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22. サインを見逃さないで


どうしてこんな大事な日に限って、レポートの提出期限と重なってしまうんだろう。
車窓を流れていく景色を睨みながら、心の中で何度も悪態を吐いていた。
私がもっと早くレポートを書き始めていれば良かったのだろうけど、もうすでに過ぎたことなので諦めるしかない。

私の乗り込んだ車両はホームの一番端でぴたりと止まって、改札までの距離が遠いのがもどかしくてつい早足になってしまう。
やっと最寄り駅までついたのに、ここから早足でもあと十分はかかるんだから嫌になる。
JRの改札を出てみると、景色は日差しの照り返しで白く眩しい。
暴力的な日差しの強さに一瞬、屋外へ飛び出すのを躊躇ってしまう。
まだ昼前だというのにアスファルトとフライパンのように熱せられて、もやもやとしたゆらめきが地面から立ち昇っている。
こんな日に限って日傘を忘れきてしまった自分の愚かさを再び嘆くけど、ロック画面で時間を確認して仕方なしに腹をくくった。
さっき試合速報を確認した時には、試合はすでに四回裏が終わっていた。
躊躇してる余裕なんて無い。少しでも早く、球場に着きたい。

一段飛ばしで歩道橋を駆け上がり、サンダルのヒールをかちゃかちゃと鳴らしながら一気に下る。
そのまま道なりに走り、いつものビアガーデン、絵画館、軟式球場とバッティングセンターの間を通り過ぎて、やがて神宮第二球場と神宮球場のバックスクリーンが見えてくる。
最後の横断歩道で信号待ちをしながら、止めどなく吹き出てくる汗を拭う。
サンダルじゃなければもっと早く走れたのに、と心の中で舌打ちして、次回からは絶対にスニーカーを履いてこようと強く決意する。

信号を渡って神宮球場の外壁を右手に見上げながら、正面の券売所まで急いで入場券を購入し、5入り口から場内へ。
売店から漂う美味しいカレーやらうどんの香りが鼻先を掠めるけど、見向きもしないでスタンド入り口への階段を登りきって、そこでようやく息を整える。

差し込む日差しの場内へと一歩、二歩と踏み出せば、そこには懐かしい景色が広がっていた。

「……相変わらず眩しいなぁ、ここは」

青く突き抜けるような空を仰ぐと、真夏の太陽が視界を掠めて反射的に目を細める。
スタンドには観客の行き交う声が弾み、ブラスバンドの演奏が高揚感を高め、試合の再開を誰もが今か今かと待ち望んでいる。
期待と興奮が球場いっぱいに膨れ上がっているこの雰囲気が、私はとても好きだったことを唐突に思い出した。

「あら、みょうじさんじゃない 」
「高島先生! お久しぶりです。来ちゃいました」

ぼうっとスタンドを見渡していると、背後から懐かしい声が聞こえて慌てて振り返る。
そこには微笑を浮かべた高島先生がいて、相変わらずの美しさに少し照れてしまう。

「応援に来てくれたのね。選手たちも喜ぶわ」
「えへへ……そうだといいんですけど」

高島先生はいつどこにいたってきっちりと正装で、トレードマークのポニーテールはいつだってさらさらで、ヒールの高いパンプスをコツコツと小気味よく鳴らして歩く。
まさに大人の女性って感じで、昔からこっそり憧れている。

「でも、どうしてこんなところで立ち止まっているの? 向こうにたくさんOBも来てるわよ」

高島先生は不思議そうに問いかける。
私はグラウンドを見渡しながら口を開いた。

「スタンドから見る景色が久しぶりだったので、つい見入ってました」
「みょうじさんは一年生の秋から記録員だったものね。久しぶりに感じるのは無理もないわ」
「フェンスが隔ててるだけで、こんなにもグラウンドが遠く感じるんですね」

スタンドからだとグラウンドやベンチはとても遠くて、なんとなくここは居心地が悪い。
今までの私の居場所は、あのベンチの中にあった。記録員としてスコアをつけたり、情報共有するという役割があった。
監督や選手たちのそばにいて、一緒に最前線で戦っている時のあの張り詰めた空気感が、たまらなく好きだった。
それなのに今は、フェンスの外側からグラウンドを眺めていることしかできない。
引退するって、そういうことだ。

