君の銀の庭へ

 自動販売機で買った温かいお茶のペットボトルを握りながら、雲行きの怪しい空を見上げました。重たげな雲は今にも滴を落としそうで、わたしは急いで校舎の中へ駆け込みます。無機質な廊下でも、風を遮る建物の中に入ると、少しだけ暖かく感じます。
 廊下を歩きながらふたつのお茶を抱えて、再び窓から空を見上げてみました。空は、長く遠くまであの雲に覆われていて、暫く経てば雨になりそうです。
 ですがこの寒さ、もしかしたら雨ではなく……。
(雪になったら嬉しいなぁ……)
 つい先日、聖川様が教えてくださった、わたし達の本当の出会い。
 それは雪の日。
 小さい頃から雪が好きでした。特に、みぞれが雪に変わった、その瞬間……歌い出したくなるほど、嬉しくて。あの日のわたしは、寒さもお構い無しに外へ飛び出したのでしょう。案の定、風邪をひいて何日か朦朧としていたので、その日の記憶はあまり残っていないのが残念ですが……。
 けれど、それを境に、わたしは作曲家を目指すようになったんです。
 それに、なにより聖川様が覚えていてくださいました。わたし達の出会い、あの時の歌、わたしの言葉……。その言葉をきっかけに、アイドルを目指した聖川様。今の聖川様がいるのは、あの日のわたしと出会えたから、と……。
 まさかわたしが、運命的に再会した彼を後押ししていたなんて、夢のようなお話です。
 そして今、そんなあなたと…恋に落ちるなんて……。
 わたしは握り締めていたペットボトルの軋む音で、はっとしました。進めていた歩を止めて、目指した教室の前で一度深呼吸をします。その恋をした相手と今から会うのですから、しゃんとしないと。
 廊下の窓ガラスに映った自分の影を見ながら、そんなに崩れてもいない髪を撫で付けます。
 心の中で、よしっと一声上げて、振り返り、教室の扉を開けました。
 すぐに彼の姿を見つけると、わたしは自然にほっと笑みを浮かべました。
「聖川様、お疲れ様です」
 机に向かって書き物をされていた聖川様にそう声をかけて、わたしはそっと扉を閉めました。近づくと、聖川様は少し呆れたお顔で、わたしを見上げました。
「違うだろう」
「えっ? あ……」
 ただ一言、言われたその意味に気づき、わたしはやや俯いて唇を震わせました。
「ま、真斗くん…」
 呆れたお顔のその理由、きっとわたしが下のお名前ではなく、名字で呼んでしまったから。
 これでいいんでしょうか……。まだ恥ずかしさは残りますが、恐る恐る聖川様のお顔を見ます。すると、彼は満足げに頷き微笑んでくださいました。
 優しい笑顔……またこの笑顔を向けてもらえる日が来るなんて。
 感動でぎゅっと手を握ると、わたしは持っていたお茶を思い出し、そのひとつを差し出しました。
「あの、お茶を買って来ました」
「わざわざすまないな、いただこう」
「どうぞ…あっ……」
 渡した瞬間、受け取る聖川様の指先がわたしの手に触れて、わたしは反射的に手を引っ込めました。その時、宙に忘れられたペットボトルは支えを失い、鈍い音を立てて教室の床に落ちてしまいました。
「ごっ、ごめんなさい!」
 どきっとした直後に落としてしまった驚きで、わたしは咄嗟にお茶を拾おうとしました。
「い、いや、俺の方こそ」
 足元に落ちたお茶を拾おうとすると、同じように手を伸ばしていた聖川様の指先と触れ合ってしまい、またわたし達は弾かれるように手を引いて、一瞬で石のように固まってしまいました。
「……」
「……」
 言い様のない沈黙の後、腰を折り曲げ、長い腕を伸ばした聖川様が、落ちたペットボトルを素早く取り上げて、さっと埃を払ってから机の上に置きました。
「……ありがとう」
「い、いいえ……」
 おかしな一悶着がありましたが、聖川様にお礼を言われて、ちょっと気が抜けました。
「外は冷えただろう、少し休憩にするか」
 話しながら椅子に腰掛ける真斗くんの背後で、わたしはこっそり、先ほど触れてしまった手の先を見つめて、胸の中に抱き締めました。
 ただ少し、指と指が触れただけなのに、それだけでこんなにときめくなんて。
 ……これが恋と言うものなんですね。
 こんなに胸が苦しいくらい素敵な気持ち、教えてくれたのは聖川様……いえ、真斗くんです。
 もっとたくさん触れることがあるとしたら、わたしはどきどきし過ぎて倒れてしまわないでしょうか。
 例えば、手を繋いだり、だ、抱き締め合ったり……恋人同士、なんですから、その……キスを…したり……。
 真斗くん、と…………。
 か、考えるだけで心臓が飛び出しそうです!
