「どうしたんですか?」
お風呂から上がり、洗面台で髪を乾かしてから部屋に戻ると、真衣が窓のカーテンを少しだけ開けて、隙間から外を見ていた。
「あらお姉様、ゆっくりできました?」
「はい、とっても。ありがとうございました」
春歌が気を落ち着けられるように入浴を勧め、その準備までしてくれた真衣に心から礼を言う。本来はずっと年下の筈の真衣に、ここでは頭が上がらないと思った。
「いいえ。それよりも、丁度良いところにお兄様がお帰りになったようです」
「え!?」
クリーム色のカーテンをちらりと捲って確かめる真衣の言葉に、リラックスして解れていた体が一気に硬直した。
「お兄様ったら、今朝は私と約束をしていましたのに来てくださいませんでしたのよ。ですから私が誠意をもってお出迎え致します」
口では悪態を吐いても、真衣は姿見の前に立ち、さっと身嗜みを整え始めた。その自然な動作に兄を日頃から尊敬している態度が窺える。それに影響されて、春歌も自分の身なりを整える。
入浴後の体は未だ火照ったままで、熱を逃がそうと襟元を少し寛げさせていたが、"あの"真斗の前ではだらしないと言われるかもしれない。相手は春歌の最愛の人だと言うのに、今から会うのだと思うと緊張が隠せず、小さなボタンを留める手元が少し震えていた。
手早く身なりを正した真衣は、すたすたと出入り口の前へ進み出る。ドアノブに手を掛けたところで間を置いたので、そのタイミングで春歌は鏡から戸の方へ向き直った。
そして全く迷いも無く、真衣の手で扉が開かれた。
「お帰りなさい、お兄様」
そこには鍵を手にした彼が――この時間の真斗が、今朝出かけた時と同じ姿で佇んでいた。
「……合鍵で入ったのか」
真斗は自分が開けるつもりの扉が内側から開かれた事、そこに春歌ではなく真衣がいた事に一瞬目を見開くも、すぐに冷静な顔に戻った。
帰って来た彼の姿を見て、春歌は緊張からきゅっと自分の手を握り締める。
「ごめんなさい。今朝からおふたりの姿が見えなかったので、気になってしまい……。勝手にお部屋に入ってしまって申し訳ありません」
「いいや。マスターキーや藤川以外、独断で鍵を預けているのは真衣だけだ。お前を信じているからな。謝る事ではない」
戸を閉めてから振り返った妹に微笑みかけ、慣れた手つきで頭を撫でる真斗。そのふたりの姿が、出会った時と重なり、春歌の中で一致した。
ただ違うのは、今の真衣は、兄に頭を撫でられて素直に喜びたい気持ちと、年頃なのか恥ずかしい気持ちが混ざり、顔を赤くして困った表情をしていた。
「お前の気も少しは晴れたのではないか?」
兄妹の微笑ましい一面を見つめていた春歌は、不意に真斗に声を掛けられ、同時にふたりの視線が此方に向けられている事に気が付いた。はっと意識を戻す。
気にかけてくれていたのだろうか。
「……はい、真衣ちゃんのお陰で寂しくありませんでした」
疑惑が詰まった部屋に、何もわからずたったひとりで取り残され、寂しさと不安で押し潰されそうになっていた。だが真衣と話す内にそれも紛れて、少しずつ忘れさせてくれた。
兄の背後で、此方に笑顔を送る真衣に春歌は感謝した。
「それで、何かわかった事はあるのか?」
手早くジャケットを脱ぎ、ネクタイと一緒にクローゼットの中へ仕舞う真斗が、ふたりに問いかける。
春歌が言いあぐねていると、食卓の椅子に腰掛けた真衣が口を開いた。
「本来の春歌お姉様は、私も捜してみましたが、屋敷内にはどこにもいらっしゃいませんでした。携帯電話やお出掛けの際の持ち物も此処にあるようですし……」
春歌も見慣れた白い箪笥の上に散らばった小物を一度見やると、真衣は緩く丸めた指を唇に当て考える。
