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 居たたまれないながらも真斗の部屋に閉じこもり、好きに使うように言われた洋服箪笥の服を適当に選んで着てみた。
 この女性用の洋服箪笥。これは春歌が学園を卒業した後、学生寮から事務所寮に引っ越した際、両親から送られた白い箪笥であることに気づいた。随分と大切に使ってきたのか傷や汚れは少ないものの、10年も年月が過ぎている分贈られた時より色褪せており、すぐにはわからなかった。その高さは春歌の腰まで届く程度で、幅の広い三段の引き出しがある。その上は艶々とした台となっており、春歌はその台に描かれた花のデザインが気に入っていた為、よく見えるようにあまり物を置かないようにしていた。だが今は鞄や外出時の必需品、化粧道具、見慣れない眼鏡等が幾つか置いてある。お気に入りの筈の家具がすぐにわからなかったのは、表面の花の絵があまり見えなかったからだろう。
 箪笥は春歌の記憶にも新しい物だった。さて中に仕舞われた洋服達はどうだろう。取手を掴み、改めて開けてみる。
 今朝あの真斗に言われた通り、本当にこれが全て春歌の物だと言うのなら、服の趣味はあまり変わらないように思えた。
 しかしこの服のサイズは、いったいどうしたことだろう。
 下着入れと見た引き出しを開けて、真っ先に目についたのは、その形を崩さないように丁寧に並べられたブラジャー達。春歌が買ったことも、店頭でわざわざ手に取ったこともないような大きなカップのブラジャーが綺麗に並べられている。
 まさか自分の胸がここまで大きくなるのだろうか。狼狽えながら自分の乳房を下から手のひらで掬い上げてみる。……いや、そんな高望みはとてもできない。可能性は低いと突きつけられるその現実にひとりでショックを受けた。
 はて、では見栄を張ってわざわざ動きづらい大きめのサイズを買うようになってしまうのだろうか。
 それにしたってこれは考え物だ。16歳の春歌の体型や胸囲から考えてこんなに成長する筈がない。急に肥りでもしなければ……。
 ひょっとして、こんな物を身に着けなければならないほど未来の春歌は肥ってしまうのだろうか。そういえば最近腰回りのお肉が以前にも増して身に付いてしまっている自覚がある。デスクワークが増えていることを見かねて、運動は進んでするよう心掛けるようにと、先日真斗にも言われたばかりだ。まさかこのまま……。
 胸の大きさを見たり腰に手を当ててウエストを気にしてみたり、知らぬ間に未来に来てしまった身の心配よりも未来の自分の体型に対する不安の方が大きくなってしまった。
(やっぱり、私の物じゃないのかな……)
 朝の一悶着から既に数時間が経ち、その間、勝手に人の部屋をあちこち捜索する訳にもいかず、暇を持て余してただ悶々とした時間を過ごしていた。
 使って良いと言われたのは、春歌が愛用していた洋服箪笥と、その隣の大きなクローゼット。開けてみると、コートやスーツ、帽子や鞄等が、型崩れさせないように整頓されて並んでいる。
 下の方を見ると、帽子や靴等が入っているであろう箱類の下に、淡い色の木でできた三段程の低い引き出しがあった。洋風な作りのクローゼットに対して和風の装飾が付けられており、横の幅がクローゼットと若干合っていない点を見ると、底に後から置かれた物らしい。
 気になってその重い引き出しをそっと開けると、仄かに檜の香りがした。そこには白い和紙に包まれた何かが、折られる事なくピシャリと幾つか重なっていた。
 春歌はその紙に見覚えがある。昔、家族でお正月の初詣に行く際、早朝に母に連れられて美容院で着物に着付けてもらったことがある。その振り袖を包み仕舞われていたのが、この畳紙(たとうし)。紙の模様は全く同じではないが、この畳紙の中にはきっと綺麗な着物が眠っているのだろう。
 春歌は何かの拍子で汚してしまう前に、そっと引き出しを押し戻した。
 ゆっくり立ち上がり、ハンガーに掛けられた洋服を眺める。季節が冬なだけあって、広いクローゼットの中に所狭しとコートやワンピース等が吊り下げられている。隅には透明なビニールに覆われた服が幾つか掛けられており、触れてよく見ると、上質な生地で仕立てられたスーツと、艶やかな生地のシンプルなドレスが目についた。一女子として、着た経験の少ない綺麗なドレスに惹かれ、つい手を伸ばしてしまう。