 ちらりと真斗くんを見ると、書いていたノートに目を通してから、ペットボトルの蓋を開け、喉を潤していました。
 ペットボトルの口から唇を離して小さく一息吐く真斗くん。どうしてわたしは、そんな真斗くんの普通の行動にさえどきどきしてしまうのでしょうか。これでは、まるで病気みたいです。
(そっか…恋患いと言いますし…)
 誰かに恋をしたのも、こんなに人を好きだと思うのも初めてで、わたしの色んな初めてが、真斗くんに引き出されていくのを感じます。きっと真斗くんに出会わなければ、こんなに切なくて熱い気持ちは知らないままだったかもしれません。
 本当に、真斗くんに出会えて良かった……。
「……ハル、そんなに見つめられては」
「え? ……あっ……」
 わたしは真斗くんのことを考えながら、いつの間にかずっと彼を見つめてしまっていたようです。
 気まずそうに視線を反らす真斗くん。そうは言いますが、少し赤らんだ彼の顔から目が離せなくて、また胸の辺りがきゅっとなりました。
 わたしに対して、わたしの前で、こんなに素直に反応を見せてくれる真斗くんが見られて、きっと体中が喜びを感じているのだと思います。
 わたしも、彼にじっと見つめられてしまうと、顔が熱くなって恥ずかしくなります。真斗くんも、同じなのでしょうか……。わたしなんかに見つめられて、照れてくれているのでしょうか……。
 それに気づけただけで、また心臓がどくどくと脈を打って、身体中を締め付けていくようです。
「その、ついこの前までは離れた所からこっそり見ていたのに……今はこんなに近くにいるから……」
 わたしを好きだと言ってくれたあの日を思い出します。
 寒いクリスマスの夜、コートも羽織らずドレスのまま、わたしは会場を出て行ったあなたを無心で追いかけました。
 制服の真斗くんも、私服の真斗くんも、真斗くんはいつだってかっこいいけれど、あの日のパーティー用のスーツを着こなしたあなたは、会場のどんな人よりも輝いて見えました。
 その目がどんなに憂いを帯びていたとしても、あなたを好きだと自覚してしまったわたしには、切なく揺れる瞳さえまるで宝石のように美しく見えました。
 今も……。
「……時には視線を感じていた。だが、振り向かないばかりか、気づかない振りをして、お前を遠ざけていた。……いや、自分の気持ちから逃げていたんだ」
 悲痛なお顔でそう語る真斗くん。
 わたしも、逃げていたのかもしれません。文化祭の劇でジュリエットを演じた時に、確かに抱いたあの感情を、彼女のせいにして。
 でもわたしは、真斗くんが好き……。どんなに逃げても、この気持ちは止まらなかった。
 真斗くんは、わたしとの距離を置いていた日々、いったいどんな気持ちでいたのでしょう。わたしのように、ロミオ様に自分の姿を重ねていたのですか?
 少しでも、わたしのことを考えてくださっていたのでしょうか。
 わたしは、いつも、あなたのことばかり。
「そんなことにも気づけず、お前を苦しめてしまった。本当にすまない」
 おもむろに立ち上がったかと思えば、瞳を伏せて、頭を下げる真斗くん。それにわたしは慌てました。
「謝らないでください。今はこうして、一緒にいられます」
 そのとても誠実で、真っ直ぐなあなたを追うのは辛かった。けれど、あなただからこそ、わたしは諦めずに追い続けることができたんです。
 わたしは自分の分のお茶を机に置いて、真斗くんの手を取り、悲しそうな瞳を上げた彼を見つめました。
「今、とっても幸せだから……」
 大好きなあなたの、こんなに近くにいられるんです。わたしは今、世界一、幸せ者です。
 辛かったあの日々さえ、まるで愛しく思えるくらい。
 こんなことを言ったら、あなたは驚くでしょうか。
「ありがとう、ハル……。お前のようなパートナーと巡り会えた俺は、本当に幸せ者だな」
「そんな……」
 わずかに頬を染めて微笑む真斗くんが、まるで冷たい冬の朝に煌めく雪花のように眩しくて、わたしは首を振って俯きました。
 無意識に、真斗くんの手を握る力が強まってしまいます。
「……いかんな、お前とこうして触れあっていると、想いを口にしてしまいそうになる」
 その言葉に、わたしはここが学園の教室の中であることを思い出しました。まるで真斗くんしか目に見えていなかったようです。
 学園の生徒である以上、校則である恋愛禁止令は守らなくてはなりません。