胸の中に寂しさとか、虚しさとか、悔しさとか、もどかしさとか、いくつもの複雑な感情がこんがらがって混ざり合って、私の足は立ち止まったままその場から動けずにいた。
私が今いる場所は、戦いの最前線じゃない。
そんなことわかりきっていたはずなのに、球場に来てみて改めて実感する。
少し見ない間に後輩たちはどんどん成長して、ものすごいスピードで前へと進んで行く。
まるで、私だけが置いていかれてしまったみたいに感じてしまうのが、たまらなく寂しかった。

「……もしかしてセンチメンタルな気分なのかしら?」
「そうなのかも、しれません」
「一年前は貴方がベンチに入っていたんだもの……感慨深いわね」
「はい」

高島先生の昔を懐かしむような穏やかな声色が、耳に心地いい。
伏し目がちのまぶたにはアイシャドウのラメが控えめにきらめいて、長く伸びた睫毛は頬に影を落とす。
高島先生のグラウンドを見つめる眼差しは、いつだって程よい緊張感と慈愛に満ちている。

私もグラウンドへ視線を向けると、探さなくてもすぐに背番号4を見つけた。
ベンチ前で二遊間を組む倉持と談笑しながら、素振りを繰り返している。
そのスイングは一年前よりもずっと鋭くシャープで、小湊の積み重ねてきた努力の痕跡が垣間見えた。
私の知らない一年間が、今の小湊を象っている。
それが誇らしくもあり、それと同時に寂しくもある。

「でも、スタンドからの景色も良いものよ。グラウンド全体を俯瞰して見られるから、一人ひとりの選手の動きがよく見えるわ」

高島先生の言葉で急に目が覚めた気分になって、視野が広がったような感覚に目を見開いた。

確かに、ベンチの中ではグラウンド全体を俯瞰できなかった。
でも、スタンドからだと、打者ごとに守備位置を変える野手の動きとか、次の塁を狙おうとする走者の動きとか、すべてが同時に視界に収まる。
目に映るものすべてが新鮮に感じるこの感覚は、一年生の夏に初めて神宮球場のスタンドで応援した、あの頃に感じたときめきとまったく同じものだった。

「みょうじさんも少し離れたところから、チームを見守る立場になったのね。出会った頃よりもずっと、大人になったわ」

高島先生はにっこりと笑顔を添えて、素敵な言葉をプレゼントしてくれた。
一人で勝手に感傷的になって、センチメンタルを拗らせていた私の気持ちを救い上げてくれるのは、いつだって憧れの人だ。私もつられて頬が緩む。

「ありがとうございます! そう言ってもらえて嬉しいです」
「さぁ、行きましょう。グラウンド整備も終わるわ」

ポニーテールを颯爽と揺らして、高いヒールを鳴らす後ろ姿に続いて、私も歩き出す。
さっきまで胸中に渦巻いていたセンチメンタルは、いつのまにか綺麗さっぱりどこかへ消えてしまっていた。



「ごめん! 遅くなっちゃった」
「なまえ先輩、待ってましたよ」
「お久しぶりです!」
「お待ちしてました〜!」
「なまえ先輩の席です、どうぞ!」
「私の分まで空けておいてくれたんだ、ありがとう」

高島先生の誘導で最前列にいるマネージャー陣の元へと案内されると、とても賑やかに歓迎されて驚いた。
頼んでもいなかったのにちゃんと席を取っておいてくれたし、メガホンまですぐ手渡されて、まるで私が必ず応援しに来るってわかっていたような用意周到ぶりだ。

「でも私、試合観に行くって言ってなかったよね? 」
「亮介君から『みょうじさんなら絶対来てくれるから席確保しておいて』って頼まれてたんですよ」
「えっ、そうだったの? 」
「亮介先輩には応援しに行くって連絡してたんですね!」
「前から思ってたんですけど、なまえ先輩と亮介先輩って仲良しですよね」
「もしかして、亮介先輩と付き合ってるんですか?!」

小湊が貴子に私の分の席を確保しておくように頼んでいたのは、寝耳に水だった。
幸子と唯は頬を染めて前のめりに同意を求めてくるけど、そもそも小湊とは連絡すら取っていなかった。
春乃ちゃんは大きな瞳をきらきらと輝かせながら、豪速球のどストレートな質問を投げてくるし。
そして、高島先生もさりげなくこのやりとりに聞き耳を立てているのだろう。