「わぁ……っ」
 ちょっとだけ、と、ハンガーごと手に取り、濃紺のドレスを見つめる。控えめな色でとてもシンプルなパーティードレスだが、体の線を強調させるようなデザインに、物怖じする。自分ではとても着れないだろうと、丁寧に元の場所へ戻した。



 壁掛けの時計がおやつ時を過ぎた頃。ひとりきりである寂しさと空腹が誤魔化せなくなってきたせいもあり、考えたくない事ばかりが頭を巡る。
 つい、大人の真斗と、あの綺麗なドレスも着こなすスタイル抜群の美しい女性が、腕を組み並んでいる姿を思い浮かべる。自分が隣に立っているよりも真斗のかっこ良さがより生きていて、しかもその誰かもわからない女性が腕を絡める様がお似合いだと思えてしまい、すぐにぶんぶんと頭を振った。
 やはり、今朝一度この部屋に訪れたあの女性が気になる。声しか聞いていないが、透き通るように凛と若い声色に、育ちも良さげな口調が印象に残っている。自然と、数ヵ月前(未来のこの世界においては10年前)解決したはずの婚約者の事が思い出される。あの話はすでに婚約破棄が認められている。だが違うとわかっても、考えられない訳ではない。
 この高級ホテルのように広くすっきりとした部屋。親しげに部屋を訪れた女性と、それをお嬢様と呼ぶ執事。仕事へ行った真斗のあの芸能人らしからぬ様。真斗の部屋に置かれた春歌の物と思えない衣類達。
 夢を追う春歌にとって最悪の未来、そんな断片達を見せつけられた気がした。この時代の真斗が、もう春歌と違う道を歩んでいるのだとすれば……今朝の様子も、納得できる。
 彼はもう、春歌を必要としていない。だから、16歳の春歌が現れても、26歳の春歌が消えても、どうでも、いいと。
(……助けてください)
 ひとりで考えを巡らせ、酷く悲しくなってくる。もう、そうやって辛い方向にしか考えられなくなり、不安に心が押し潰されていった。
(とっても、心細いです……真斗くん……)
 春歌の全てを包んでくれるような、いつも優しくて暖かい笑みを思い出す。昨夜もあの笑みにそっと抱かれて、幸せのまま眠りについたのに。
 抑えていた気持ちが込み上げてきて、視界が歪み出した、その時。
 唐突に鳴り出した呼び鈴のような音に心臓が跳ね上がった。
「えっ……!?」
 傍に置かれている時計に目を落とす。夕方までには帰ると言っていた真斗の言葉を思い出し、もしや帰ってきたのではと思ったが、自分の部屋に入るのに呼び鈴を鳴らすだろうか。いや、過去から来た春歌に気を遣って鳴らしているのかもしれない。だがもし真斗でなかったらどうする。全く違う人物に見つかったら、きっと騒ぎになる。
(ど、どうしよう……!)
 真斗じゃなかった時の対処がわからない。本人だった場合、笑われても良いからとにかく隠れよう。そう思ったが。
 春歌ひとりぐらい簡単に入るような大きなクローゼットに足を掛けた瞬間、今朝真斗がしっかり閉めて行った部屋の錠がいとも簡単に開かれた。そして。
「失礼しますわ」
「!?」
 躊躇いもなくがちゃりと扉が開かれ、真斗ではなく女の人が入ってきた。その瞬間、春歌と彼女は目を合わせ、場が一瞬にして凍りついた。その彼女もまさか人がいるとは思っていなかったのだろう、春歌を見て、手先を震わせていた。
「あ、あなたは……!?」
 得体の知れない何者かを警戒しながら、険しい形相で春歌を睨み付けるその人。睨まれながらも、彼女はとんでもなく美人だったので動揺しながら見とれてしまった。
 とてもよく見慣れた深い色の艶髪は長く、夜の花を思わせるあの優しげな瞳の色は何事もまっすぐ捕らえている。何故か見覚えのある風貌に、春歌は首を傾げた。
「誰なんですの!? お兄様のお部屋で、何、を…………」
 綺麗な瞳が、語尾を萎ませながら丸く見開かれる。あの大きな目、僅かに口を開いたままのあどけない表情はよく覚えていた。
「お姉様……?」
「ま、真衣ちゃん!?」
 ふたりの弱々しい声が重なる。
