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15. 加速する青い春


昼過ぎに開いた新しいページは、風に舞って飛んできた砂ですっかり薄く茶色に染まってしまっていた。
スコアの表面が心なしかザラザラするから、手で払いながら集計をしていると右手の側面が汚れてしまう。グラウンドを出たら速攻で手を洗おうと決意する。ついでに汗ばんだ顔も洗ってしまいたい。
グラウンドでは試合後の整備の真っ最中で、トンボが土を掻く音と部員たちが行き交う足音があちこちで聞こえてくる。
私はこの練習試合が終わった後の時間が、たまらなく好きだ。試合に出場した選手たちは試合の反省をしながらダウンをして、控え部員たちはキビキビとグラウンドを朝の真っさらな状態へと整えていく。
毎週末に繰り返されるこの光景は、何度見ても落ち着くというか、安心する。
今日も怪我なく無事故で終わって良かったと安堵する瞬間に、日中のあいだ張り詰めていた緊張感が柔らかくほどけて、少しだけゆったりとした時間が流れる。
今朝も早起きしたから今頃になってちょっとだけ眠たくて、欠伸を一つ噛みころした。
いつまでぼんやりグラウンドを眺めているわけにもいかないので、止まっていた手を動かし始めると同時に、カチャカチャとスパイクの歯が地面を蹴る音が段々と近づいてきて、すぐ目の前で止まった。
聞きなれないリズムの足音が誰のものかわからなくて机に伏せた顔を上げると、そこには気さくな雰囲気は相変わらずな、懐かしい顔が。

「よっ」
「わっ、びっくりした。マサじゃん! 今さら挨拶とか遅いんですけど?」
「悪ぃ、朝は忙しいと思ってさ。試合終わったら声かけようと思って」

久々に再会した同級生は申し訳なさそうに眉を下げて、少し困ったように笑う。この仕草も見ていると昔が懐かしくて、結んでいた口元が緩く綻んだ。
見た目は中学生の頃よりもずっと背も伸びて、筋肉もついて大人らしくなったと思う。
マサは同じ中学の軟式野球部で、キャプテンを務めながら都大会も良いところまで勝ち上がったりと、なかなか優秀な選手だった。
一時は青道高校への入学も考えていたらしいけど、結局は都立の強豪 火野高校へと進学していった。
別の高校に進学してからも、お互いに西東京地区の野球部に入部したので大会が近くなったりすると時おり励ましのメッセージを送りあったりしていたけど、最近はあまり連絡をしていなかったことを、ふと思い出す。

「そういえば会うの久しぶりだよね?」
「秋大の神二で会った以来だから、半年ぶりだな」
「なんかまた背伸びた? てか、お尻大きくなったね」
「痛っ! やめろよ、セクハラだぞ!」
「いいじゃん。減るもんじゃないし」
「発言がセクハラおやじと一緒だぞ」

椅子に腰掛けながら話しているので、ちょうどいい位置にお尻があるから手を伸ばしてパンッと叩くとマサは大袈裟にリアクションをする。
軽く叩いただけなのに、わざとらしいにも程がある。ムードメーカーでお調子者なところも相変わらずのようだ。

「すっかりキャプテンらしくなったじゃん! サードから声がよく聞こえてたよ」
「さすがにキャプテンにも慣れたよ。まぁ、俺が声出して引っ張ってかなきゃだからな」
「てか、うちのかわいい丹波から二本もヒット打ってくれちゃってさ! さすが火野の四番だね」
「でも試合に負けたんじゃ意味ねーよ。……やっぱり青道って強いな」

マサは頭を乱暴に掻いてグラウンドを眺める。この仕草もまた懐かしい。これは悔しい時によく見せる癖だった。
中学の頃よりも一回りも二回りもたくましくなった姿を見上げて、なんだか眩しくって真っ直ぐに見ていられなくて、目を細める。

「次は夏大で対戦したいね」
「おう。次は俺たちが勝つけどな!」
「青道だって負けないから!」
「……あの、盛り上がってるところにお邪魔してすみません。みょうじさん、借りてもいいですか?」

突然、背後から声がして驚いて振り返ってみたら、邪悪な笑みを浮かべた小湊が佇んでいるではないか。
いきなり声をかけられたことより、放っているオーラが禍々しくてビビってしまう。
マサに向けた目つきの鋭さから異様な雰囲気を感じ取って正面をちらりと見ると、マサもちょっと引いてるみたいで焦る。
なんで俺は睨まれてるんだ? と目線だけで訴えかけられても困るんだけど。
ていうか、この人借りてもいいですか……ってなんの話しだ。