「代わりに、ここにいらっしゃるのは16歳の春歌お姉様。……単純に、今と昔のお姉様が入れ替わってしまったのではないでしょうか?」
「単純かどうかはさておき、そう考えるのが妥当だな」
スーツ姿からラフな私服に着替えた真斗が、春歌が座る椅子の背凭れに手を置き、その傍らに立っていた。春歌が見上げると、思ったよりも彼との距離が近く、肩を跳ね上げてすぐに俯いた。
同じ時に同じものがふたつとして存在できない。人間には理解しがたい、何か法則のようなものがあるのかもしれない。はたまた自分達が難しく考えているだけで、誰某の手による悪戯なのかもしれない。等、ふたりが自分の為に件について談義しているのに、当の本人は隣の椅子に座った真斗が一々気になって殆ど集中できない。
横目でちらりと盗み見ていると、こちらに見下ろした真斗とばっちり目が合ってしまった。
「お前はここへ来た時のことを、何か覚えてはいないのか?」
「い、いえ何も……。昨日はいつも通り自分のお部屋で寝て、今朝起きたらここにいたんです」
春歌は真斗とあまり目を合わせていられず、話の間もつい顔を逸らしてしまった。
昨夜眠りについたその瞬間まで真斗と一緒だった事も付け足そうとしたが、目の前で純粋な眼差しを向ける真衣の前ではとても言えなかった。
原因は何ひとつわかっていないし、これ以上考えても、きっと自分達ではどうすることもできない。真斗は先の見えない現状にため息を吐いた。
「……どうしたら帰って来るのだろうな」
小さく溢された溜め息が、少し悲しげに聞こえた。
あまり聞き取れなかったそのひと言に春歌が首を傾げていると、真斗は一呼吸置いて壁掛けの時計を見上げる。
「真衣、お前は勉強があるだろう。自分の部屋へ帰りなさい」
春歌が時計を見上げると、時刻は17時をまわっている。
これ以上わからない事を考えても会話が堂々巡りするだけ。学生として勉学を優先するべしと、真斗が妹にそう言った。
だが春歌は、ここで唯一安心できる真衣を追い出そうとする真斗の台詞に戸惑った。真衣が出て行ってしまえばこの部屋には真斗とふたりきりになってしまう。今朝のここでの出会いと出来事が思い出され、また強張ってしまう。
まだこの真斗とふたりきりになるのは、なんとなく怖い。
そんな春歌を案じてか、真衣は軽やかな足取りで春歌に駆け寄り、親しげに腕を絡めてきた。
「ずるいですわ。お兄様ったらすぐお姉様をひとりじめしようとするんですもの」
春歌にぴたりとくっついて、兄に言い返す真衣。離れがたいと言いたげな言動がとても嬉しい。是非ともまだ一緒にいたいのは、春歌も同じだ。
「真衣」
だが諭すように真斗が名を呼ぶと、真衣は不満そうに眉をひそめた。
「仕方ありませんわ……。では、ごきげんようお姉様。お話できて楽しかったです」
いじけた様子でしょんぼりとした真衣は、春歌の手を取ってそう言うと、踵を返して出口へ向かった。春歌も寂しげにその背中を見送る。
「お兄様、今朝は約束を破ったのですから、必ず埋め合わせしてくださいな」
「ああ……考えておいてくれ」
行きすがら、気持ちの切り換えが早いらしい真衣は、扉まで見送る兄に仕返しとばかりにそう言い放つと、真斗は軽く頷いて返事をした。廊下に出た真衣は、最後に春歌に向かって笑顔で手を振って去って行った。
ぱたんと閉まる扉。途端に静まり返る部屋の中で、春歌はますます居心地が悪くなる。
「……何か食べたか」
「はいっ?」
真斗に話しかけられ、声が上擦ってしまった。彼もどことなく落ち着かない様子に見える。
「あ、はい……真衣ちゃんが林檎を切ってくれたので。すみません、勝手にいただいてしまって」
