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18. 未完成の僕らは、覚めない夢をみる


湿った匂いのこもる暗くて狭い通路を抜けてベンチへ顔を覗かせると、眩しい夏の日差しが急に視界に飛び込んで目が眩む。
帽子のつばを深く被せて、手すりから身を乗り出してグラウンドを見渡してみる。
いつもはスタンドから見ている景色が、ベンチからの目線だとまた違った場所のように見えるから、不思議だなぁと思う。
いつもは遠いはずのバッターボックスも、サードベースも、今日はすごく近い。

「わぁ……眩しいなぁ」

絵に描いたような入道雲の沸き立つ夏空と、オレンジっぽい内野の土と、人工芝のフィールドグリーンが色鮮やかで、さっきまで薄暗い地下を通ってきた目がチカチカした。
今まで使用してきた球場は黒土のグラウンドだったから、余計にコントラストが強調されているように感じる。
初めてベンチから見渡した神宮球場のグラウンドはとてつもなく広く感じて、外野の青色のクッションがものすごく遠くに見える。
隣の神宮第二球場と違って球場を囲むように高いフェンスがあるわけではないから、グラウンドを見渡す空には遮る物が何一つ無い。
ここが都心だと忘れてしまいそうなほど、人の手がつけられていないそのままの空が頭上に広がっている。
プロの球団もホーム球場として使用しているのも頷ける美しさと機能性を兼ね備えた球場なのだと、改めて納得した。

「お前ら行くで! 全員気合い入れてけ! 」
「おぉ!」
「行くぞ!」
「元気出してこーぜ!」

東の威勢の良い掛け声とともに、選手たちはベンチから勢いよく飛び出して行った。
しばらくすると外野から揃った足音とランニングの掛け声が響いてくる。
よし、今日もみんな元気だ。



青道高校は第一シードで臨んだ西東京大会を、神宮球場で行われる準決勝へと勝ち上がっていた。
今日は待ち望んでいた憧れの神宮球場での試合に、自然と胸が弾んでしまう。
それは選手たちも同じみたいで、プロ野球でも使用されている球場でプレーができると目をキラキラと輝かせているから、そんな様子を見て私まで嬉しくなっていた。

さて、いつまでもぼんやりとしている暇はない。
私は記録員なので試合前ノックに参加できないけど、その代わりに試合開始までの間にベンチでの仕事を一人でこなさないといけないのだ。これが結構慌ただしい。
まずはみんなが座るベンチを拭いて、エルボーガードやフットガードを並べ、救急箱とコールドスプレーをいつもの場所に配置して、氷嚢に氷を詰めてアイシングの準備もして、スコアも書けるところは先に記入してと……とにかく準備に忙しい。

トスバッティングの小気味好い金属音をBGMにしながら効率良く作業をこなして、ノックが始まる前までにはなんとか終わらせるのが私の役割だ。
この時点で薄っすらと額に汗をかいてしまうから、ポケットに忍ばせたタオル地のハンカチで何度も汗を拭う。

今日は十時開始の第一試合だというのに、すでにグラウンドもベンチも異常なほどの蒸し暑さだ。
人工芝は黒土のグラウンドよりも体感温度が高くなると聞いている。
神宮球場で他校の偵察をしていると、熱中症で足を吊ってしまう選手を何度も目撃したことがあった。
今日は特に選手の体調管理に気を配った方が良さそうだ。

ベンチへと戻ってきた選手たちに冷えたスポーツドリンクを次々に手渡すと、喉を鳴らして飲み干していく。
気づけば満杯にしていたジャグの中身が半分ほどに減ってしまって、飲料と氷を補充に急ぐ。
氷が重なり合ってカラカラと混ざる涼しい音に耳だけが清涼感を感じさせてくれる。
今日は今年の最高気温を更新するかもしれない、とお天気のお姉さんが言っていたのは、あながち間違いではないのかもしれない。
不意にこめかみから頬へと汗が滑り落ちていく。