そもそも、私は卒業式の日に小湊に告白して、すでに振られている。
付き合うもなにも、関係すら始まらなかった。
あの日のことを思い出すと、今だに心臓が鷲掴みにされるように、痛い。

「いやいや、付き合ってないよ!」
「えぇ、なまえ先輩が彼女じゃないんですね」
「じゃあいったい誰が彼女なの?!」
「えっ……ていうか小湊って彼女いるの?」

幸子の口から『彼女』という予期せぬフレーズが飛び出して、一瞬にして全身に悪寒が走る。
肌の表面が泡立つ感覚と、冷や汗がじんわり背中に滲む感覚がものすごく不快で、気持ち悪い。
いつかそんな噂を耳にする日も来るんだろうって覚悟してたはずなのに、やっぱり想像していた以上にキツイ。
好きな人に彼女ができた時って、こんな気持ちになるんだ。

いまいち現実を受け止めきれていない私に、幸子は興奮気味に身を乗り出して問いに答える。

「詳しいことは教えてくれないんですけど、彼女がいるんじゃないかって噂になってるんです!」
「バックにいつも付けてるミサンガがあるんですけど、イニシャルまで入っててすごく凝ってるから、彼女から貰ったんじゃないかって噂になってて」
「でも、誰から貰ったんですか? って聞いても『内緒』とだけしか答えてくれなくて……」
「ちょっとみんな! なまえ先輩も困ってるからそこまでにして。試合も再開するわよ」

貴子が制止するまで矢継ぎ早な恋バナは終わりそうにもなかった。
さすがは貴子だ。いいタイミングで止めに入ってくれた。周囲に気づかれないように小さく胸を撫で下ろす。

六回表は青道の攻撃から試合が再開する。
グラウンドの選手たちはすでに臨戦態勢に入っているようだ。
さっきまで恋バナに花を咲かせていた後輩たちも、貴子の鶴の一声にすぐさま緊張感を取り戻した。
私も早く気持ちを切り替えなくちゃ、と思うのだけど、動揺した気持ちが抑えられそうにない。
どくりどくりと脈打つ皮膚の内側まで熱くて、頬に手を添えて体温を確かめる。
小湊がバックに付けているミサンガは、おそらく去年私があげたものだろう。
まさか、あのミサンガをまだ持っていたなんて驚きしかない。
だって、告白されて振った先輩からの貰い物なんて、気まずくて手元に置いておくのも気が引けるはずなのに。
それでもまだ大切にしてくれているんだ。しかもちゃんとみんなには小湊だけにあげたことを『内緒』にする約束まで、律儀に守っている。
私のあげたミサンガを手元に置いておくことに、きっと深い意味は無いんだと思う。
きっとミサンガを結んで外すタイミングが無くなってしまって、そのままバックにぶら下がったままなんだろう。
それでも、そうだとしても、嬉しいと思ってしまう。
胸の奥に焦げ付いた未練がちりちりと燻って、ヒリヒリする。

先頭打者の小湊が打席に立つ姿が、ずっと遠くに見えている。
まだどうしようもなく、好きだなぁ、と思う。
こうしてまたグラウンドで躍動する姿を目に焼き付けては、胸の奥まで焦がしてしまう。
いっそ嫌いになれたらとさえ思うのに、その姿はあまりにも鮮やかで、眩しくて、いとおしくて。

私のモヤモヤとした胸中を切り裂くように、小湊のバットからキンッと快音が響く。
あの弾道はヒットになる、と確信した瞬間に叫んでいた。

「小湊、ナイバッチー! 」
「亮介君、ナイバッチ! 」
「先頭出たぁ!」

幸子が興奮気味にメガホンを打ち鳴らして、私と貴子ははしゃぎながら歓声をあげる。
あぁ、そうだ。スタンドで応援するって、こんな感じだった。
ヒットが出れば拍手の代わりにメガホンを打ち鳴らすし、得点が入ればみんなが喜びを爆発させてスタンドが揺れるのだ。