「構わない。今朝きちんと許可しただろう。遠慮は無用だ」
「はい……」
突っぱねたような物言いだったが、その言葉は、何故か学園の頃の真斗を思い出させた。少し距離を置くような態度の中にも、いつだって不器用な彼なりの優しさが隠れていた。言葉や態度は愛想がなくても、彼は春歌がよく知る真斗なのだ。
ならば気を張る必要はないはず。勇気をもって話をしなくては。そう思い、今度は此方からも呼び掛けてみることにした。
「あの、えっと……ま、まさ、真斗、く……」
全く考えていなかった。はたして何と呼べば良いのだろう。
本来の真斗と春歌は一歳差で、親しく"真斗くん"と呼んでいたが、よく考えるとこの真斗とは約十歳も差がある。いざいつも通りに呼ぼうとすると、違和感を通り越して罪悪感さえ覚えてしまった。
「呼びづらいか?」
「は、はい……いくら同じ人でも、大人の方ですし、その……さすがにくん付けではお呼びしづらいです」
「君付けに抵抗があるか。ならば呼び捨てにしてはどうだ?」
「えっ!? も、もっとできません……!」
真斗がさらりと言った案に、春歌は首をぶんぶんと振る。大人を相手に君付けは気が引けると言った筈なのに、更に砕けた呼び方を要求されては、もうどう対処したら良いのかわからない。
両手を握り締めて困っていると、小さく笑い声が降ってきた。
「ふっ……可愛い反応をしてくれる」
「え、え……?」
一瞬何を言われたのかわからず、見上げてみると、真斗が柔らかい笑みを浮かべていた。恐らく今の言葉は聞き間違いではないだろう。まさかそんな言葉を貰えると思わなかった。
今までの印象を塗り替えるような思わぬ笑顔で可愛いなんて言われては、頬の赤みを抑えられない。両手で頬を覆うと、案の定また笑われてしまった。元々この人に惚れ込んでしまっているのだから、隠そうとしたところであまり意味はないだろう。
「え、えっと……真斗さん」
「なんだ?」
気を取り直してそう呼んでみると、いくらか表情を和らげた真斗が首を傾げる。
「……真衣ちゃんから、ここがご実家のお屋敷だと聞きました。それで、今ここで暮らしているのは、お仕事の都合だって」
「ああ」
「…大人の私も、一緒なんですか?」
ここまで真衣の説明を聞いた上、あれほど好意を受け取っておきながら、まだ疑うのは些か失礼とも思うが、やはり何よりも確かめたかった。
「……何故、疑問に思う?」
疑われていることが気に食わなかったのか、真斗は眉をひそめて聞き返す。よく見ると眉間に皺を寄せることが多いのか、きめの細かい肌にうっすらとそのあとが付いてしまっている。
「俺はそんなに信用されていないのか」
「そ、そうじゃないんです! ただ私……不安になっていたんです。ひとりで、このお部屋に来て、真斗さんを見て。どんな未来なんだろう、未来の私はどこにいるんだろう。ずっと、真斗さんと一緒にいる私の面影を探して……」
「見覚えのある私物がそれなりにあるだろう。お前以外に誰が使うんだ」
10年前からあるらしい、真斗にも馴染み深くなった春歌の洋服箪笥を見やる。
「……まさか、俺がお前を裏切る真似をするとでも思っているのか?」
違う、真斗くんはそんなことしない。
反射的に顔を上げ、彼の言葉を否定しようとするも、春歌が先程から並べる言葉は、"あなたを信じられない"と言っているようなもの。違うと言い返しても、ただ取り繕ったようで、口には出せなかった。
信じている、信じたい。
あなたの傍で笑っていられる未来を、あなたとの夢が叶い、辛いことがあってもふたり支え合って、お互いの手を握り締めて歩く未来を。
「私はただ……未来も、ずっと一緒にいられるのかなって……真斗さんと」
