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19. 青のエンドロール


夕暮れのグラウンドは静寂に包まれて、昨日までの活気が嘘のようにどっぷりと沈黙に沈んでいる。
まだ日も沈んでいないのに、バットを振る影の一つすら見えない。
訪ね人を探して広大な敷地を見渡すと、あっさりとその姿を見つけて捜索活動はものの数分で終わった。

先輩はスコアを書く時に使っていた椅子に腰掛け頬杖をつきながら、ただぼんやりとオレンジに焼けていく空を見つめていた。
名前を呼んで声を掛けると「小湊だぁ」とゆるく返事が返ってくる。

「やっぱりここにいたんですね」
「……もう見つかっちゃったかぁ」
「みょうじさんの考えそうなことなら、大抵わかりますよ」
「上手く隠れたと思ったんだけどねぇ」

先輩はいつもの締まりのない笑顔で冗談を言う。
俺はどんな顔をして話せばいいのかわからなくて、鼻をすすりたくなった。



神宮球場から帰寮した後、後片付けやミーティングに追われ、やっとひと段落ついたところで先輩の姿を見かけていないことに気づく。
なんとなく気になって辺りを探してみても、寮の部屋も、食堂も、室内練習場も、いたる所から押し殺した泣き声が聞こえてきて。
今ごろ先輩も一人で泣いているのかもしれないと思ったら、余計なお世話だとしても先輩を見つけるまでは探さずにはいられなかった。

そういえば、去年の夏はベンチの暗がりに身を潜めて一人で泣いていたような。
記憶の糸を手繰り寄せれば、先輩の居場所の検討はすぐについた。
グラウンドのベンチの中、スコアラー用の机と椅子は先輩の定位置、だった場所。
きっとそこに一人でいて、こそこそ泣いているんだろうと思って先輩の顔を覗き込めば、薄っすらと日焼けした頬には涙を流した形跡すら見られない。
今日、つい数時間前に準決勝で負けて引退したというのに、先輩はひたすらに穏やかで、いつもと変わらぬ雰囲気に違和感を覚えて、胸がざわつく。

「……泣いてないんですね」
「涙がね、出てこないんだよ」

薄く笑う先輩の横顔からは、悲しさなのか、はたまた喜びなのか、判別のつかない感情しか読み取れなくて戸惑う。
実際、試合に負けた瞬間も、ラストミーティングの時も、帰りのバスの車内も、後片付けに追われている時も、涙を浮かべる様子もなく淡々と仕事をしていた姿があった。
泣きじゃくる3年生たちの中で、先輩だけがいつも通りだった。
そのいつも通りの先輩の姿は、去年の夏に引退した先輩たちの前で見せていた、悲しさを押し殺し気丈に振る舞っていた姿と重なって見える。
ただ、今の先輩は去年とは少し違って、感情を必死に押し殺すような表情は一切見せていない。
絶対に悔しくて堪らないはずなのに、強がったり我慢をしている素振りすら見せないのが不思議で、どうしてだろうと考えた時、すぐに一つの答えにたどり着いた。
もしかしたら先輩は、まだ試合に負けたことを受け入れられていないのかもしれない。

今日負けて引退した事実を受けとめないことで、本当は悔しくて悲しくてどうしようもないはずの感情を、無意識に遠ざけているとしたら。
もしも、自分の殻の中に閉じこもって敗退した現実から逃避しているとしたら。

俺が先輩のためにできることが、あるとすれば、


「明日から寂しくなりますね」
「……そう? 」
「だって、朝一番に挨拶をすることもなければ、夜遅くまで自主練につきあってもらうこともないし」
「……! 」
「ノックのボール渡しも、試合でアナウンスすることも、真剣にスコアを書くことも……もう無いんですよ」

矢継ぎ早に畳み掛けると、先輩はだんだんと夢から覚めていくみたいに目を丸くして、俺の目をじっと見つめた。
その表情はみるみる青ざめて、嘘だと言ってと視線で訴えかけているようで、罪悪感で胸が鈍く軋む。
それでも、先輩の閉じこもっている殻を少しずつ破って引っ張り出すことが、俺が先輩のためにできる唯一のことだと自覚している。

見た目以上に繊細な心は、背を向けていた現実と向き合って、ミシミシと痛々しい音を立てて歪む。
やがて裂けてしまった傷口から、感情がぽろぽろと溢れ落ちてくる。
夕日を反射してキラキラと光る涙は、とても綺麗で、とても美しくて。

「……どうして、そんなこと言うの」
「青道が負けて、今日でみょうじさんが引退したからです」
「……やだ。聞きたくない」
「明日から、新チームが始まるんです」
「だって! まだ甲子園に……行ってないのに」
「俺たちが、甲子園に行きます」

