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16. 少女Aの献身


「おい、小湊! ちょっとええか? 」
「はい」

室内練習場に重たい金属音ひっきりなしに鳴り響いていたのが、水を打ったようしんとなる。
連続トスバッティングを終えた東さんが、息を切らしながら大きく俺を手招いた。
ちょうど俺1箱打ち終わったタイミングだったので、トスを上げてくれていた木島に一言断りを入れてからバットを預ける。

正直、東さんに名指さしで呼び出されて碌なことを頼まれた試しがないから、内心面倒くさいと悪態をつきながらも急いで歩み寄る。
東さんはフェイスタオルで雑に額の汗を拭うと、明後日の方向を見ながら話しかけてきた。

「小屋にまだ灯りがついとらんか、確認してきてくれ」
「わかりました」

東さんが小屋と言ったのはおそらくアナウンス室で間違いがなくて、二つ返事で了承する。
壁にかかっている時計を確認すると、練習が終わってからもう随分と時間が経っていた。
足早に屋外へ出て土手を上がると、遠目からもぼんやりとアナウンス室の電気がついているのが確認できた。


夏大の抽選会からここ一週間ほど、練習後のアナウンス室の灯りが遅くまでついていることは、俺も気づいていた。
ただ、キャプテンとはいえあまり視野が広いタイプではない東さんも同じくその事に気づいていたことに、少なからず驚いた。
そして、おそらくあの中に誰が残っているのかも、東さんにはお見通しなんだろう。


「……みょうじさん、まだ残ってたんですね」
「ん? あぁ、小湊か。お疲れ様」

3回ノックしても返答が無かったので痺れを切らしてドアを開けると、机に向かっている見慣れたポニーテールがこちらへ振り向く。
机上にはスコアやノートやファイルが広げられていて、絶賛作業中といった状況だ。

入り口から顔を覗かせる俺を一瞥した先輩は、すぐに机に向き直って背を向ける。
珍しく素っ気ない態度で作業を再開させるから、少々イラついてわざと音を立ててドアを閉め、少々乱暴にパイプイスを引き、隣にどかっと腰掛けた。
そこでようやく疲れた顔をした先輩と目が合う。
目元には薄っすらと隈ができているし、肌色は冴えないし、上手く表現できないけれど、いつもの先輩が見せる表情ではないことは確かだ。
何かに追い詰められているかのような、切迫した雰囲気が伝わってくる。

ふと、視線を落とした先には文字やイラストがびっしりと書かれているノートが2、3冊開かれていた。

「こんな遅くまで何してるんですか? 」
「引き継ぎ用のノートをまとめてて」
「……引き継ぎ用のノート? 」

開かれたノートを覗き込むと、試合の前日準備だとか、当日の運営の流れだとかが懇切丁寧に解説されている。
他にはテーピングやスポドリの粉が安く買えるドラッグストアとか、スコアやロジンを買っている御用達のスポーツ用品店の住所から閉店時間までもが、几帳面にまとめられている。
このノートがあれば、普段マネージャー達がどれほど手間をかけて仕事をしてくれているのか、その一端は垣間見えそうだ。

ペンを走らせていた手を止めた先輩は、大きく背伸びをしてから机に頬をべったりとくっつけて突っ伏しながら、上目遣いで俺を見上げた。
他意のないの仕草なんだろうけど、俺にとってはあざとく見えてしまう。

「私たちが引退したら2年生は貴子だけになっちゃうからね。
今のうちにマネージャーの仕事もまとめておこうかなって」
「…………みょうじさん、引退するんですか」
「当たり前じゃん。小湊、どうしたの? 疲れてる? 」

わざとらしく心配そうな顔をした先輩は、勢いよく起き上がって俺の顔を覗き込む。
自分で言っておいて馬鹿らしいと思った言葉も、口にしてみないとどうしても実感が湧いてこなかった。

そうか。引退するのか、この人。

引退ってイコール代替わりであって、必然的に2年生にチームは引き継がれ、3年生は部活に顔を出さなくなる。
毎日のように見ていた姿も、交わしていた会話も、隣で感じる気配も、日常から無くなるということだ。
急に現実に直面して思考が上手く回らなくて、平常心が簡単に揺らいでしまった自分に戸惑う。

今まで先輩がグラウンドにいない光景を想像したことすらなかった。
だって、風邪をひいても無理をしてグラウンドにやってくるような人だから、そんなことを想像する必要すらなかった。

「小湊……? 」

もう一度名前を呼ばれて先輩と目が合うと、急速に意識が引き戻される。

「別に疲れてませんけど……でも、まだ早くないですか? 夏大すら始まってないのに」
「伝えておかなきゃいけないことが多いから。それに夏大始まったらそんな余裕無くなるし」
「甲子園にだって、行きますよ」