真斗はぴくりと眉を顰めた。そして突然近づいて来たと思ったら、力強く春歌の腕を掴み、戸惑う彼女も気にせず強引に歩き出した。
また怒らせてしまったのだろうか。10年前はそんなに怒りっぽい人じゃなかったのに。でも痛いくらいに掴まれた腕からは、怒りに満ちた感情はこもっていないように感じた。では何を思って手を掴まれ連れられているのかは、わからない。わからないから、勝手に春歌が怖がってしまう。ただ少し痛くて。
「教えてやることはできないが、いいものを見せよう」
怒声ではなく、無感情に淡々とした口調で振る返る真斗。
真斗の部屋の中には、春歌が利用したバスルーム以外にも幾つか扉がある。その中で一番頑丈で重そうな扉の前に立ち、真斗は大きなドアノブを回した。
開かれた中は暗く、外の光さえ差し込んでいない。扉を開けたことで此方の明かりが漏れて、床にふたりの影がかくっきりとできていた。真斗が部屋の壁をなぞり、明かりのスイッチを探す。暗くても場所はわかりきっているらしく、すぐにパチンと音がした後に暗い部屋が明るくなる。
「え……」
春歌は言葉を失った。
春歌が学園在学中からお世話になっている大先生に、いつか見せて頂いた写真を思い出す。それと全く同じとは言えないが、その部屋の設備や機材、ほとんどの物に見覚えがある。
真斗の部屋と隣接した小部屋の正体。そこは間違いなく作曲家の仕事部屋だった。
手前の回転椅子を囲むように複数並べられたキーボードやシーケンサー。その椅子周辺には五線譜や鉛筆が沢山置かれているが、ほとんどが散らかっていて、お上手でも整頓されているとは言えない。
部屋の壁沿いには他にも幾つかの楽器類が、剥き出しだったり、ケースに納められ並べられていたり。奥には録音用のマイクも幾つか設置されていた。
傍のパソコンが置かれたデスクも、CDや書類など色々な物がごちゃごちゃと乱雑に置かれ、開いたまま真ん中に置いてある分厚い手帳は、離れた所から見てもびっしりと書き込まれ、本当にそんなに必要なのかわからないほど付箋が沢山貼られている。デスク脇のコルクボードも似たようにメモ用紙や何かのチケットや古い領収書などが大量に重なり、まるで壁から紙の束が生えているようだと思った。
まさかこんな隠し部屋があったとは。あまりの驚きに春歌は開いた口が塞がず、ただ部屋の隅々まで興味深く見渡していた。
「この部屋は防音になっている。これほどの機材が俺の部屋にあっても、俺には扱えん」
いつの間にか春歌を解放していた手がそっと肩に乗せられ、そのまま引き寄せられ、顔を覗き込まれる。
「この部屋が何をする為の部屋か、誰の為の物か。もうわかるな?」
ぼんやりと、この作業部屋で忙しく仕事をする自分が頭に浮かぶ。
身の回りの整理整頓も手に付かないほど目まぐるしい毎日。帰宅するなり、箪笥の上に鞄を置き、そのままこの部屋にこもり作曲に没頭する。自分も忙しいだろうに、時々様子を見に来ては、少し休憩してはどうかと美味しいお茶を差し出してくれる真斗の姿。
今までの憂いた気持ちが流れていく気がした。
「……はい、真斗さん」
彼が何も言わなくても、何を見せたかったのかがわかった。
ここに、真斗の元に、春歌が作曲家として。そんな自身の存在の"面影"を見つけられた。それが嬉しくて、胸が熱くなる。
真斗は、確信した目で頷いた春歌に微笑み、ゆっくりと作業部屋から出て行った。春歌もそれに続こうと振り返ると、その視線の途中ある物を見つけた。