「どうしたの?」
「さっきの試合メンバーだけで反省会しようって話になったので、みょうじさんを呼びに来ました」
「悪かったな、時間取らせて」
「ううん、今日は久しぶりに話せて良かった」

スコアを片手に椅子を引いて立ち上がると、不意にマサが私の腕を掴んで顔を寄せてきて、小声で耳打ちをする。

「….…後輩をあんまりたぶらかすなよ」
「は? なんの話し? ねぇ、ちょっとマサ、待ってよ!」
「じゃあなー! また夏大の抽選会で!」
「早く行きますよ」
「う、うん」

去り際に意味深な発言を耳打ちして、マサは仲間たちの輪の中へ颯爽と走り去っていった。
たぶらかす、ってどういう意味なんだろう。もはや "たぶらかす" の言葉の意味から調べないと思い出せそうにない。
首を傾げていると小湊にも急かされるし、早足すぎて置いていかれそうになるし、終始無言だし、なんなんだこの異様な雰囲気は……!

「……小湊、なんか機嫌悪い?」
「そんなことないですけど」
「そ、そっか……(絶対に不機嫌なパターンだ)」
「火野の主将とずいぶん仲が良いんですね。下の名前で呼んでたし」
「マサとは中学が一緒だったからね。それと、マサってあだ名だよ。名字が正岡だから」

へぇ、と気の無い返事が返ってきて、小湊の歩く速度が少しゆっくりになってようやく隣に追いついた。
五月は初夏というだけあって、強い日差しに焼けた小湊の頬がほんのりと赤くなっていることに気づく。

「……あ! 小湊が不機嫌な理由、わかったかも」
「だから不機嫌じゃないですって」
「三塁線への良い当たり、アウトにされたからマサのこと睨んでたんでしょ」

そう指摘すると、小湊はくしゃっと顔をしかめる。たぶん、図星なんだろう。
先程の試合、八回裏の攻防。二死二塁と追加点のチャンスで小湊に打席が回ってきた。
相手投手はキレのあるスライダーを決め球に、打ち取るピッチングで青道打線を三点に抑えていた。
リードは二点あったけど、追加点でさらに突き放しておきたい場面だった。
二球続いたスライダーをカットした小湊は、待っていた外のストレートをバットの先で捉え、打球は三塁線ギリギリのところで低くバウンドした。
サードの脇を抜ければ長打コースだったけど、マサは横っ飛びで打球に食らいつく。
なんとか捕球には成功したけど体勢も悪いし、送球しても暴投になりかねないから投げずに内野安打になるだろうと思っていた。
しかし、予想を反してマサは素早く起き上がって大きく肩を回し、放った送球はまるで弾丸のように鋭く正確にファーストのミットに突き刺さった。小湊も全力疾走で一塁を踏んだけど、判定はアウト。
マサのガッツあるファインプレーに火野ベンチは大盛り上がり、青道ベンチでさえファインプレーを称える声で溢れていた。
私も旧友のファインプレーに小さく拍手しながら、ベンチに帰ってきた小湊の姿を横目で追うと、ヘルメットを外した横顔が悔しそうに表情を歪めていて、ちくりと胸が痛んだことを思い出す。

「あの打席は……俺の脚より正岡さんの肩の方が優ってましたね」
「マサは元々はピッチャーもやってたし、結構肩強いんだよ」
「へぇ、詳しいんですね」
「まぁずっと見てきたからね」
「…………好きなんですか、正岡さんのこと」
「……は?」

どうしよう、ものすごく睨まれてる。
とりあえず、背後から放っている負のオーラをしまってほしい。今日は心当たりのないことばかり言われるのは、なぜなのか……。

「バレンタインのチョコを渡そうとしてた人って、もしかして正岡さんじゃないんですか」
「違うって! なんでそうなるの!」
「その割にはずいぶん楽しそうに話してましたよね」
「それは久々に会ったから、嬉しくって」
「それって、好きってことじゃないんですか?」
「マサは友達としては好きだけど、恋愛とは別だよ」
「へぇ、そうですか」
「そうだよ!」

ていうか、私が好きなのは小湊なんだけど。
もしかしたら好かれているのは自分かもしれないって、考えもしないのかな。
そうだとしたら、ちゃんと想いを隠しきれていることになるけど、それと同時に私の好意がまったく届いていない証拠にもなる。
でも、小湊だけには私の想いを勘違いしてほしくない。誤解させたままにしたくない。

「それにマサは火野のマネージャーと付き合ってるんだよ」
「あのマネージャー、結構かわいいですよね。お似合いじゃないですか」
「……まぁ、マサにはもったいないくらいだけどね」