「みょうじさん、水分補給してますか?」
「自分のペットボトルあるから大丈夫」
「試合始まる前からバテないでくださいよ」
「わかってるよ!」

さりげなく隣で汗を拭っている小湊は、からかうような口調で声をかけてくる。
まったく、これから準決勝だっていうのに小湊は相変わらず余裕がある感じで、ムカつく。
こっちは緊張して昨日の夜は上手く寝付けなかったというのに、小湊はいつもの余裕の表情だしその度胸をできることなら半分わけて欲しいと思ってしまう。

グラウンドへと散り散りに駆けていく選手たちを見送って、ベンチの最前列でノックを眺める。
こうして試合前ノックを見ていられるのは公式戦くらいだから、この時間はかなり貴重だ。
監督の放つ鋭い打球は野手の守備範囲ギリギリのところを地を這うように転がるのに、一歩目が速い小湊は腕をいっぱいに伸ばして捕球し、軽やかにステップを踏んで打球を捌いてみせた。

昨年の春のことを思い出してみると、小湊の守備は格段に上手くなったと思う。
元々、打球への反応は速いし、身の捌き方にセンスはあったけど、この一年ほどでボディバランスも良くなって多少無理な体勢からの送球でも安定している。
守備位置もカウントごとに細かに変えて工夫しているからエラーは滅多にしないし、二遊間のコンビネーションも抜群で併殺もより多く取れるようになった。
昨年秋に背番号4だった同期の高山も、最初は正二塁手の座を明け渡してしまったことを心底悔しがっていた。
それでも、小湊の技巧を凝らしたバッティングと磨きがかかった守備力に、今では一目置くようになっている。
背番号4を背負っても、もう恥じない青道の立派な正二塁手へと成長したと、高山はまだちょっと悔しそうに、でも晴れやかな表情で私に打ち明けてくれていた。
グラウンド全体を見渡してからセカンドの定位置に目を向けると、何やら高山が小湊にアドバイスをしているところだった。
小湊も素直に高山の声に耳を傾けているから、側から見ても良い先輩後輩の関係を築けていると思う。

夏大直前のいつまで続くのかと気の遠くなるようなシートノックに比べれば、七分間の試合前ノックなんて体感速度は一瞬だ。
夏空に高く舞い上がったキャッチャーフライが、御幸のミットにきっちり収まったのがノック終了の合図。
私も選手たちと同様に、ベンチ内からグラウンドへと一礼を。
スタンドから降り注ぐ拍手や声援を携えて、汗を滴らせて帰ってきた選手たちの瞳には闘争の青い炎が煌々と燃えている。
自分では見えないけど、きっと私の瞳の中にも青い炎が燃えているはずだ。

準決勝の対戦相手の稲城実業とは、今までも練習試合等で対戦経験があるし、勝負は毎回勝った負けた繰り返し実力は拮抗している。
近年、市大三と並んで西東京二強として君臨する稲実は、青道高校にとっての強敵であり、一番闘争心の煽られる存在なのだ。
稲実に勝って西東京二強の牙城を崩せれば、青道が久々の甲子園出場に手が届くことは、ほぼ間違いない。
今日だけは絶対に負けられないし、勝利はどうしたって譲れないんだ。

試合開始のサイレンが鼓膜に突き刺さるように鳴り響く。
息を吸い、深く吐き、汗ばむ手のひらをぎゅっと結ぶ。
今日も青道が勝てますように。青道が甲子園に行けますように、と強く願いながら。

両チームのプライドと甲子園出場を懸けた準決勝の幕が今、上がった。





ボールカウントの記号一つひとつを見落とさないように数え、球数を記録しながら左手の腕時計を見やる。
時計の針は十一時三十分を指している。
試合が始まって一時間半もずっと、私は息苦しくて仕方ない。