これは誓いの言葉だ。
自分自身にも、先輩にも、絶対に甲子園に行くと強く誓うための宣言を、先輩は瞬きも忘れて、涙を零しながら聞き入っている。

試合終了の整列の時、呆然と身動きできなくなっていた先輩の腕を引いて、ベンチから連れ出した時を思い出す。
あの瞬間に触れた肌は、薄っすらと汗をかいてひんやりと冷たくて。
まだ手のひらに先輩の体温が残っている。
この手で溢れて止まらない涙を拭ったら、またあのひんやりとした温度に触れられるだろうか。
伸ばしたくなる手を理性で無理やり抑えつけて、たっぷりと間を取ってから言葉を紡ぐ。

「だから、来年の夏は必ず一緒に甲子園に来てください」
「……強制参加なんだ」
「それで同じ宿舎に泊まってください」
「引退したのにユニフォームの洗濯手伝えってこと?」
「そうです。ウタマロと洗濯板は貸し出しますよ」
「人使い荒すぎ!」
「みょうじさんなら可愛い後輩のワガママ……聞いてくれますよね?」
「……ほんっとに、最後の最後まで生意気だよね、小湊は……っ、」

顔を覆う手のひらが、言葉が、細い肩が、震えている。
やっと素直な感情を見せてくれたことに安堵して、さっきよりも先輩のそばに居たくなって、少し隙間を開けて隣に腰掛けた。
先輩の顔を覆って泣く姿を見ていると、幼い頃に春市がからかわれて泣いているのを慰めていた時のことを、ふと思い出す。
うなだれる頭も、丸まった背中も、涙を拭う手のひらも、小さかった頃の春市と重なって見える。
そんな弱さをさらけ出した姿がいとおしくて、心から支えたいと思った。
しゃくりあげて上手く息継ぎができなくなっている背中を優しく摩ると、押し殺していた泣き声は一段と大きくなって指の隙間から漏れ出す。


「……どうして、叶わないのかなぁ……みんな、毎日……努力、してきたのに、一度も……甲子園に……っ、いけなくて…………すごく、すごく悔しい……!」

不条理な現実に行き場の無い怒りが込み上げては、涙になって流れ落ちる。
俺は黙って先輩のか弱く震える背中を摩り続ける。
心の中に溜め込んでいた感情を、このまま全部吐き出させてしまおう。
先輩の中にある悔しさも、悲しみも、怒りも、そのすべてを受け止めて、決して忘れないよう胸に刻み付けたい。
これから先、試合の勝敗を決めるようなタイミングで、逆境に立たされることが何度もあるだろう。
そんな時にこの光景を思い出そうと誓う。

『絶対に甲子園へ行く』と強く動機付けるには先輩の存在があれば、それだけで充分だ。





「ちょっと落ち着きました?」
「……うん。泣きすぎて目が痛い」
「まぶたが腫れてますね。後で冷やした方がいい」
「あんまり見ないでよ、恥ずかしいから」

先輩は泣き腫らした顔を手のひらて覆って、指と指の間からじろっと睨みつけてくる。
残念ながら腫れぼったい目で睨まれても、怖くも何ともないんだけどね。

「真っ暗になっちゃったね」
「そうですね」
「こんな時間までつきあわせて、ごめん」

先輩は申し訳なさそうに頭を下げて謝る。おじぎが深すぎてつむじが丸見えだ。

「そういう時は謝るんじゃなくて、」
「……ありがとう、だね!」

『ごめんなさい』と『ありがとう』をきちんと伝えられる先輩の素直さも、俺は結構気に入っている。
泣き止んだ顔には薄っすらと自然な笑みが浮かんで、締め付けられていた心臓の鼓動が少し速くなった。

確かに先輩の言うとおり、ここに来てからもうすでに二時間は経っている。
夕日はとっくに地平線へと沈んで、辺りは夜の闇に包まれていた。
グラウンドには明かり一つ点いていなくて、まるで夜の海みたいに静かに凪いでいる。

先輩はあれからずっと泣きっぱなしだった。
俺は人生で二時間も泣き続ける経験をしたことがなくて、先輩の悔しさがどれほどのものなのか、その心中は計り知れない。
先輩からとめどなく溢れてくる感情を受け止めながら、俺は静かに絶対に勝ち続けると覚悟を決めていた。
俺がチームの最前線でプレーをして、絶対に甲子園へ行きたい。
その時はもちろん、先輩も一緒に。

「ねぇ、小湊」
「はい」
「私、甲子園に行けなかったこと、一生悔しいままだと思う」
「……」

先輩は独り言のように静かに語りだした。
言葉の端っこが悔しさで滲む。涙の薄い膜が張った瞳がゆらゆらと揺らいでいる。
俺は先輩の声に、息を飲んで静かに耳を傾ける。

「でもね、青道に来たことは後悔してないんだ」
「はい」
「良い指導者と仲間にも恵まれたし……それに、生意気だけど頼り甲斐のある後輩もできたし」
「……生意気は一言余計ですよ」
「小湊たちになら安心してチームを預けられるよ」
「新チームのことは、任せてください」