確かに、マユミちゃんは背が低くて細身だし、性格もいい。顔はキレイ系というよりもカワイイ系だし、しかも巨乳だ。いわゆるロリ巨乳というやつ。
そうか、小湊はマユミちゃんがタイプなのか……。
そう考えると私はマユミちゃんと真反対なタイプの人間なので、苦悶する。私なんて中肉中背だし、キレイ系でもなければカワイイ系の顔立ちでもないし。極め付けに微乳だし。自慢じゃないけど、決して豊満ではない。
まぁ別にいいのだ、そんなことは。マネージャーとしての仕事がきちんと出来れば、外見なんて関係ない……と思う。

「小湊はマユミちゃんみたいな子がタイプなのかぁ」
「火野のマネージャーのことですか? 別にタイプってわけではないですけど」
「じゃあ、どういう子がタイプなの?」
「強いて言えば……好きなことに一途になれる人、ですかね」
「抽象的すぎてどんな子か想像できないんですけど」
「想像する必要無いですよ」
「冷たいこと言うなぁ……ていうか、ミーティングの場所ってここなの?」

話しながら歩いて室内練習場まで着いたのはいいけど、屋内を見ても誰もいないし。
私の問いかけに小湊は平然と「実はミーティングもう終わってます」と言い放った。
じゃあ、どうして私はわざわざ小湊に呼び出されたのか。私は訳がわからなくて困惑しているのに、小湊な余裕そうにニヤッと笑っているから、さすがに腹が立ってきた。

「なんで嘘ついたの」
「みょうじさんが正岡さんと楽しそうに話してたから、邪魔したくなりました」
「そんな理由で嘘ついて、ここまで連れてきたわけ?」
「俺もみょうじさんと話したかったんですよ。ダメでした?」

また思わせぶりなことを言うんだ、私に気があるわけでもないくせに。
そういうところがムカつくけど、嬉しい事をさりげなく言ってくれるから、単純な私はどうしても小湊を憎めない。

「……別にダメじゃないけど、嘘つくのはやめて」
「すみません」
「わかればよろしい。じゃあ、戻って片付け手伝ってね?」
「えー」
「返事はハイ、でしょ?」
「ハイ」

不都合な事には唇を尖らせて生返事をするのが、小湊の癖だ。
子供っぽいその仕草すら、愛しいと想ってしまうのだから恋をしていると盲目になっている自覚はある。



時々訪れるこの穏やかな時間をあと何回過ごせるのかと、ぼんやりと考えてみる。こんなにも無邪気で、他愛もない会話は、あと何度交わせるだろう。
すでに夏大のベンチ入りメンバー争いは始まっているし、これからどんどん部内の緊張感は高まっていく。
たった五回しかない甲子園に行けるチャンスは、あと一回しか手にすることはできない。この夏が私たちに残された、最後のチャンスになる。
そして、夏大の開幕まであと約二ヶ月。甲子園に出場できたとしても、現役生活はあと約三ヶ月程しか残されていない。
引退はすなわち小湊と過ごす時間が減る、ということになる。毎日のように白球を追いかける姿を見てきたのに、そんな当たり前の日常は大きく変わってしまう。今はまだ、引退した後のことなんて想像すらできないけど。
全国制覇を成し遂げたとしても、現役引退をする瞬間は必ず訪れる。その瞬間が来るまでに、チームのためにできることは全部やりたい。
それほどに、甲子園に焦がれている。小湊を好きになるより先に、ずっと昔から甲子園に恋をしているから。

隣を歩く小湊が、あの黒土のグラウンドでプレーしている姿をまぶたの裏に思い描く。
あとは片付けをするだけなのにやたらとヤル気が湧いてきてしまうのは、想像してみた甲子園でプレーする小湊の姿がかっこよすぎたせいなのかもしれない。

「みょうじさん、何にやけてるんですか?」
「にやけてないよ! 失礼な!」

意地悪な笑みを浮かべながら頬を突かれて、指先を掴もうとした手がひらりとかわされた。
減らず口で小生意気な後輩であると同時に好きな人でもあって、たまにどんな顔をして接すればいいのかわからなくなってしまう。
触れられた頬に熱が集まる感覚に気恥ずかしくなって視線を伏せ、さりげなく小湊の表情をうかがう。夕日に照らされた横顔が大人びて見えて、とくりと心臓が跳ねた。
今この瞬間、唐突に引退したくないなと、強く思う。まだ小湊のそばにいたい。現役引退しても、卒業しても、大人になっても、ずっと。
あまりにも図々しい願いに、野球の神様ですら呆れてしまうかもしれない。それでも想いは時の流れと比例するように加速していく。もう止めることも、後戻りすることも許されないところまで、来てしまっている。


夏へのカウントダウンは、もうすでに始まっているのだ。