重たい緊迫感に満ちた準決勝は、これから七回表の攻撃が始まろうとしている。
ここまでは三対四と稲実が一点をリードし、青道が追いかける展開だ。

稲実は初回、三番のソロホームランで一点を先制し、五回には2四死球で動揺したエースから二本のタイムリーヒットを放ち、更に三点を追加していた。
青道は二回に東のツーベースヒットに結城のタイムリーで一点を奪うと、四回には相手エースの制球が乱れヒットと2四死球で満塁とし、エースが放った意地のタイムリーで二点を追加していた。

七回はワンアウトから三番がレフト前ヒットで出塁したタイミングで、国友監督は選手の交代を宣言。
同点の走者を背負う緊張感のある局面で、背番号18番 左腕の成宮をマウンドに送り込む。
あと3イニングを残して一年生にマウンドを託す国友監督の思い切った継投に、球場はざわめきに包まれている。
正直、私もこの場面で成宮が出てくることは想定していなかった。
しかし、青道としては継投のタイミングこそが攻め時だ。

「あれが御幸が要注意って言ってた投手だね」
「球種、多いですね。完成度はどうだか知りませんけど」

昨日のミーティングで共有した情報をメモしたノートを開く。
さりげなく隣に来た小湊も一緒にノートを覗き込んでいる。
昨晩、御幸が話していた成宮鳴の情報を指で辿ると、球種はストレート、スライダー、カーブ、チェンジアップと、縦と横の変化に緩急までつけられると書き留めていた。
一年生ですべての球種が自在に操るというのなら、かなり完成度の高い投手だと言えるだろう。
けど、成宮は公式戦初登板だし打席に立つのが東なら、きっと大丈夫。

「東なら打ってくれる!」
「そう信じましょう」

打席に立つ東は鋭い眼光で成宮を睨みつけている。
それに怯みもしない成宮は、かなりマウンド度胸のある選手だというのは間違いない。
チラリと横目で片岡監督を見ると、平行カウントで盗塁を仕掛けるサインを一塁走者に送っている。
稲実バッテリーは盗塁を強く警戒し何度も牽制を入れてきたが、キャッチャーからの鬼のような牽制を掻い潜って一塁走者は二盗を成功させ、セカンドゴロの進塁打で三塁に到達した。
これで結城がタイムリーを打てば同点、そして逆転の走者も出塁することになるから、スタンドは大盛り上がりでチャンステーマを繰り返し演奏する。
熱気の高まる応援に球場内の気温がまた1℃上がった気がした。

「哲! 打て! 」
「結城! 打てるよ! 」
「頼んだぞ哲! お前が決めろオラァ! 」

小湊と伊佐敷が手すりから身を乗り出して、打席に向かう結城の背中にエールを送る。
私も声を揃えてエールを送ると、結城は浅く頷きながら脇でバットをしごいて、ゆっくりとバッターボックスに入った。
東ほどとは言わないけど結城の立ち姿にも静かな迫力があって、私はその真っ直ぐに伸びた背筋が美しいとさえ思っている。

マウンドの成宮はいきなり盗塁をされ、進塁打で走者を三塁に行かせてしまったことに苛立ってか不服そうな表情で結城を見下ろす。
監督からの「打て」のサインに集中力を研ぎ澄ませる結城は、初球から迷いなくバットを振り抜いた。
金属が破裂するかのような鋭い打球音が、ベンチの後ろの壁にまで反響する。
ライナー性の打球はぐんぐん伸びて右中間を超え、青色のフェンスに直撃した。
三塁走者は打球の行方を確認してからゆっくりと本塁を踏み、弾けるような笑顔でベンチへと帰ってきた。

「哲! ナイバッチ!」
「哲やるじゃねーか! これで同点だァ!」
「結城! ナイバッチー! やったぁ!」

ベンチメンバーは声を弾ませながらヒットと盗塁で生還した選手を手荒く労い、タイムリーを打った結城を讃える拍手を送る。

「みょうじさん、はしゃぎすぎですよ」
「いいじゃん! だって嬉しいんだもん」

はしゃぐ私をたしなめる小湊だって、嬉しそうな表情を隠そうとしてない。
私は顔の前に左手を持ってきて、小湊を見てニヤリと笑う。
それを見た小湊はまんざらでもないような笑みを浮かべて、右手を挙げてハイタッチを交わした。