 クリスマスパーティーの時は、真斗くんもわたしも無我夢中だったので、ついお互いの気持ちを打ち明けてしまいましたが。あの時は、偶然学園長先生に見つからなかっただけ。本来ばれてしまっては、即退学になってしまいます。わたし達のこの気持ちは、隠し通さなくてはいけないもの。
 ふたりの夢のため。わたしは咄嗟に握り締めていた手を離そうとしますが、力を緩めたところで、真斗くんに握り返されてしまいました。
「ま、真斗くん…?」
「あの時は、必死だったから……またお前を見失ってしまうのではないかと」
 再び椅子に腰かけた真斗くんに見上げられ、強く手を引かれました。
「きゃっ」
「今だけはせめて、見つめ合うことぐらいは、許してもらえないだろうか」
「ま、真斗くん……っ」
 手と腰を引かれたその弾みで、わたしは真斗くんの肩に手を付き、彼を見下ろしました。
「あ……」
 あまりに密着した体勢と、間近で見る真斗くんの顔に、わたしは耐え切れず、焼けるように熱くなった顔を逸らしました。
 でも……。
「あっ…!」
「今はお前の顔を見つめていたい……できれば、お前にも、俺を見つめていてほしい……」
 逸らした頬に触れられ、そう言った真斗くんに熱く見つめられてしまうと、わたしはもう逃げ道を失ってしまいました。
 真斗くんはそっと優しくわたしの頬をなぞり、そこにわたしがいることを確かめるみたいに、瞳の奥を見つめてきます。
 探るようなその瞳に、吸い込まれてしまいそうな感覚。
 なんて綺麗な瞳……。
「美しい目をしているな……」
「え…っ」
 真斗くんの一言に、わたしはどきりとしました。わたしが、今まさに考えていたことを真斗くんの口から言われたので。
 わたしの心の中を見られてしまったのかと思いましたが、真斗くんの瞳いっぱいに映るわたしを見つけて。
 わたしが真斗くんしか見ていないように、真斗くんもわたししか見えていないのでしょうか……。
「それに、頬もこんなに柔らかい」
 頬を撫でる大きな手が擽ったいようなもどかしいような変な感じがして、けれど手を掴まれたわたしはどうすることもできません。
 逃げたいような、このまま触れていてほしいような……。
「俺はまだ、お前の全てを知らない。もっとお前を知りたい……」
 どきどきと高鳴る心臓が煩くて、真斗くんの声がこんなに近いのに遠く聞こえる。
「もっとお前を、求めたい……」
「……!」
 一瞬で体がかっと熱くなって、頭の思考を何かが占めていく。
 考えられることと言えば、目の前でわたしを見つめる真斗くんのことばかりで……。
「頬が赤いな……瞳もそんなに潤ませて……」
 真斗くんもお顔が赤いです、それに瞳もとても、熱っぽくて……。
「どうした…? 唇が震えているが」
 心配そうな声色で、長い指先で唇に触れられた瞬間。わたしの中の何かの線がぷつりと切れてしまった音を聞きました。
「も…だめっ、です…!」
「おいっ、ハル!?」
 棒のように固まっていた脚がぽきりと折れるように、わたしは膝から床に崩れ込みました。
 咄嗟に真斗くんが椅子を引いて、しゃがみこむわたしを支えてくださいましたが、今はあまり顔を見られたくなくて、わたしは隠れたい思いで項垂れました。
「大丈夫か、貧血か!?」
「はぁ、ち、違います……」
 ばくばくと脈打つ心臓が体を熱くさせて、わたしはうまく言葉を出せませんでした。体が言うことを聞かないほどどきどきさせられるなんて、恋はまるで体力勝負です。わたしの体は持つのでしょうか……。
 荒い呼吸をゆっくりと落ち着かせるまで、真斗くんは待ってくださいました。
「大丈夫か?」
「はい、すみません……」
「いや。しかしどうしたんだ突然、体調不良ではないのか」
「げ、元気です…」
 わたしは恥ずかしい気持ちを飲み込んで、できるだけ落ち着いて話しました。
「こんな近くで、真斗くんに見つめられて、しかも…わたしを知りたいとか、求めたい、って……唇にその…。わたし……どきどきして、どうしたらいいか…っ」
 真斗くんは一瞬よくわからないと言うような顔をして、そのままゆっくりと顔を真っ赤にさせていました。
 まるで今まで無意識にその言葉の数々を囁いていたような反応です。
 真斗くんはわたしの背を撫でていた手をぱっと離して、やや距離を置いて立ち上がりました。
「す、すまん……その、お前に触れていると、想いが止められず……。驚かせただろうか」
「えっと、驚きましたけど……」