月明かりに照らされた横顔が、優しく微笑む。
先輩は不意に立ち上がって、一歩二歩と前へ踏み出して俺の方を振り返った。

「これからも頑張ってね……ずっと応援してるから!」
「はい」
「私は私で頑張るから。だから、心配しなくていいからね」

俺の心を見透かすように、先輩は穏やかに諭した。
マネージャーとしての仕事が生きがいだった先輩が、引退してどうなってしまうのかと心配していたのは事実で。
でも、心配している素振りなんか見せていないはずなのに、先輩は俺の考えを言い当てた。
変なところで勘が鋭いんだよな、この人は。肝心なところは鈍いくせに。

「……わかってますよ」
「でも、私は小湊のことが心配だなぁ」
「どうしてですか」
「明日から私がいなくて寂しいんでしょ?」
「…………」
「私の等身大パネルでも作ってベンチに置いておこうか?」
「余計なお世話ですよ。……まったく、さっきまで泣いてたのに口の減らない人ですね」
「……小湊が冷たくてまた泣きそう」

両手で顔を覆ってわざとらしく泣き真似をして、笑いを誘おうとするところが先輩らしい。
俺がさっき『明日から寂しくなりますね』と零したことを気にかけて、わざと冗談を言って笑いに変えようと考えているのが、明け透けに見えている。
先輩なりの気遣いを感じて自然と口元がにやける。
これでは先輩の思惑どおりだ。ちょっと悔しい。

「進路はどうするんですか?」
「大学には行くつもりだよ。野球部のマネージャーを続けるかは、まだわからないけど」
「決まったら早く教えてくださいね」
「私は一般受験するから報告遅くなると思うけど……決まったらすぐ教える」
「期待してます」
「……私も受験勉強を頑張る! だから小湊も野球、頑張ってね」

先輩は屈託のない笑顔を浮かべる。
良かった、いつもの先輩だ。
俺はやっぱり笑っている先輩が、好きだなと思う。
この明るい笑顔に、実は何度も励まされてきたことを思い出す。
練習の休憩時間や、自主練の合間、試合中のベンチの中。
どんな時でも明るくて、笑顔を絶やさず、前向きに選手たちと接していた。
誰に対しても優しくて、誠実で、温かかった。俺には決して真似できない芸当だ。

先輩は唐突に手を挙げて、頭の上でひらひらと揺らす。
その仕草の意味がわからなくて、泣きすぎて遂に頭がおかしくなったのかと、本気で不安になる。

「どうしたんですか」
「最後にハイタッチ、しよ」
「別にいいですけど、なんで」
「気合い入るから、かな?」
「……仕方ないですね」

先輩の口から『最後』という言葉を聞くと、再び胸の奥がじわりと疼きだす。
明日から先輩は、グラウンドに顔を出さなくなる。
今日で本当に、夏が終わってしまった。
マネージャーとしての先輩は、今日で最後なんだ。
何度も試合中に交わしたハイタッチも、これが本当に最後になる。

重い腰を上げて歩み寄って、手のひらを重ねると乾いた音がパチンと鳴った。
先輩は笑っている。笑いながら一粒の涙をぽろっと零した。
その表情はとても優しくて、それと同時に悲しくて、見ていると切なさで胸がきつく締め付けられる。

帰り際まで名残惜しそうにグラウンドを眺めている横顔を、本当はいつまでも見ていたかった。
先輩は「たまには部活に顔出すね」と言い残して、最後は笑顔でグラウンドを去っていった。



夏大に敗退してからすぐに新チームが始まった。
秋のブロック予選や本大会の合間にも、引退した3年生が大学野球やプロ入団前の調整のために、誰かしらは毎日のように顔を出していた。
それなのに先輩は一向に部活に顔を出す気配すらなくて、学校ですら姿を見かけることはなかった。
進路が決定した3年生は、監督に報告に行くことが風習らしいのだけど、先輩の進路が決まったという噂はいつまで経っても誰の耳にも届くことはないままだった。

時折、ふとした瞬間にグラウンドに先輩の姿を思い出すことがある。
ボール渡しをしている藤原とか、スコアを書いている梅村とか、アナウンスをしている夏川に、先輩の姿を重ねて見ていた。

先輩は今、どうしているだろうか。
夏が終わったあの日の夜の出来事は、もしかしたら夢だったんじゃないか。
そう思い込んでしまうくらいに、去年の夏から季節は少しずつ、でも確実に遠ざかっていった。