結城のタイムリーツーベースヒットでようやく同点まで追いついた。
ヒットは青いペンで、得点の○印は赤いペンで書き分ける。
これで試合を振り出しに戻せたことが嬉しくて、込み上げてくる喜びで指先が痺れてしまう。
結城を二塁に置き、なおもまだ青道のチャンスは続いている。
今のところ監督が前夜に予想していた通りに四、五点勝負の試合展開になっていて、次の一点を先に取った方が主導権を握る重要な局面を迎えている。

さすがに一年生投手に準決勝のマウンドは荷が重すぎたかと思った矢先に、結城にタイムリーを打たれて成宮の目の色が変わった。
登板時に見せていた無邪気な笑顔は影を潜め、冷酷さを感じる目つきで打者を見下すように睨みつけている。

六番からの成宮の投球内容は、国友監督の決断も納得するほどに冴え渡っていた。
正確なコントロールで内角へストレート、外角には緩くカーブでタイミングを外しながらもカウントを稼ぎ、スライダーは右打者には鋭く内角に曲がり、左打者には外角に滑り落ちていく軌道に翻弄されて打ちあぐねる。
ストレートと同じフォームから放たれる緩急の利いたチェンジアップには完全にタイミングを外されてしまい、バットの先で捉えるのがやっとだった。
二人の打者を遊び玉無しで仕留められ、逆転タイムリーを期待していた青道ベンチには一瞬、不穏な空気が流れる。
みんなは声に出さないけど、明らかに成宮の投球が途中からギアチェンジしたことをわかっているようだ。

マウンドを降りる時は不機嫌そうな顔をしていた成宮も、上級者に囲まれて頭を撫でられると、再び年相応な笑顔を見せた。
そんな稲実とは対照的に、青道ベンチは重たい雰囲気が漂って身動きがしづらい。

「……御幸から情報は貰ってたけど、想像以上に厄介な投手だね」
「今日が公式戦初登板だし、早く投げたくて仕方なかったんでしょう」

打席に立つ準備をしていた御幸は、急いで防具を身につけながら私の言葉に微かに表情を歪める。
水分補給を促してコップを手渡すと、一気に飲み干してグラウンドへと駆け出していった。
普段の御幸は強気な顔つきを崩すことなんて滅多に無いのに、珍しい顔を見てしまってびっくりする。
それほどに、成宮は絶好調な投球をしているということなんだろう。

「みょうじ、球数は?」
「六回終わって126球です」
「……多いな」

監督が漏らした独り言はしっかりと耳に届いていて、私は肯定も否定もできずに押し黙った。

稲実は一番から下位打線まで強打者揃いだし、青道バッテリーも細心の注意を払いながらリードを組み立てている。
御幸も一年生ながら、正捕手として三年生エースをここまでよくリードしてくれていた。
試合前から球数が多くなるのも想定済みではあったけど、酷暑での投球と稲実打線の強力さは想像以上にエースの精神と体力を削っている。

青道はエースが先発し、充分なリードが無ければ継投はしないことが現チームの監督の方針だ。
控えには三年生左腕と二年生の丹波がいるけど、どちらの投手も制球やフィールディングに課題を残している。
今日はエースを完投させることを前提としていたのだけど、どうやら雲行きが怪しくなってきた。
残り3イニングを一人で投げ抜くには、六回投げて126球という球数は確かに多い。
このペースで完投すると、おそらく球数は170球ほどになるだろう。
決勝の登板も計算に含めると、投球過多は明白だ。
それでも監督は、エースの「俺が投げ抜きます」と力強く宣言した言葉を信じて七回のマウンドへ送り、私もペンを持つ手に汗を握りながら戦況を見守る。