 お詫びの言葉を言いながら、差し伸べて下さった真斗くんの手を取り、わたしも立ち上がります。
「い、嫌じゃなかったから……」
「え?」
 真斗くんの腕に引かれ、立ち上がるも、わたしはバランスを崩して彼の胸に凭れ掛かりました。どうしてこう頼りないのでしょう。
 咄嗟に謝り、彼を見上げると、彼は頬の色を高潮させてわたしを見つめていました。思っていたよりもふたりの顔が近くて驚きましたが、わたしは何かに縛られたように動けませんでした。
 真斗くんとわたし。重なった瞳が、逸らせない。
 瞳に吸い込まれてキスをしてしまうなんて、漫画のような描写、今までよくわかりませんでしたが……。どこか冷静にこういうことを言うんだと考えながら、わたしは瞼を少しずつ閉じようとしました。体が自然と動くので、わたしは全身で真斗くんを求めていたのだと、思い知りました。
 ですが真斗くんに肩を掴まれ、我に帰りました。学園の中でキスなんてしてしまったら、いつ誰に見られて退学になってしまうか。
 ゆっくり背を向ける真斗くんに、あの日のロミオ様が重なり、寒気が走るように頭にあの日の記憶が駆け抜けます。
 あの時、わたしが拒絶したことをきっかけに、わたし達はお互いを遠ざけてしまい、長くまともに会話もできなくなってしまった。
 また、あなたが自分に背を向けている、離れてしまう。
 泣きながら手を伸ばすわたしの手があまりに短くて。
「……ハル?」
 でも、今は届きます。あんなに切なくて苦しい想いは、もう。
 気づくとわたしは彼の背中にしがみつき、紺色のニットを掴んでいました。しっかり、掴んでいます。
 あなたが何度わたしに背を向けても、わたしは何度でもあなたを追いかけます。
 あなたが例え希望を見失い立ち止まっても、わたしはそっと背中を押して支えます。
 これはその、誓いです。
 真斗くんからは見えなくても、わからなくてもいいんです。
 だから、今だけは、振り向かないで……。
「ハル、いったいどうしたんだ?」
「…! わ、わたし…その、もう帰らなくちゃ」
 あまりの恥ずかしさに、わたしはなことを言って、鞄にお茶のペットボトルと楽譜を仕舞い込みました。
 唖然とする真斗くんを置いて逃げるように走り出すわたしを、わたしは一度引き留めました。
 頭の中に浮かんだ逃げると言う言葉に、体が反射的に硬直して。
 唇を噛み締めて、鞄を抱き締めて、真斗くんに振り返りました。
「あの、真斗くん……また、明日」
 ああ、当たり前にそう言えるのが、こんなに嬉しいなんて。
 突然出て行こうとしたわたしに驚いていた真斗くんでしたが、わたしの言葉を受けて、すぐにあたたかく微笑んでくれました。
「ああ、また明日」
 ゆっくり扉を閉めて、わたしは走り出したい気分に駆られながら廊下を急ぎました。
 余程、体が火照っているのでしょうか……寒いはずの外の空気が心地いいぐらいなんです。
 まさかわたしがあんなことをするなんて……。真斗くんに離れてほしくない、そう思っていたら体が、勝手に……。
 恋をすると、こんなわたしでもちょっぴり大胆になってしまう。不思議で、けれど特別な気持ちで。
 こうして離れた後も、一緒にいる時も、常に真斗くんのことで頭がいっぱいです。
 本当に、好きで……こんなに溢れ出しそうな熱い感情は、生まれて初めてです……。
 いつか本当の恋人として生活が送れるようになったら、その時は今日のことをお話ししたいです。わたしがこっそり立てた誓いのことを。あなたはどんな反応をするのでしょうか。
「あっ!」
 真斗くんが驚く姿を思い浮かべながら空を仰ぐと、ちらちらと白い粉雪が躍っていました。
 沢山の恋人達が手を取り合い、くるくると楽しくダンスを躍っているようで、とても綺麗で見とれます。
 明日会ったら、この雪の話をしよう。そして、たった今、はらはらと降りだす雪と共に舞い降りたこの旋律を、あなたに聞かせたい。
 喜んでくださるでしょうか。
「ふふっ」
 わたしは上機嫌で新しい旋律を歌いながら、あの日のように、雪の中を走りました。
 今度こそは風邪をひかず、また明日あなたに会う、その時の為に。



fin.

寒い冬でも、恋を知った彼女には全てが愛しさに変わっていくそんなお話。


15.02.18. とばり


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