作業場と思わしき少し散らかり気味な場所から少し離れた位置(部屋の奥の方)に、何やらアンティーク調のやや古びたデザインの縦ピアノが置かれていた。春歌はこの未来に来てから、あれだけ広い部屋なのに、真斗の好きなピアノが無いのを不思議に思っていた。こんな所に隠れていたのかと思うと同時に、そのピアノに既視感を覚える。考えを巡らせてみるも、小部屋の外から真斗に戻るよう言われ、いつどこで見たことがあるのかは結局思い出せなかった。
(いつかこんな場所で)
真斗の手で部屋の明かりが消され、扉が閉ざされるその隙間まで目に焼き付けた。夢を目指す若い春歌にとって、そこは目指すべき場所だった。
「あの、さっきのお部屋」
「待て」
いつからあるのか、春歌はほとんどここで作曲をしているのか。気になった事を尋ねようとしたが、そう来るとわかっていたような真斗に制された。
「俺の口からは、もうこれ以上教えてはやれん」
「え? どうしてですか?」
「気になる事は多いだろうが……あまり未来を知りすぎるのはお前のためにならん」
「あ……」
確かにその通りかもしれない。普通、人は先の事はわからない、知り得ない。良い事も悪い事も、ここで春歌が知ってしまうことで、この未来がまた何か変わってしまうかも知れない。その不安定な未来に繋げる為に、今を精一杯尽くす。未来は今の自分次第。
きっとそれを真斗はよく知っている。未来に進む過去の自分達に、変わらない努力を続けてほしい。自分を信じて、自分が一番だと思う道を歩んでほしいと。
「そうですよね……」
せっかく未来に来れたのに、詳しく知ることができないのは少し残念だが、真斗が言うことは最もだった。
残念だと肩を落としていると、
「……俺も甘いな」
「え?」
「ひとつだけだ。ひとつだけ答えよう。何でも良い」
簡単な質問で頼む、と続けた真斗の言葉を聞いた瞬間、春歌の脳裏に次々に聞きたい事柄が駆ける。
夢の事、プロとしての活動の事、真斗の職業の事、春歌の作曲家としての仕事の事、他の同期達の事、みんな変わりないか元気でやっているか、真斗は今も歌えているのか。
知りたいことは幾らでも思い浮かんだ。考えるほど次から次に浮かび、ひとつだけという条件にあれもこれも弾かれていく。ひとつに絞ることはとても難しく、聞かないという選択肢もあるが、せっかく真斗がああ言ってくれたのだから、強引にでも何か聞いてしまいたい。
「な、何でも良いんですか?」
「ひとつだけな」
たったひとつだけ知るとしたら。
ずっと最初から浮かんでは躊躇っている事がある。
一番聞くのが怖い。それでも、もし望む答えが返ってくれば、春歌はそれだけを信じて進める。
「じゃあ……」
意を決して、春歌はまっすぐ彼を見つめた。
「……私のこと、好きですか?」
女として、恋人として。
「10年経った今でも……私のこと、好きだと思ってくれていますか?」
他にどんな未来が待っていても、どんなに苦しく辛い壁に当たっても、真斗が想ってくれる。ただそんな事で、春歌は頑張れる。だから。
訊いてしまった以上、どんな答えが返って来ても、受け止めなくては。指先が震えるのを隠すため、握り締めて拳の中に隠した。やっぱりこの質問をするのには、覚悟が足りなかった気がする。
真斗は唖然とする表情を隠せなかった。思わぬ問いかけに、目を丸めた真斗は、がっくりと項垂れ頭を抱える。
「はぁ……とことん俺は信用されていないらしいな」
細々と嘆く彼の声が耳に痛い。だが聞いた春歌も、まさか彼本人に対しこんな問いをする時が来るとは思ってもみなかった。問う前に散々躊躇った上に、今は聞いた事を後悔さえしている。ただ神妙な面持ちで答えを待つ。
どうしたものかと腰に手を当てる彼。そんなに考えるほど言いづらいことなんだろうか。好きならそうと言ってくれるはず。そうでないなら……。