エースの疲労がピークになる七回は、制球のしやすいストレートを軸にスライダーを織り交ぜながらストライクゾーンを目一杯使ってリードを試みているよう。
ツーアウト走者無しで迎えるのは今日はまだノーヒットの、四番キャッチャー原田。
彼はまだ二年生にもかかわらず、すでにプロからも注目される長打力と強肩が売りの大型キャッチャーだと前評判が高い。
原田はホームランも警戒しなくてはいけないバッターなのに、あっさりとツーアウトに打ち取ったエースの表情が安堵で緩むのを、私は見逃さなかった。
嫌な予感がする、と思った瞬間、原田の鋭いスイングが決め球のスライダーを完璧に捉え、豪快な金属音が鳴り響く。
ベンチメンバーの全員が手すりから身を乗り出して飛球の行方を追いかけ、深めに守っていたセンターはすぐにフェンスまで辿り着いたけど、なすすべなく空を仰ぐ。


打球はバックスクリーンへと吸い込まれていった。


稲実側のベンチとスタンドは歓喜に湧き上がり、まるでお祭りのような雰囲気は青道側と対照的だ。
青道のスタンドとベンチは、やっと同点に追いついたのに再び一点差を追う展開になってしまい、沈痛のあまり静まり返っている。
悠々とダイヤモンドを回る原田が空へと拳を突き上げるのを、呆然を眺めることしかできないのが、悔しくて堪らない。
夢だったらいいのにと思う反面、スコアボードは四対五の表示に変わり、厳しい現実を目と鼻の先に突きつけられた。
それでもエースは深呼吸を繰り返した後、真っ直ぐに次の打者を見据えている。

「ツーアウトだよ!」
「バッター勝負だ!」
「打球そっち行くぞ! 集中しろ!」

ベンチからは励ましと指示出しの声が飛び交う。
エースの集中力はまだ完全に途切れていない。
真っ直ぐにキャッチャーミットを見据えるの瞳には、青い炎が煌々と燃えている。

ただ、次の五番打者にも渾身のストレートをセンター前へと運ばれ、いまだにツーアウト1塁とピンチは続く。
グラウンドの戦況を見て、ブルペンでは投手陣が急ピッチで肩を作り始めているようだ。
これ以上の失点は試合が決まりかねないと、声には出さないけど誰もがそう思っているだろう。
私にはこの状況を打開する術も策も無いから、ただただ見守るしかないことが歯がゆくて、情けなくて。
野球の神さまが見守ってくれているならどうか力を貸してほしい、と心から祈りを捧げる。

「こっちに打たせてください!」

エースを明るく励まそうとする小湊の声が、真っ直ぐに私の所まで届く。

「絶対、アウトにします!」

小湊の力強い声を聞いて、追加点を奪われて浮き足立っていた気持ちがしゃんとする。
不安で揺れていた心がまるで見透かされているようなタイミングで声を掛けるものだから、エースが力強く頷くのと同じく、私も大きく頷いた。

続く六番打者は外へと滑り落ちるスライダーをバットの先で捉える。
一・二塁間の深いところへ転がっていく打球を小湊が全力で追い、スナップを効かせた正確なスローイングで仕留めてみせた。

「小湊、ナイスプレー!」
「ありがとうございます」

全力疾走でベンチへと戻ってきた小湊にハイタッチを求めて手を伸ばすと、力強く手のひらが重なってパンっと乾いた音が気持ち良く鳴った。
七回は一点を失ったけど、まだ2イニングある。

絶対にまたチャンスを作れるはずだと、思っていた。


「……九回はワシまで回すんや! 九回で絶対に逆転するで!」
「「おぉ!! 」」

東が悔しさで表情をくしゃくしゃに歪めながら、チームを鼓舞するために力強い言葉で盛り立てた。
他の選手たちも東に同意しながらも、各々の表情には焦りの色が垣間見える。
みんなが焦る気持ちも八回の攻撃を振り返れば、仕方のないことだと思う。
青道の八回の攻撃は、たった五分足らずで三者凡退に打ち取られてしまったのだ。

