖昧な笑みで応える。

室内練習場に着いて三十分ほど経つと、屋外に人の気配が増えてきた。
まもなく朝食の時間になるので、私たちは見つからないようにこっそりと敷地外へと抜け出す。

「じゃあ、またあとで神宮で」
「うん、またあとでね」

掲げられた右手に私の左手を軽快に重ね合わせる。手のひらに痺れたような感覚が残るこの感じが、とても懐かしい。
勝利を約束するハイタッチを交わして、私たちはそれぞれの場所に、それぞれの役割を果たすために向かっていく。
小湊はグラウンドで、私はスタンドから、勝利のために汗を流し、後輩たちにエールが届くように声を枯らそう。

見上げた空は朝日の眩しい白い色から、すでに夏の突き抜けるような青さに塗り替えられていた。
今日はきっと、この夏一番暑くなる。根拠なんかなくても、それでも確信があった。


青道高校六年ぶりの甲子園出場を懸けた決勝戦のプレーボールまで、残りあと六時間。