三番伊佐敷はヒッティングでレフトにライナーを飛ばすも、捕球されてワンアウト。一塁走者の小湊は動けず。
続く四番結城もカーブを捉え、センター方向へのヒットで出塁し、一死二・三塁のチャンスメイクをして、美味しい場面で五番増子に回ってきた。

「スクイズもありだよね」
「犠牲フライでも一点入るわ」
「バッテリーエラーもあるかもしれませんね」
「ここは増子先輩だし、ヒッティングでしょ!」
「ヒッティングでゴロゴーのサインも出してそう」

マネージャー陣は口々に次の攻め手を談義する。
確かにみんなが言うように、攻撃の選択肢はいくつもある場面だ。
増子は打席に入ってから上体を大きく仰け反らせて、いつものバッティングフォームを構える。
あの様子だとおそらくヒッティングで間違いないだろう、と確信する。
増子にバントのサインを出すと、いつも力んで肩が強張っていたのを思い出した。

スタンドはチャンステーマで増子を後押しする。
私も大きな声を出してグラウンドへと響かせる。
真木の投じた初球は、またも大きく曲がるカーブで、増子はボールをバットの先で捉えてサード方向へ転がす。
三塁走者の小湊はどうするのか、と目を向けた瞬間にすでにスタートを切っていた。
サードがバックホームするも、迷いなくホームへと突入する小湊とキャッチャーのクロスプレーになる。
小湊は減速することなく体当たりでホームインした。
小湊の生還か、キャッチャーのタッチのどちらが速かったのか、ここからだと遠過ぎて判断がつかない。
一瞬、間があって球審が両腕を水平に広げるジェスチャーを繰り返した。
どうやらキャッチャーがボールを取りこぼしていたらしい。

「セーフだ!」
「これで同点!」
「やった! さすが亮介君!」
「まだワンナウト一・三塁のチャンスですよ!」
「まだまだここから! 畳み掛けるよー!」

青道側の得点に1が点灯した瞬間に、球場内が歓声に湧き上がった。
ブラスバンドは高らかにファンファーレを奏で、青道側スタンドは歓喜の声に溢れている。

私は小湊の様子が気になって、目を凝らして観察すると普通に歩いている姿が見えて、肩から力が抜けていく。
クロスプレーの時にキャッチャーと接触していたし、どこか痛めてないかとヒヤヒヤしたけど、どうやら大丈夫らしい。
ベンチにいる選手たちとハイタッチを交わす小湊の姿が確認できた。
続く六番御幸は敬遠され、満塁とチャンスは続く。
七番坂井は三振を取られ、八番丹波の打席で告げられた代打に、青道スタンドは騒めいた。

「え、あれって小湊の弟じゃん! 」
「彼、結構打つんですよ」

驚きの表情を隠せない私に、唯が得意げにそう教えてくれた。
しかも手にしているのが木製バットだと言うのだから、さらに驚く。
練習で木製バットを振ることがあっても、公式戦で手に取る選手とは初めて出会った。
金属バットなら多少は芯を外しても打球は飛んでくれるけど、木製バットは少しでも芯を外すとクリーンヒットにならなくて扱いづらい。
いつだかそう教えてくれたのは他でもない、彼の兄だった。

「打ったぁ!」
「いけ! もっと伸びろぉ!」

パキッと乾いた快音を響かせて、春市君の打球はレフト方向へぐんぐんと伸びていく。
幸子が「伸びろ!」と叫ぶ声に、私も両手を結んで祈った。
あの打球速度と角度だと、落下地点はおそらくレフトの定位置から少し奥ぐらいだろう。
レフトは背走で必死に打球を追いかけている。
どうやら定位置よりも前で守っていたらしく、やっとの思いでグラブを伸ばすけど、打球はそのグラブの少し先で弾んだ。

「わあああ逆転タイムリー!」
「よっしゃぁぁぁ!」
「やったぁ! やったぁ!」
「ナイバッチー! 春市君!」

幸子は力強くガッツポーズを決め、唯は勢いよく貴子に抱きつき、春乃ちゃんは両手を挙げてメガホンを打ち鳴らす。
私も声を上げて叫んでしまって、目が合った貴子に笑われてしまった。
走者一掃の逆転タイムリーツーベースヒットに、球場の空気は興奮の熱で一気に膨れ上がって、勢いよく弾ける。
青道スタンドからの声援はまるで地鳴りのように足元を震わせた。
二塁ベースに足を揃えてお行儀よく立つ春市君は、赤面しながらぎこちなくガッツポーズを掲げる。
その初々しい仕草に、人々は健闘を讃える歓声と拍手を贈る。