対峙する成宮は、体格に恵まれているわけではないものの、ストレートは常時135km/hくらいは出ているようだし、切れ味抜群のスライダーと落差のブレーキの効いたチェンジアップを織り交ぜてピッチングを組み立てている。

青道としては好球必打の作戦で、ストレートに狙い球を絞って攻めることが徹底された。
青道の狙いを機敏に察したのか、稲実バッテリーは変化球を多投してストレートはクサイところにしか投げてこない。
決め球にはストレートと同じフォームから投げるチェンジアップで、打者は堪えきれずにバットを振りにいってしまい、ことごとく三振や内野ゴロに仕留められていた。

「まずはこの回を良いリズムで守って、九回の攻撃に繋げるで!」
「おし!」
「声出していこうぜ! 」
「気合い入れてけ! 絶対勝つぞ! 」

選手たちは口々に声を上げてグラウンドへと散っていく。
暗い雰囲気に沈みそうになるチームに喝を入れるのは、いつだって主将である東の役割だ。

九回は一番からの好打順だし、四番の東にまで回れば一気に逆転だってできる可能性があるんだ。
弱気になりそうな心に、もう一度青い炎が強く燃え上がる。
選手たちの目にも力強さが戻ったようで、小さく胸を撫で下ろした。
良かった。まだ誰も諦めてない。

東ってこういう時に雰囲気をガラッと変える力があるから、本当に頼りになヤツだ。
出会った時から唯我独尊を体現したような振る舞いで、勝気な性格のせいか誤解されることも多いけど、そんな部分は私たちがフォローしながら二年半を共に過ごし、ここまで勝ち上がってきた。
最初は不安だったキャプテンの役割も、今となっては東以外には考えられないとさえ思う。

八回裏の守備についたメンバーは、カウントが変わるごとに互いに声を掛け合い状況確認をしながら、今日一番の活気ある雰囲気でエースを盛り立てる。
エースもバックを信じて、持ち球すべてを駆使して全身全霊で打者を三者凡退にねじ伏せた。
これぞまさにエースのピッチングと言わんばかりの意地とプライドを見せつけるような投球に、球場にいる誰しもが魅入っているようだ。
そんな素晴らしい力投を魅せたエースに、敵味方関係なく球場全体から万感の拍手が送られる。
私も手が痛くなるくらいに盛大な拍手をしてエースを出迎えた。

「ナイスピッチ!」
「おぉ」

フラフラとした足取りでベンチに帰ってきたエースを、ベンチメンバーが囲って世話を焼いてくれている。
エースの満身創痍な姿を見ていると、残す九回裏の登板で抑えなければ仮に延長戦に突入しても続投は難しいと、そう考えているのは私だけではないはずだ。

「えぇか、絶対にワシにまで回すんや! この回で逆転するで!」
「「おお!!」」

九回表、一番打者が打席に入る。
この回もやはり合間見えるのは好投している成宮だ。
一番、二番と左打者が続くので、サウスポー対決は圧倒的に投手の成宮が有利になってしまうのが痛い。
それをわかってのことか、一番はヒッティングではなく俊足を生かしてセーフティーバントを試みるけれど、打球は猛チャージしてきたサードのグラブに収まり、乱れぬ送球はファーストミットへと真っ直ぐに突き刺さる。
あっさりと、1アウトを取られてしまった。

成宮はまるで予想通りだ、と言わんばかりにニヤリと笑って「ワンナウトー! あとふたつ!」とバックを振り返って内野に明るく声を掛けた。
容姿はどことなく幼さを残しているのに、マウンドに立つ成宮は敵対するとまるで悪魔のように見えてしまう。