胸の辺りで両手をぎゅっと握り締める。沈黙がたまらなく怖くて何かを言おうとした瞬間。真斗が目の前まで迫り、春歌の背に腕を回し早急に抱き締めた。
「わっ、え!? あ、あのあのっ」
一連の動きが素早く滑らか過ぎて、いつの間にか抱き締められた事にとにかく驚かされた。逞しい腕の力に言い難い切なささえ感じて、どきどきと鼓動が早まる。
なぜ突然抱き締められたのか訳がわからず、行き場の無い両手はただ彼の胸板に添えることしかできない。手の自由が利いたとしても、真斗の力に春歌は抵抗さえできないが。
「……これでいいか?」
耳元で低く落ち着いた声が響く。
「っ……え、え…?」
「答えだ。これでわかっただろう」
体を暖かく包まれたときめきで忘れそうになっていたが、真斗は春歌の質問に答えてくれているらしい。つまり、口で言うのが躊躇われたから行動で示したということだろうか。
先ほど春歌は精一杯絞り出して真斗に質問したのに、教えてやると言ってくれたのに、これは卑怯だ。
「そそそんなのずるいです!」
「好きかと聞いたお前が悪い。そんな事をわざわざ聞くな」
「うぅ……」
口論をしつつも、真斗の胸の中でどきどきと心臓が跳ね上がり、春歌はいっぱいいっぱいだった。瞳をぎゅっと閉じれば、うっすらと透明な雫がじわりと滲み睫毛を濡らす。
「……不安にさせたな」
すると真斗が大きな手で春歌の頭を撫で、謝罪をした。不意の言葉に戸惑う。
確かに不安な思いは沢山したが、それはほぼ春歌の思い過ごしであった。だが疑わせたのも真斗であることに違いない点が幾つかある。その事については春歌にとってはもう気にしていなかった。
それよりも本題から話を逸らされた気がしてならない。今聞きたかったのは、そんな言葉ではなかった。
ただ、今日一番、優しいと感じた声で囁かれては、春歌は黙って彼を受け入れるしかない。
「ずるいです……」
真斗が、こんなに強く抱き締めることが答えだと言うなら、そう理解するだけ。それは、春歌が望むままに捉えても良いのだろうか。今も好きだと思ってくれていると、信じていて良いのだろうか。
探るように恐る恐る背中に手をまわすと、耳元で微かに笑ってくれたのを感じたので、これで良かったのだと春歌は安心した。
その後、春歌は今日一日、林檎ひと欠片しか口にしていないことに気づき、真斗が手料理を振る舞ってくれた。仕事で疲れているのに、用意してもらうのは申し訳なく、春歌も邪魔にならないよう彼を手伝った。
これはいつものことだが、彼は言わずと知れた料理上手で、手際も良い。ひとりでの料理に慣れた人を下手に手伝おうとすると足を引っ張ることが多く、春歌が申し出る度に真斗もそう感じているのではないかと春歌は思っている。
だから真斗が遠慮せず指示を出してくれると春歌は張り切って調理台に向かう。
広く使いやすいキッチンだが、初めて立つ場所では勝手も掴みづらい。何度か調味料や調理器具の場所などを尋ねたが、その度に真斗は"うっかりしていた"と返事をして、教えてくれた。
手伝う事が無くなると、真斗の料理する様子を邪魔にならないように見学した。時々、その料理のコツやポイント等を質問すると、彼らしく丁寧にわかりやすく教えてくれた。春歌が感嘆の声を上げ、勉強になりますと相槌を打つと、真斗は苦笑いを浮かべていた。
春歌が今日一日何をしていたか、何を感じていたか等、他愛もない会話をしながら、相変わらず文句の付け所の無い料理をいただく。
食事を済ませるなり、真斗は風呂に入ると言って食器を流し台に引っ込めた。春歌にその片付けを頼むと、何やら冷蔵庫から可愛らしいチョコレートケーキを出して来た。
「俺はいらないから食べてくれ」