 名前を呼ばれて、胸に両の手の平を押し付けて驚く彼女の姿と、幼かった真斗の妹の姿が、脳内で完全に重なった。
「やはり春歌お姉様……そのお姿はいったい……」
 信じられないものを見る目で春歌の姿を上下満遍なく観察して、何かを察したのか、はっとした真衣は静かに戸を閉め、なるべく音を潜めて鍵をかけた。
「ああ、お姉様……」
 この姿が信じられないのだろう。真衣は嘆くように首を横に振りながら、春歌の手を取る。気遣わしげなその優雅さに思わず圧倒される。春歌が知るあの幼い"真衣ちゃん"の面影を多少は残しつつも、気品溢れる淑女に育ちつつある少女の姿は、感動と一緒に浦島太郎の思いを味わうのに充分すぎた。幼い子供の成長ほど時間の流れを感じさせるものはないと思い知った。
「いったい何があったんですの? 今朝お部屋に伺ってもおふたりともいらっしゃいませんでしたから……」
 今朝と言うと真斗とふたりでベッドに沿って隠れていた時だろう。
 今思えばあの声は確かに目の前の真衣の声だった。まさか成長した真衣に会えるなんて思っても見なかったので、今朝この部屋に来た女性が真衣だったとは想像もしていなかった。
 よく考えればここは10年後で、真斗もあの通り大人になっていたのだから、真衣が成長しているのは当たり前だ。
「先程私が帰りますと、"部屋には入らないように"とのお兄様の言い付けをじいやから聞きまして。お姉様の姿も見当たりませんし、何かあったのではないかと気になってしまい、お兄様が私に預けてくださっている合鍵で部屋に入ってみたら……」
 真衣はまっすぐ春歌を見つめた。彼とよく似た色の瞳に、つい釘付けになってしまう。
「何がどうなっていますの? 真衣にも教えてくださいまし」
 過去からやって来ました、と。真摯な瞳で探ろうとする少女にどうやって現実味のない事実を伝えたら良いのか。本当は隠さなければならない事だったはずだが、見つかった以上、現状を隠す必要はない。最も隠さなければいけなかったのは本来の居るべきではないこの姿だったのだから。
「そ、その……実は」
 順を追って話す春歌の言葉を、真衣は静かに聞いてくれた。拙い説明でどの程度わかってもらえたかは読めないが、要は"目が覚めたら未来に来ていた"とさえ伝わっていれば充分だと思う。きっと真衣は兄のように賢く育ったのだろう。春歌の言葉ひとつひとつに頷きながらどうにか理解してくれたらしい。
 春歌がこの時代の春歌でない事を知った真衣は、彼女の不安がる様子を見かねたのか、ここがどういう場所なのかを教えてくれた。
 聖川家の本家は京都にあり、真斗が正月やお盆に帰省するのは京都のお屋敷である。真斗は、生まれた時から中学校に在学時までその屋敷で藤川や祖父と暮らしていた。真衣も昨年までその屋敷で暮らしていたらしい。
 そのふたりの両親は、京都の本家に戻ることはほとんど無い。聖川財閥創業以降、本社ビルは首都に建てられており、父は仕事の為、母は療養の為、付近のお屋敷に暮らしている。
 そしてここが、その首都の屋敷らしい。確かに、日頃真斗から聞いていた故郷のお屋敷のような和風の作りには見えなかったので、部屋を見渡し納得した。
「お姉様と初めてお会いした日のことを思い出しますわ」
 春歌は目の前の真衣の姿にまだ戸惑っているというのに、対する少女の順応性の高いこと。さすが、兄妹はこういうところも似てくるのだと、ひとり納得した。
 真衣は更に春歌を優しく気遣い、部屋の台所に置かれた林檎を持ち出し、包丁で器用に皮を剥いてくれた。とても大財閥のお嬢様とは思えない見事な包丁捌きに、兄の指導がしっかり身に付いているのだと感心してしまう。
 真衣が皿に盛った瑞々しい林檎をいただきながら、ふたりが始めたのは、出会った時の思い出話。
「お兄様が女性の方と親しげにされているのなんて初めて見ましたから、あの時は嬉しく思ったものですわ」
「そうなんですか」
 昨日の事のようにもう10年以上前の思い出を懐かしみながら話す真衣と、出会ってからまだ一年程しか経っておらず真衣をよく知らない春歌。
 親しみをもって接してくれる真衣に対して、春歌はどう対応すれば良いのかよくわからない。彼女が話してくれる間にも、短く相槌を打つしかなかったが、真衣は変わらず明るい調子で話をしてくれた。