ベンチからもスタンドからも、二番の小湊を鼓舞するように思い思いの言葉を叫ぶ。
私も我慢ならなくて背番号4に向けて声を張り上げた。

「小湊、いつものバッティング!」

誰の言葉に応えたのかわからないけど、小湊はベンチを振り返り小さく頷いてから打席に入った。
ヒッティングマーチのキューティーハニーが盛大に演奏され、球場いっぱいに音と声援が溢れている。
スタンドとベンチからの懸命な応援に、小湊ならきっと応えてくれると確信していた。

だって、小湊はずっと頑張ってきたんだ。
手のひらの豆を何度も潰して、痛いはずなのにテーピングを巻いて誤魔化してバットを振り続けてきた。
私も自主練につきあって数えきれないくらいたくさんトスを上げてきた。
そんな姿を毎日のように目に焼きつけてきたんだから、信じる以外の選択肢なんてないのだ。

一球目はスライダーが低めに外れてボール、ストレートを空振り、スライダーをカットして追い込まれると、そこからが外へのストレート、スライダーがボールになり、ついにフルカウントになった。

「小湊、打てるよ!」

そう叫んだ瞬間に、成宮の口元がニヤリと笑ったように見えた。
背筋に悪寒が走るのと同時に、成宮はストレートと同じフォームからチェンジアップを投じ、小湊のバットが空を切る。
あの小湊が、カットで逃げることすらできないなんて……信じられない。
小湊は唇を噛み、悔しい表情ですれ違いざまに東に謝ってからすぐに顔を上げ、ベンチの最前列で三番打者へ向けて声を張り上げた。

九回裏一点差をツーアウト走者無しと、絶体絶命のピンチに追い込まれた青道の応援団は、走者もいないけどチャンステーマをエンドレスリピートして選手を後押しする。


『成宮はキレてからギアが上がるタイプですね。本気のアイツは、東さんでも手がつけられないと思います』


昨晩のミーティングでの御幸の発言を、今頃になって思い出す。
あの時は一年生投手がプロ注目の東でさえ手をつけられないだなんて、大袈裟な事を言うものだと斜に構えて聞いていたけど、あの言葉の真意をいま改めて実感している。

投げるごとに加速するストレートを捉えきれず、三番がツーストライクに追い込まれるとベンチとスタンドからの声援がより一層大きく響く。
スタンドの声援も音も耳に届いているはずなのに、全ての音が薄い膜を隔てた向こう側から聞こえてくるようで、私だけが世界から取り残されたかのような、そんな疎外感を感じている。
こめかみから生温い汗が流れ落ちて、喉がカラカラに乾いて張り付いた言葉は、声にすら出せない。
うざったいくらいに暑いはずなのに、悪寒で指先が震えが止まらない。
目を開けてちゃんと見ているはずなのに、目の前の光景に現実味を感じないのは、何でだろう。
まるで、悪い夢でも見ているみたいだ。

成宮がワインドアップから投げ込む球は全身全霊のストレートではなく、フルスイングする打者をあざ笑うかのようなチェンジアップ。

三番のバットが三度目の空を切って、その場で膝から崩れ落ちた。

時が止まったかのような一瞬の静寂が、永遠のように長く感じて、身動き一つできずにグラウンドを見つめる。
稲実側からの大歓声がぼんやりと聞こえてきて、成宮の笑顔が再びマウンドで弾けた。