『甲子園』というフレーズにピクリと反応した先輩は身を起こして頬杖をつき、少し考えてから薄く笑みを浮かべて諭すように話しだした。

「もちろん、甲子園にだって行くよ。でもね、全国制覇をするたった1チームだって甲子園決勝が終われば代が替わるし……早かれ遅かれ必要な作業なんだよ」

いつもはすぐ怒ったり笑ったり、子供っぽい表情を見せる先輩は、実は俺が考えているよりもずっとしっかりしているし、大人だ。
俺は目先の夏大に向けて調整するのが精一杯なのに、先輩は夏大より先の未来もしっかりと見据えている。普段はそんなことないのに、こういう時に限って年の差を感じてしまう。
たった一歳しか違わないのに先輩が随分大人びて見えることが、堪らなく悔しい。
俺はなんてガキなんだ。無意識に握りしめた拳がギリギリと軋んで痛い。

「夏大が始まる前にね、できることは全部やっておきたいんだ。そうしたら余計な事を考えずに試合に集中できるし」
「俺に手伝えることは、何かありますか? 」

せめて何か少しでも、先輩の為にできることがあるのなら力になりたいと、心の底から思う。
素直に口から溢れた言葉に、先輩はわざとらしく目を丸くした。
たまに素直になるとやたらと驚いたリアクションをするんだ。まったく、失礼な人だ。

「うーん……何かお願いできることあるかな」
「こういう時は遠慮しないほうがいいですよ」
「じゃあ、帰りに駐輪場まで送ってもらおうかな」
「そんなことでいいんですか? 」
「この時間に一人で駐輪場まで行くの、地味に怖いんだよね」
「お化けとかダメなタイプでしたっけ? 」
「得意ではないかなぁ」
「みょうじさん、結構ビビりですよね」
「もー! その一言が余計なんだよー! 」

膨れっ面の先輩を見ているとこみ上げる笑いが抑えきれなくて、思わず吹き出してまったタイミングで頭に軽いチョップが降ってくる。
本当は手刀を振りかざした時にかわすことだって、白刃取りすることだってできたけど、あえて甘んじて受け入れた。

そうすれば先輩が得意げに笑うことを、知っているから。
そして、俺はその笑顔を結構気に入っているんだ。

「小湊のせいで集中力切れたから、今日はもうおしまい! 」
「他人のせいにするのは良くないですよ」
「……ド正論すぎて言い返せない」
「これから毎日この時間に迎えに来るので、俺が来るまでに片付けておいてくださいね」
「えっ、毎日?」
「はい」
「それはいつ決まったの……?」
「たった今ですけど?」

本当にたった今、俺の独断でそう決めた。
先輩は監視しておかないといくらでも無理をするタイプだし、遅い時間に一人で過ごす時間は少ない方がいいだろう。
夏の夜って変質者がよく出ると聞くことがある。この人だって一応、女子だし。
一人で放っておいて何かあれば、それこそ後味が悪くなってしまうし。

「自主練する時間短くなっちゃうし、気遣わなくていいよ」
「駐輪場のそばの公衆電話に女の幽霊が出る噂って、知ってます?」
「……! よろしくお願いします」

深々と頭を下げる先輩のつむじを見下ろしながら、こっそりとほくそ笑む。
幽霊が出るなんていう噂は今でっちあげたというのに、先輩は疑うことなく鵜呑みにしてしまう。
良く言えば素直、悪く言えば騙されやすいのだ。
こんなにからかいがいのある人を放っておくという選択肢は、もちろんなかった。





「今更ですけど、女の幽霊が出るって噂、あれ嘘です」
「は?! あの噂、嘘だったの?!」

結局、ネタばらしをしたのはあの夜から二週間経ってからだった。
帰り道の駐輪場まで送っている途中、突然ネタばらしをしてみたら案の定、驚いた先輩は素っ頓狂な声を上げて人気の無い校舎に跳ね返って反響した。
静かに、と口元に人差し指を添えると、先輩は慌てて口を抑えて辺りを見回し周囲に誰もいないことを確認して、その場にへなへなと脱力しながらしゃがみ込んだ。

「なんだ……おばけいないんだ」

腑抜けた声で溢れた独り言と、気が抜けて立てなくなっている様子を見ていると、さすがに少し罪悪感が湧いてきた。
先輩は騙されていたことに怒るよりも、幽霊がいないことに安心しているのだから、本当にビビっていたのだろう。
小心者だと知っていたのに、いたずらにしては度が過ぎたし、悪いことをしてしまった。

「話してくれた目撃者の証言も、全部嘘だったの……?」
「全部作り話です」
「小湊の演技力すごすぎない? 嘘だって全然気づかなかった……」
「ありがとうございます」
「なんか褒めるの癪に触るけど!」
「騙してすみませんでした」
「別にいいよ。なんだかんだ毎日送ってもらっちゃったわけだし」

それにさ、と得意げにニッと笑って俺を見上げてこう続けた。

「あんな嘘でもつかなきゃ、私が断るとでも思ったんでしょ?」
「……そういうこと聞くのは野暮ですよ」
「あはは、気遣ってくれたんだよね。ありがとう」

下からニヤニヤと顔を覗き込まれるのが堪らなく恥ずかしくて、今が夜で本当に良かったと思う。
顔に熱が集まる感覚を無視して「いつまで座ってるんですか」と座り込んでいる先輩に手を差し伸べる。
そっと重ねられた薄い手のひらを握って引っ張り上げると、ポニーテールを揺らして先輩が立ち上がる。
ふわりとせっけんの香りが鼻先をかすめて、くらりと目眩がしそうだ。