「幼い私から見ても、おふたりはとても親しみあった関係に見えました。お兄様ずっと笑顔だったんですもの。屋敷ではそんなことも少なかったですから、あの日は本当に楽しかったです」
 真衣の話に、春歌もその時の真斗の様子を思い出す。
 暑い夏の休日、突然幼い真衣が兄に会うため学園へ訪ねて来た。三人で学園内の施設である遊園地へ行き、夕方まで遊んだ。
 確かにあの日、真斗はずっと表情が柔んでいたように思う。だがそれは久々に妹に会えたから、無意識に兄の顔をしていたものだと思っていた。
 今考えると、それだけではなかったのだろうか、他の理由に春歌の存在も含まれていたのだろうか。もしそうだったら嬉しい。
 それもここでは、とっくに過去のお話。今春歌が頑張っている事も、これから真斗と歩もうとする道も、全てがこうして過去の出来事になっている。
「…………」
「……お姉様、そんな顔をなさらないでください。弱気になってはいけませんわ」
 手を握ってくれた彼女の言葉で、気持ちが顔に出ていた事に気付く。はっと顔を上げると、真衣はふわりと優しい笑顔を浮かべた。
「お姉様は、昔からお兄様とずっと一緒ではありませんか」
 瞳を真っ直ぐ見つめ、まるであやすように握った春歌の手を、とんと柔らかく叩く。
「女たるもの常に強く淑やかに。己が弱きは美を損なわせます。逆境こそ意地を見せるのです。……これは私が昔からお母様に教わっている事です。聖川の男子は、女を守らなければならないものとしつけられます。ですがそれに甘えてはいけません。凛と清く慎ましく、その殿方を常に支え、寄り添い、時に導く。それが聖川家の女の在り方です」
「真衣ちゃん……」
 小さなあの真衣ちゃんも、ここでは16歳、今の春歌と変わらない歳。気丈に励ます真衣がとても心強く思えた。
 こんな時こそ下を向いていてはいけない。こんな事では過去で待っているはずの真斗に心配をかけてしまう。
「…ありがとうございます」
 ひとりで落ち込み、不安になっていた春歌を懸命に励ましてくれた真衣に頭を下げる。
 此方の春歌が年下の真衣とどう接しているのかわからないが、きっと今日会った自分は彼女に恥ずかしい姿を見せてしまったに違いない。それなのに、真衣は決して笑わずに親身になって寄り添ってくれた。
「お姉様も聖川になるのですから、このぐらい心得ていただきませんと」
「えっ!」
 不意の台詞に驚き、春歌は目を丸くした。
 聖川になる、と言うのはつまり、七海から聖川になると言う事で、姓が変わると言う事は春歌が聖川家に嫁ぐ事を意味する訳で、と言う事は……。
 顔を真っ赤にさせながら真衣を窺っても、ただ無邪気に笑うばかりなので、それがすでに決まった事なのか真衣の冗談なのか判断できない。だが例え冗談でも、真斗の家族の口から直接こんな事を言われると、恐縮ながらもそれだけ期待されているのだろうかと思え、身がすくむ。
「お姉様。私はお姉様の味方です。お力になりたいんです。私にできることなら、いえ、できないことだとしても、何でもこの真衣に話してくださいな」
 綺麗な色白の手が胸の辺りで上品に重ねられる。優しい心遣いにじんわりと胸が暖かくなる。
「あの、どうしてそこまで……」
 春歌は真斗の恋人、兄の彼女にここまで親切に気を配れるものなのだろうか。
 大好きな兄を取られる、この真衣がそんな理由で春歌を嫌うとは思えないが、慕う兄を持つ妹の気持ちは、一人っ子である春歌にはわからない。春歌が思っている以上に、真衣は春歌に少なからず嫉妬のようなものを抱いているかもしれないとさえ考えていた。なので彼女の態度にとても驚いている。無邪気だった幼子が、成長したからこその淑女の対応として演技しているとしたら末恐ろしい話だ。
 僅かに怯えながら真衣の顔を見ると、彼女は大きな目をぱちぱちとさせていた。何故と訊かれ、少しだけ間を置いた真衣は、何か思い付いたらしく、春歌に近づき手を口元へ寄せ、内緒話のようにひそひそと声を潜めた。
「私、実は……女兄弟にずっと憧れていましたの」
「えっ!? そうだったんですか!?」