あぁ、そっか。
試合が、終わったんだ


「…………みょうじさん、整列です」

小湊に腕を引かれて、ベンチから外へと引っ張りだされる。
整列した選手たちは悲しげに首をもたげ、その背中は微かに震えていた。
試合終了のサイレンが悲鳴のように鳴り響くのが聞こえる。
昔に見た何かのドラマのBGMのようだと思いながら、相手ベンチに一礼を。
そして、汗を流して、声を枯らして応援してくれたスタンドのみんなにも、深々と頭を下げた。
グラウンドに膝をついて顔を覆う後輩と、うずくまって泣き崩れる同期たちを、ぼんやりと視界と端に捉えながら撤退の作業に追われる。
試合が終われば片付けだとかアイシングだとか、やらなければならないことが山積みで、手を動かしながら効率良く仕事をするための手順を考えて、頭の中をいっぱいにした。
両手にいっぱいの荷物を抱えて引き上げてきたロッカールームには、泣き声と鼻をすする音がいくつも木霊する。
あの東でさえも、人目をはばからず号泣している。
後輩たちはその光景を息を押し殺しながら見つめている。
監督が珍しく涙声で話しているのが聞こえているけど、その言葉がどんな意味を持っているのか理解できずに、私はただその場に立ち尽くすだけだった。


ロッカールームから撤退し、帰りのバスへと向かう途中。
貴子たちが一目散に涙を浮かべて駆けよってくるから、小さい子供を慰めるように頭を撫でて細い肩を抱き寄せる。
今にも泣き出しそうになりながら、拙い言葉を紡いで「これからは私が、マネージャー陣を引っ張ります……!」という力強い言葉に、私は何度も大きく頷いた。

球場の外にはスタンドを賑わせてくれていた人々が待ち構えていて、私たちを囲うようにたくさんの拍手と、労いの声を降り注いでくれる。
青道を応援してくれている人たちが、こんなにもたくさん球場にまで駆けつけてくれていたなんて。その人々の多さに驚いて目を丸くする。

人波をぬうようにして歩くと、お世話になった父母会や後援会の皆さんが口々に「今までよく頑張ったね」「本当にありがとう」「これから寂しくなるわ」と労いの言葉をかけてくれるから、一人ひとりに頭を下げて、伸ばされた手を握り返して応えた。

スタンドで応援してくれていたクラスメイトたちが、遠巻きに手を振っているのに気がついて、私も同じように手を振り返す。

ファンの人たちの「ナイスゲーム!」「来年は甲子園に行けよ!」「感動した! ありがとう!」という温かな声に、選手たちの目にも涙が浮かんでいる。

たくさんの人に声をかけられながらバスに向かっていると、ふと後ろ髪を引かれるような感覚に後ろを振り返る。
そこにはタオルで顔を覆った高山が歩みを止めて立ち尽くしていた。
慌てて高山の側に駆け寄ると、泣いてしゃくりあげた肩が震え、堪え切れない嗚咽が漏れ出している。
この夏、たったの一度もプレーできなかった悔しさが 震える背番号14から滲み出ているようで、励ましの言葉も思いつかないまま、背中にそっと手を添えた。

「帰ろう」

高山は私の声に無言で頷いて、ゆっくりと歩き出した。
私も高山のすぐそばに寄り添うようについて歩く。

動き出したバスの車内には今朝の活気はすっかり消え失せ、静かな空間にすすり泣く声だけが繰り返し響いていて、まるで雨を弾く傘の中にいるみたいだと思った。

私は音楽を聴くわけでもないのに耳にイヤホンを差し込んで、バックからスコアを取り出し黄色のバインダーを開いた。
そういえば最後の打席が書きかけのままだったから、ペンを手に取って記憶を辿りよせ、スイングアウトとスリーアウトの記号を書き込むと、そこで再び手が止まる。手に力が入らない。
指先が痺れて上手くペンが握れなくなる。あれ、なんでだろう。普段ならこんなことないのに。
まぁ、スコアの集計なら別に急ぐ必要もないし。明日でもいいか。

今日の試合は酷く暑くて、軽い熱中症なのかさっきから思考がぼんやりする。
窓ガラスに寄りかかって脱力すると、火照った全身が溶け出してしまいそうで。
重たいまぶたをゆっくりと閉じて、深く長く息を吐き出す。
青道に帰ったらまた後片付けに追われるんだ。今のうちに少しだけ休憩しておこう。
目覚めた時にはこの夢が覚めているといいな。

そう願いながら、微睡みの中に意識を手放した。