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17. スタートラインを飛び越えて


梅雨の晴れ間で久しぶりに顔を覗かせた太陽が、暴力的な強さで日差しをグラウンドへと降り注ぎジリジリと気温を上昇させている。
グラウンドの外、どこか遠くから今年初めての蝉の鳴き声が聞こえてくることに気づいて、余計に暑さが増すみたいだな、と他人事のように思う。

七分間の試合前ノックを終えて、選手たちは急ぎ足でベンチへと引き上げてきた。
まだノックが終わったばかりだというのに、みんなの額からは汗が滝のように流れ落ちていて、冷えたスポドリをたっぷりと注いだコップを手渡しながら迎え入れる。

「試合始まる前から真っ黒だね」
「今日は随分気合い入ってるみたいですね、監督」

小湊にも冷えたそれを手渡せば、一気に飲み干してしまって目を丸くする。
それほどにグラウンドは暑い、ということなんだろう。
水分補給を終えた小湊はフェイスタオルで頬に伝う汗を拭いながら、隣に並び立って急ピッチで整備されていくグラウンドを眺めている。
十分前まで真っ白だったユニフォームは、ノックの時に黒土ですっかり汚れてしまっていた。
小湊の言う通りに、今日の監督はずいぶん気合い入ってたもんなぁ……と先程のノックを振り返ってみる。
二遊間はかなり左右に振られていたし、試合が始まる前から内野手のユニフォームが黒々としているのは無理もなかった。

青道にとっては今日が夏大の初戦。
相手校は二試合を勝ち上がってきた勢いがあるし、二つの白星を掲げて自信をみなぎらせているよう。
相手校の試合前ノックを見ていたけど、脚はよく動いているし、はつらつとした声もこちら側まで響くし、何よりシード校の青道が相手なのに選手たちの表情が明るく輝いている。

相手ベンチの様子を見るなり、片岡監督はノックバットを強く振り抜き、鋭い打球を飛ばし続けた。
いつにも増した気迫溢れるノックで相手校を牽制し、初戦で強張りがちな自軍の選手たちの闘志に火をつける。
グランドインするまでは表情が硬かった選手たちも、ノックが終わればすっかりいつもの良い緊張感に満ちた顔つきに変わっていた。

「みょうじさん、顔が怖いですよ」
「そうかな……?」
「まさか緊張してます?」
「まぁね……初戦だし」

無意識のうちに険しい顔をしていたのか、小湊に指摘されて顔に両手を持っていくと、案の定表情が強張って頬が固くなっていた。
選手たちはノックで気持ちの切り替えができるから良いけど、マネージャーは準備に追われたままの状態で試合が始まってしまうから、緊張感は高まる一方なのだ。
緊張しやすい性格もなんとかしたい、と思って気づけば二年半が過ぎてしまった。
パンっと両頬を軽く叩くと、入っていた力が抜けた気がして少し肩が軽くなる。
そんな一部始終をニヤニヤしながら見ている小湊の方が余裕がある感じで、どっちが先輩だよって心の中で悪態を吐いた。

「あ」
「どうしたの?」
「みょうじさん、あれ」

小湊が指差す方へ視線を向けると、スプリンクラーから散水されたグラウンドが少しずつ土色の濃さを取り戻しているところだった。
その光景に目を凝らすと、空の低いところで薄っすらと虹がかかっている。

「小湊、虹だよ! きれい! 」
「そうですね」
「リアクション薄くない? 」
「もうすぐ試合始まりますから」
「まさか……緊張してるの?」
「まぁね……初戦だし」
「……私の真似するなぁ!」
「多少は緊張してますけど、これがあるから大丈夫です」

小湊はお尻のポケットからするりとミサンガを取り出して、得意顔で見せてくる。
想いを込めて編んだミサンガをちゃんと持っていてくれたことが嬉しくて、自然と笑顔が溢れた。

「持っててくれたんだ」
「ポケットに入れてます」
「付けても似合うと思うけど」
「切れちゃったらもったいないので」
「ミサンガって切れたら願いが叶うものなんだよ?」
「それは知ってますけど……大事にしたいんですよ」

小湊の耳の先がほんのりと赤く染まっていくのを見て、もしかして照れているのではないかと気付いてしまう。
そんな顔を見せられたら、私まで照れちゃうじゃん。
首すじ辺りから熱が上がってきて、頬が熱くって仕方ない。
私のあげたミサンガ、大事にしたいって……他意はないのかもしれないけど、そう言ってもらえると純粋に嬉しい。
小湊はミサンガを大事そうにそっと握って、再びポケットにしまい込んだ。