まるで夢でも見ているような、そんな浮ついた気分を一掃してくれたのは、継投した一年生サウスポー沢村君のピッチングだった。


「…….い、いきなりノーアウト一・三塁なんですけど」
「本当にすみません……」
「沢村君は発展途上の投手なんです! これからの投手なんです!」

思わず口を突いて溢れた不安に、貴子は平謝りをして、すかさず春乃ちゃんがフォローを入れる。
同期の選手が準決勝のマウンドに立つのだから、春乃ちゃんもさぞ意気込んでいるのだろう。
今の春乃ちゃんの姿と、一年生の頃の私の姿が重なって見えるような気がした。

仙泉の打者はスクイズの構えで、代わったばかりの沢村君を揺さぶる。
仙泉は要所で小技を使って要領良く得点したり、揺さぶって守備の乱れを誘ってくるような攻撃を仕掛けてくるチームだ。
予告通りにスクイズを仕掛けてくるとも限らない、と思った矢先に打者はバットを引いてヒッティングの構えに切り替えた。
打球はふわりと舞い上がり、セカンドの小湊の頭上を越え、センター前に落下する。
青道スタンドからは、悲鳴と意気消沈のため息が沸き上がった。
あっさりと追加点を奪われ、終わりの見えない攻撃に軽い目眩に襲われると、春乃ちゃんが心配してドリンクを差し出してくれた。
それを一口飲むと気が紛れるような気がして、春乃ちゃんの気遣いに助けられる。

気を取り直してグラウンドに視線を向けると、今度はあっさりと犠牲バントを決めてきた仙泉は、一死二・三塁のチャンスメイクをしてきた。
同点の走者を二塁に置き、青道のピンチは続く。
ここで青道は守備のタイムを取り、捕手と内野陣がマウンドに集まってきた。
伝令に走るのは先ほど逆転タイムリーを放った春市君だ。
キリキリと痛む胃のあたりをさすりながら様子を見守っていると、一度笑い声が上がった後に御幸がその場を締めて、各々のポジションへと駆け出していく。

ピンチの場面で迎える打者は、力投を続けてきた真木。
五回まで好投を続けてきたし、六回の四失点はさぞ悔しかっただろうと心中を察する。
きっと自分のバッティングで失点を取り戻したいと考えているはず。
人々の期待の眼差しは、仙泉エースと青道の一年生投手との勝負に注がれている。
祈るように握りしめた手のひらには、びっしょりと汗をかきながらも離すことなどできない。

沢村君は三球投げてカウント2ストライク1ボールにすると、次の四球目には渾身のボールを真木の胸元へと投げ込む。
球審の腕が高々と上がり、真木は見逃し三振に倒れた。
その瞬間、全身から力が抜けて思わず大きく息を吐き出した。
あまりの緊張感に無意識で息を止めていたらしい。

「ねぇ、春乃ちゃん」
「はい、なんでしょうか?」
「さっき春乃ちゃんが沢村君を発展途上だって言ってた理由、わかった気がする」

私がそう問いかけると、春乃ちゃんはにっこりと笑って頷いてくれた。
試合はまだ中盤。油断などできやしないけど、なんとなく試合の勝ち筋が見えたような気がする。
後輩たちなら大丈夫。絶対に勝ってくれる。
そう確信させてくれるのは、いつだって選手たちの全力のプレーだ。

緊張の汗を拭いながら、再びメガホンを握りしめて声を響かせる。
一点でも多く獲れますように、最少失点で勝ちきれますようにと、願いながら。








第一試合が終わって、球場を出る人と入場する人がごった返す人混みをかき分けて、監督の姿を探す。
すれ違う人々の興奮で上気した表情を横目に、試合に勝利した実感が少し遅れて湧いてくる。
西東京大会の決勝戦進出は三年ぶりのことで、お祝いも兼ねて監督に挨拶をしようと意気込んできたのに、どうやら取材対応でまだ場内にいるらしく姿が見えない。
しばらく待っていると、監督よりも先にユニフォーム姿のままの後輩たちが場外へと出てきた。
青道ファンは拍手で選手たちを出迎え、労いと賞賛の声をかける。
私も人混みに紛れて後輩たちに手を振ると、そのうちの一人が列を外れて私の前へと歩み寄って来た。