そう言って真斗は、冷蔵庫に入っていた余った林檎をひと切れ頬張ってクローゼットへ向かった。
「うわぁ、美味しそうです! 私が食べちゃって良いんですか?」
小皿に乗せられた大好きなデザートに心を躍らせ、色んな角度からケーキを見つめながら背後の真斗に聞く。
「ああ。貰い物だが、お前の口にも合うと思う。本人が実証済みだ」
真斗の言葉に続いて、がちゃりとクローゼットが開く音。
「ふふっ、それって、26歳の私のことですか?」
真斗の茶目っ気ある台詞に、うきうきしながら振り返る。
と。
「!!? ままま、真斗さん!」
「どうした、気に入らなかったか?」
舞い上がっていた春歌の声が驚愕に色を変えた。
それがケーキの感想だとでも思ったのか、真斗は平然としている。
その行為はそのままに。
「な、なんでここで脱いでるんですかぁあっ」
振り返った春歌が目撃したのは、着ていたセーターとワイシャツを脱ぎ、もうまさに両腕から袖を落とそうとしている真斗だった。因みにタンクトップ等は身に付けていなかったようで、逞しい胸板が春歌の前に晒されている。
「"なんで?"……風呂に入るからに決まっているだろう」
「脱衣所で脱いでください!」
勝手ながら、春歌も風呂場を利用させてもらったので、はっきりとそう言えた。脱衣スペースが無く、やむ無く部屋で脱いでから入浴という環境であったなら仕方がないかもしれない。しかしこの部屋の風呂場にはちゃんとした洗面台と大きな鏡まで備わった脱衣所がある。
何にしても、年頃の娘の目の前で裸になろうとは、10代の真斗からはとても考えられない。突拍子もない行動に狼狽し、春歌は上半身裸の恋人がそこにいる恥ずかしさから、顔面を両手で覆った。
「何を恥ずかしがっている? お前も見慣れたものだろう」
「!? も、もう何言ってるんですか! 服、着てくださいっ」
視界を塞いだ先で、スボンのベルトにまで手を掛ける音が聞こえ、春歌は更に慌てた。
それに"見慣れたもの"とはよく言ったものだ。恐らくそれは、今朝や目の前の真斗だけでなく、春歌が今まで見てきた若い真斗のことを含め総合的に言っているのだろう。"お前も"と言ったのには「26歳の春歌と比べれば慣れは浅いだろうが16歳の春歌でも」と言ったニュアンスが含まれていたように思う。
そんな、たしなみを忘れた大人のジョークを、どう受け止めれば良いのか春歌にはまだわからず、またいつものように赤くなって俯くしか出来なかった。
「すまない、つい癖でな」
謝る声が震えているのは笑いを押し殺しているからだろう。
春歌がそこに居ても平気で素っ裸になることを癖で片付けられるらしい。大人はそれが当たり前なのだろうか。何度も思い返した朝の様子を頭の中でリプレイすると、きっと当たり前なんだと思い知った。
「ただ、脱衣所は寒くてな」
顔を覆った手の平からちらりと真斗を窺うと、腰のベルトだけを外してズボンは穿いたまま、肩にはシャツを引っ掻けていた。衣類を手に持つとクローゼットを閉め、春歌の前を横切り、真っ直ぐ風呂場へ入って行った。
ふぅ、と胸を撫で下ろし、春歌はきちんと椅子に座り直して、ケーキをいただくことにした。
程よい甘さのチョコレートケーキを少しずつ味わって食べながら、自然と視界の端に入る風呂場の扉が気になる。さっきの調子でいきなり素っ裸で出て来たらどうしよう。入る時ちゃんと衣服を持っていたようなので、その心配はないと思うが、今日はずっと驚きの連続なので、油断ならない。無意識に警戒してしまう自分がいた。
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