急にお互いに気恥ずかしくなって、何を話せばいいのかわからなくなったタイミングで、東が集合の号令をかけた。
相変わらず声量があってよく通る声だ。

「ほら、円陣組むって。行くよ! 」
「はい」

背番号4をポンっと押してベンチの外へ出ると、急いで円陣の輪の中へと加わる。
まだ正午にもなっていないのにグラウンドはすでに酷い暑さで、一瞬で汗が吹き出してしまうのが気持ち悪くって仕方ない。
姿勢を前傾させて右手を左胸に置き、二十人全員の顔を見渡すと思わず目頭が熱くなって、こみ上げる熱いなにかを鼻をすすって我慢した。

幼い頃の私は、この王者の掛け声に強烈に憧れて青道を選んで、今ここにいる。
青道に来て尊敬する指導者たちと、信頼する生涯の仲間と、生意気だけど頼りになる後輩たちと出会えた。私はなんて幸福なマネージャーだろう。
でも、まだ満足はできそうになくて、何度だってこの円陣の輪の中にいたい。
王者の掛け声だって、飽きるほどに繰り返したいんだ。
この夏だけは絶対に、日本一を決める、最後の日まで。

円陣の真ん中にいる東が大きく息を吸う。
スタンドの控え部員も、ベンチ入り選手も、その第一声を静かに待つ。


「……俺たちは誰だ」
「「王者青道!!」」
「誰よりも汗を流したのは!」
「「青道!!」」
「誰よりも涙を流したのは!」
「「青道!!」」
「誰よりも野球を愛しているのは!」
「「青道!!」」
「戦う準備はできているか!?」
「「おおお!! 」」
「わが校の誇りを胸に 狙うは全国制覇のみ! いくぞぉ!!」
「「おおおおおおお!!」」


高々と右手の人差し指を突き立てて、真夏の青空を仰ぐ。
地の底から湧き上がるような声の響きに、何度繰り返しても鳥肌が立ってしまうし、高揚感で頬が熱くなるのを止められそうにない。

輪が解かれてからスタンドへと視線を移すと、最前列に陣取ったマネージャー陣と目が合って、交わす言葉は無くてもお互いに大きく頷き合う。
スタンドは、ベンチは、お互いに任せたからね、というアイコンタクト。
フェンスを隔てたって意思の疎通ができるくらいには、マネージャー陣の絆は強いのが自慢だし、心の底から誇らしく思う。

円陣の合間にグラウンド整備が終わって、美しく整えられたグラウンドの空にはもう虹は見えなくなっていた。
試合開始まであと数分、選手たちはベンチ前へ列を形成するのと同時に、私も監督の横に並び立つ。
胸元のリボンが曲がってないか確認して、スカートのプリーツを直して、帽子を深めに被り直した。
これが私の試合前のルーティン。いわゆる、勝利の験担ぎというやつ。

球審が集合を告げると、一斉に駆け出す二十人の背中を見送る。
出会った頃よりも伸びた身長、広くなった背中、鎧のような筋肉の肉付き。
逞しくなった選手たちの後ろ姿に改めて感動して、思わず身震いしてしまう。

「……どうした」
「すみません、武者震いです」

私の手が微かに震えているのを見逃さないあたり、さすか片岡監督だ。

「ベンチは頼んだぞ」
「はい」

さりげない一言で私の士気さえ上げてしまうのだから、監督にはいつまで経っても頭が上がりそうにない。


「みょうじ! お前も気合い入れてけ!」
「おー! 東はタイムリー打ってよ!」
「当たり前や、任せとけ!」

試合前挨拶を終えた選手たちが足早にベンチへと帰ってきた。
選手たちを出迎える私の頭に、東の大きな手がポンっと置かれてずれてしまった帽子のつばを直しながら、東の声かけに応える。
気の早い東は四番なのにすでに特注の東専用ヘルメットを被ろうとしている。
それだけ一番が必ず出塁すると、全幅の信頼を置いているのだ。
それがなんだか微笑ましくって、口元が緩んでしまうのをとっさに隠して笑う。東にバレたらドヤされそうだし。

「小湊、頼んだよ。いつもどおりにね!」

バットを片手にネクストへと向かう小湊へ、口元に片手を添えて声を飛ばす。
肩越しに振り返った小湊が一度こくりと頷いて応えるのを見て、ペンをぎゅっと握り締めた。

十時二分、定刻を少しすぎて鼓膜をつんざくように試合開始のサイレンが球場いっぱいに鳴り響く。
無意識に手のひらは祈りの形を結んで、投手から放たれる第一球を見つめる。


私たちの最後の夏が、始まった。