「…どちらかと言いますと兄ではなく姉が欲しかったんです」
「まっ……真斗くんが知ったらきっと泣いちゃいます!」
 真斗が心の底から可愛がっている妹が、まさかそんな風に思っていると知ったら本人はショックどころではないだろう。本当に大声を上げて泣いてしまうかもしれない。
 とんでもない衝撃に狼狽える春歌の反応を見て、真衣は堪えきれず小さく笑い出した。
「ふふふっ……ごめんなさいお姉様。今のは冗談ですわ。真衣には誰よりも自慢のお兄様がいるんですもの」
 上品に笑って見せる可愛らしい笑顔に、春歌は心から良かったと胸を撫で下ろした。
「でも姉に憧れがあったのも本当です。私、お兄様と同じくらいお姉様が大好きですわ」
 真っ直ぐな心をそのまま鏡に映したような愛くるしい笑顔は、信じない理由が見当たらないほど素敵なものだった。それを疑うような事を考えた自分が恥ずかしく、真衣の気持ちが嬉しくて、つい春歌が照れながら笑うと、真衣もまた満足そうに微笑みを返した。
「そうですわ! お姉様、お風呂にでも入って気分転換されてはいかがです? ずっと何もせずにいては、あれこれと考えてしまうのではありません?」
 真衣の言う通り、知らない部屋で何もできずにいた春歌は、真衣が現れ、会話をする事で気も解れた。あのまま一人きりでいれば、真斗が帰るまでうずくまって泣いていたかもしれない。気遣う彼女の提案通り、風呂に入れば気持ちもリラックスできるだろう。
「でもお部屋の外には出ないように言われていて……」
 今朝、真斗が出掛ける間際の言い付けを思い出す。傍に真衣がいるとしても、16歳の姿の自分を人目に晒す訳にはいかない。
「ご安心ください」
 そんな春歌の心配も余所に、真衣は立ち上がり、台所のその壁沿いに左に接された簡素な洗面台の、その左に並んでいる扉に向かった。
 この部屋には似たような扉が幾つかあり、形等は少しずつ違うものの、小部屋か倉庫等なのではと思っていた。
 だが一連の会話から、その扉が何処へ繋がっているのかは簡単に推察できた。
「此方がシャワー室です。部屋から出た事にはなりませんでしょう?」
 そこにはなんと備え付きの風呂場があった。鏡や洗面台、タオル類等置かれた脱衣所の更に奥に曇りガラスの引き戸があり、そこには広々とした湯船があるだろうと容易に想像できる。
 ホテル顔負けの部屋の作りに唖然する。ここなら部屋から一歩も出ずに生活ができてしまいそうだ。
 これなら部屋から出た事にはならない。誰かに見られる心配もないだろう。
 しかし男性の部屋のシャワー室を許可なく使っても良いのだろうか。そう尋ねると真衣はまるで自分の部屋のように胸を張って答えた。
「もちろんです。このお部屋は最近戻られたお兄様と、一緒にお住まいになるお姉様の為に色々新しく作り直したお部屋で、お風呂場もその際改装されましたの。とても使いやすくて、私も時々使わせて頂くくらいですから、お姉様が使って悪いとは言わせませんわ」
「はぁ……」
 兄に対して少々強気な真衣の言い文句に、春歌もやや強引に納得させられた。
 だが今は風呂の事よりも気になる話を聞いてしまった。
「あの、最近戻ったと言うのは……?」
「お仕事の都合上だと聞いていますわ。この屋敷にいた方が利便が良いからなのだとか」
 浴室で入浴の準備をしてくれている真衣が、声を反響させる浴室から答えた。
 仕事の都合、とは何だろう。ここは聖川家のお屋敷で、そこに戻るという事は、真斗はもう聖川の人間として財閥の一員として働いている…? だから聖川の屋敷に戻ったのか? では春歌は? 春歌がシャイニング事務所の寮から出る理由など、寮から出ざるを得なかったとしか考えられない。それはつまり、シャイニング事務所の作曲家では、なくなった……? そうしてまた真斗に甘えて、 厄介になっているのだろうか。
 この未来は……。
「さ、すぐにお湯が沸きます。ごゆっくり体をあたためてください」
 口振りから察するに、真衣は事情を詳しくは知らない様子。それ以上の事を訊ねるのは躊躇われた。


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