「みょうじさん、来てたんですね」
「小湊、お疲れ様! 決勝進出おめでとう! 」
「応援ありがとうございます。何回から来たんですか?」
「六回からだよ。途中から来たのバレてたんだ」
「試合前の挨拶で姿が見えなかったので。今日は随分と社長出勤なんですね」
「しょうがないじゃん。朝一でレポートを提出しに行かなきゃいけなかったの」

せっかく応援しに来たっていうのに、小湊は試合前から来ていなかったことに対していつもの調子で毒づくのだ。
私はむくれて頬を膨らますと、その顔を見て小湊は小さく吹き出した。
失礼なヤツだなぁと思いつつ、それでも憎めないのは惚れた弱みということなんだろう。
肩にかけたバッグをさりげなく盗み見ると、マネージャーたちが騒いでいたミサンガが付けられていて、それはやはり私が去年渡したものだった。

「….…そのミサンガ、まだ付けてくれてるんだ」
「ミサンガが切れると願いが叶うって、教えてくれましたよね。だからずっと付けたままです」

小湊はミサンガがよく見えるように、バッグを身体の前に持ち替えてくれた。
久しぶりに見るそれは、一年も付けっぱなしということもあって少しくたびれている様子だ。
私が受験勉強に専念している時も、慌ただしく大学生活を送っている時も、このミサンガはずっと小湊のそばにあったらしい。
小湊がどんな願い事をしながら結んだのかは知らないけど、それでも嬉しい。すごく嬉しい。にやけてしまいそう。

「早く切れて願いが叶うといいね」
「まぁ、切れなくても願いは叶えるつもりです」
「小湊の強気なところは相変わらずだね」

にこやかな表情でさらっと強気な発言をするから、三年生になって更に頼もしくなったなぁ、なんて感心してしまう。

「……みょうじさん、ちょっといいですか」
「ん? なに? 」
「折り入って頼みたいことがあって」
「別にいいけど……どうしたの? 」

さっきまでのにこやかな表情は真剣な表情に変わって、小湊は声を潜める。
いつになく真面目な雰囲気なので、私も少し緊張しながら応えると、手招きをされたので近寄って口元に耳を寄せる。

小湊が何か言おうとしかけた時に、「亮さん!」という声に遮られた。
あの声は多分、倉持だ。
視線を声の方へ向けると、倉持のすぐ隣には弟の春市くんの姿もある。
二人と目が合ったので小さく手を振ると、小走りで駆け寄ってきた。

「みょうじさんじゃないっすか! 来てくれてたんですね」
「応援ありがとうございました」
「倉持も春市くんもお疲れ様! 決勝進出おめでとう」

労いの言葉に笑顔を添えると、二人とも少し照れた様子で会釈してくれた。
片岡監督の指導のおかげか、はたまた先輩たちの仕込みが良いのか、後輩たちはいつだって礼儀正しくて気持ちが良い。

「それで? 用件はなんなの、倉持」
「沢村のヤツが見当たらなくて、どこにいるか知りませんか?」
「地元の友達のところに行っているらしいんだけど」
「沢村って、今日投げてたあの子か」

二人の話を聞いてみると、六回に登板したあの一年生投手が行方不明らしい。
小湊は小さくため息をついてから、向こう側の人混みを指差した。

「沢村なら見てないけど、いるとしたらあっちでしょ。探しに行くよ」
「はい! 」
「急ぎましょう、二試合目が始まっちゃいます」
「みょうじさん、話の続きは連絡するので」
「わかった。連絡待ってるね」

「またあとで」と言い残して、小湊は後輩を引き連れて颯爽と人混みに消えて行った。









「折り入って頼みたいこと」の概要すら知らされず、悶々と連絡を待つこと丸一日。
決勝戦前夜の二十一時を過ぎて、ようやく小湊からメッセージが届いた。
慌てて内容を確認して、ベットから転がり落ちそうになる。


『明日朝六時半に室内練習場まで来てくれませんか?』


……さすがにちょっと朝早すぎない?