「あ、そうだ。小湊に渡そうと思ってた物があるんだ」
「なんですか?」
「手、出して」

制服のポケットからスルリと引き出されて、差し出した手のひらに置かれたのはどうやらミサンガらしい。
ミサンガには何やらアルファベットが編み込まれているらしく、ミサンガを真っ直ぐに伸ばしてみると青地に黄色で「R.KOMINATO 4」の文字が現れた。
それを一目見てすぐにわかった。これは先輩が作ってくれた物だ。
青色と黄色の糸のコントラストが青道カラーでよく映えている。
無数の小さな結び目一つ一つを見ていると、繊細な作業に手間がかかっただろうと容易に想像できる。
毎晩遅くまで残って家に帰ってから作ってくれていたのか……俺のために。

「最近ずっと送り迎えしてくれてたお礼だよ。みんなの分は無いから、内緒ね」
「こんな手間のかかってる物……帰ってから作ってくれてたんですか?」
「ミサンガって案外すぐ作れちゃうんだんだよ」
「……俺はいつもみょうじさんから貰ってばかりですね」
「そんなことないって! 私が作りたくて作ったんだから、受け取ってよ」

そうは言っても、先輩からはずっと与えられてばかりだった。
誕生日祝いのジュースも、本命用のチョコレートも、先日渡されたユニフォーム型のお守りも。
物だけではなくて、何度も付き合ってくれたトスバッティングや、クリスマスの夜にしたキャッチボール、冬場に膝を痛めた時にはテーピングを丁寧に巻いてくれた……今で共に過ごしてきたすべての時間も。

サプライズでプレゼントされたミサンガはもちろんすごく嬉しいし、絶対に大切する。
でも、ここまで献身的に尽くしてくれた先輩に、俺が返せるものなんてはたして何があるのだろうか。
渦巻く嬉しさと喜びの感情の中に、ひと匙の不安が混じる。

「まさか貰ってばっかりで申し訳ない、とか思ってるの?」
「まぁ、そうですね」
「それならさ、お礼はハイタッチで返してよ」
「ハイタッチ……ですか?」
「そう! だから、たくさんチャンス作ってタイムリーも打ってよね!」
「了解です」
「このミサンガ編みながら『小湊がたくさん活躍できますように』って念じたから、きっと大丈夫だよ」

先輩は屈託のない笑顔で力強くそう言い切った。
そして、先輩は気づいていないけどまた一つ、俺に勇気を与えてくれた。
いつだって選手の努力を見守ってきてくれたこの人がそう言うのなら、自信を持ってプレーができる。
あとはグラウンドで結果を出して、今までの恩返しするだけだ。

「ミサンガ、ありがとうございます。必ず結果出して、恩返しします」
「期待してるからね。まずは明日の開会式、頑張って! いっぱい写真撮るからね」
「興奮しすぎてブレブレな写真撮らないで下さいね」
「それは……気をつける」

写真の失敗に関しては、去年の開会式でも思い当たる節があったから、先輩はしょんぼりと肩をすぼめる。
そんな仕草までかわいいと感じてしまうのだから、俺も相当に重症だ。

「夏が始まりますね」
「うん、始まっちゃうね」

明日を待ちわびていたようで、いつまでも来なければいいのに、とも思っていた気がする。

ついに明日、たった一つしかない甲子園出場権を懸けた西東京大会が開幕する。
今大会は先輩と甲子園に行ける、ラストチャンスだ。

俺の問いかけに答えた先輩は、さっきまでの明るい表情から一瞬で精悍な雰囲気の顔つきに変わって、その横顔に強く心を揺さぶられる。
先輩は公式戦が近づくと、時折いつもの柔らな表情から一変して、まるで弓を射る瞬間のように張り詰めた空気を作ることがあった。
そのピリッとした雰囲気は嫌な感じではなくて、不思議と心地良い。
適度な緊張で静かに高揚感が高まるこの感じ、俺は結構好きだったりする。

澄んだ瞳は真っ直ぐ前だけを見据えていて、その眼差しを見ていると去年の夏を思い出してしまう。
悔し涙を飲んで引退していったOBたちも、大会が始まる前に先輩と同じような瞳をしていた。
嵐の前の凪いだ水面のような、穏やかな眼差し。
もう後戻りなどできないという覚悟は、すでに決まっているのだろう。

「甲子園、行こうね」
「はい」

月明かりに浮かび上がる白い横顔が綺麗で、いつまでも眺めていたいと思うのに、時は砂時計のようにさらさらと手のひらをすり抜けて決して止まってはくれない。

一日でも長く先輩のそばに居たいと願うなら、勝ち続けるしかないのだ。
それなら尚更、もう負けるわけにはいかない。

そう改めて自分自身に言い聞かせて、ミサンガを強く握りしめた。