こんなによく晴れた休日に、ひとり学園の図書室へ向かうなんて、まったく自分らしいなと心底思う。
休日の学舎にはほとんど誰もいないが、あちこちから時折、誰かが歌っている声や演奏している音が聞こえて、自分も負けていられないと意欲を奮い立たせられる。
そうして小さく拳を握ったところで、目的の図書室に辿り着いた。扉の傍に何かのイラストと共に「図書室では静かに」と書かれた貼り紙をちらりと見て、静かにドアを開けた。
入室してからぴたりと扉を閉めると、図書室独特の、沢山の書物の香りが春歌の鼻腔を満たした。本に囲まれた空間は好きで、少し古めのかび臭さのある重たそうな本も、年季や歴史を感じられて嫌いではない。それに、並べられた本を眺めていると、逆に見守られているようで少しやる気も出てくる。そんな不思議な応援の力も借りたくて、図書室はよく利用していた。
普段は係りの生徒や兼任の先生が座っているはずの貸し出しのカウンターには誰もいない。どうやら今だけは春歌の貸し切りのようだ。少し息を吐いて、どこに座ろうかと、広い図書室の中を奥の方へ歩き出した。
春歌が入ってきた出入口側には、まず貸し出し等の受付をするカウンターがあり、壁をぐるりと背の高い本棚が部屋を囲んでいた。その本棚に挟まれ、分厚いカーテンで覆われた窓が点々といくつかある。そして手前から順に本棚が幾つか並び、その奥に勉強スペースとして、共用の机や個別の机椅子等が並んでいる。
春歌は勉強スペースを目指しながら、いつもは部屋の電気だけで照らされているその場所が、普段よりいくらか明るいような、とぼんやり考えていた。
(どなたかカーテンを閉め忘れたんでしょうか)
本が傷むのを防ぐ為、換気の時以外はカーテンを閉めきっているはず。そう言えば、誰もいないのにどうして図書室の明かりが点いていたんだろう。
ぼうっとしながら本棚の群れを越えて、ふと窓際の席に目をやったその時。
「あっ……」
人影を見つけ、春歌は足を止めた。
その人はひとり、窓際の一番端の席に腰掛け本を読んでいた。横に並んで数人は座れる広い共用机の端にたったひとりでいるので、やや寂しげに感じる。わきにファイルや筆記用具を並べているが、ここで使った様子はなく、一冊の本を真剣に読んでいた。
利用者がいたなら、春歌が入る前から電気が点いていた事にも納得がいく。しかし今はそんな事よりも、そこにいた見慣れた人物に驚き、春歌は抱えた道具を落としそうになった。
見慣れた背丈に紺色の長袖ベスト、あの大きなアーガイル模様は。
(聖川様……?)
春歌と同じAクラスで、偶然にも彼女のパートナーとなった聖川真斗その人だった。
(こ、こんな所でお会いできるなんて……!)
課題が思うように進まないからと、資料を参考にしつつ片付けようと思い来てみたら。休日の図書室なら誰もいないだろうと思って来てみたら。まさか自分のパートナーと会えるなんて。
思いもしなかった事態に驚きつつ、春歌はこっそりと本棚の陰に身を潜め、此方に気づいていないであろう彼から隠れた。
何故隠れる必要があったのか春歌自身が一番謎に思ったが、なんとなく息を殺して真斗の様子を伺う。物陰から、目だけをこっそり出す気持ちで、じっと見つめた。
彼と出会って一ヶ月も経っていない今、春歌はまだ真斗の事をよく知らない。
この学園に入学するまでまともに友達も作れなかった春歌は、どうすれば男性と仲良くなれるのかなんて全くわからない。それに加えて、対する真斗は物静かであまり自分から話すタイプではない。ふたりきりの時もお互いどう話して良いのかもわからず、ただ沈黙が流れる時間が訪れると、それがとてつもなく長く感じて春歌は頭がいっぱいいっぱいになってしまう。もうどうしていいかわからなくて、ただひとり縮こまるしかない。
そんな時は大抵ピアノを弾いたり歌を歌う。思い付きや即興で作ったもの、有名な歌謡曲や弾き慣れたソナタなど様々だが、そうすればふたりの緊張が次第に解け、表情も和らいでくる。音楽を通して心に触れた気がして、とても幸せな気持ちになれる。まだそんな覚束ない段階だ。
共にプロを目指すパートナーであれば、互いの事をよく理解し知っていく必要がある。普段から話しかけられれば良いのだが、本人を前にすると緊張してしまい上手く言葉も出ない。
この状況はもしかしたらチャンスかもしれない。かなり一方的で相手にとっては失礼にあたるが、真斗が気づいていないのを良いことに、春歌は暫く彼を観察することにした。
春歌に見つめられているとも知らず、ほんの少し前屈みになっていた背筋を伸ばした真斗は、大きな手の平で鼻から口元を覆って俯いた。誰もいない静かな部屋の中で、小さく息を吐く音が聞こえる。
(……欠伸してる。聖川様も欠伸されるんですね)
それは人にとって至極当たり前な事だと言うのに、妙に感動してしまうのは何故だろう。
アイドル志望の真斗。入学式の時、忘れられない出会いを果たした彼と春歌は、運命的にもパートナーとなった。長く綺麗な指でピアノを歌わせられる感性と技術。涼やかな甘いその声。ひとつの身体にそれ以上の可能性が詰め込まれた真斗。
春歌はこんな宝石のように輝く人物に生まれて初めて出会えた。そして彼の曲を自分が作り、歌ってもらえる。未だ奇跡としか思えない。
見た目だけではなく、優しさや勤勉で真面目なところ等。きっと、他にもまだまだ知らない魅力が沢山ある彼から、ひとときも目が話せない。見ているだけで恍惚としてしまう。
けれど本当はこんな事ではいけない。彼のパートナーである自分が、ひとりのファンのような姿勢ではいけない。それは春歌もわかっているつもりだ。
それでもやはり、生まれて初めてこんなに綺麗でかっこいい異性に出会って、まだ数ヶ月も経っていないのだ。
――少しくらい。もう少しくらい、見惚れていたい。
咄嗟に春歌がこうして身を隠したのは、もしかしたら無意識に、彼の素の様子をただ見ていたかったからなのかもしれない。
(あ、くしゃみ……寒いのかな……)
まさか自分のそんな何気ない動作ひとつひとつに感動されているとは知らない真斗は、流れるような動作で書面を撫でた。
ぴんと伸びた背筋は、まるで本人の真面目でまっすぐな性格や態度を表すかのよう。白く長い指先がページを一枚捲ると、まるでピアノを奏でたその時のように軽やかな音が小さく響いた。春歌はほうと、ひとり静かに息を吐く。
(………綺麗だなぁ……)
ひと目見た瞬間からそう思っていた。整った端正な顔立ちや色白な肌、切り揃えられた淡い夜空のような深い色の髪。顔のパーツも春歌の目からすれば全てが完璧に見えた。つり上がった涼やかな瞳、細く整った美しい眉。
薄く淡い色の唇。
(っ、)
春歌はそこまで見入ったところで、真斗からぱっと顔を逸らした。棚に手をつき背を預け、深く息を吐く。
やはりまだ、入学式の朝のあれが頭から離れない。努力はしているつもりだが、あまりに衝撃的だったもので、正直忘れられる訳がなかった。
入学式の朝、春歌は遅刻しそうだと焦って登校していた。そして走って門を潜った頃、真斗と正面からぶつかり、ふたり重なるように倒れ、互いの唇が触れてしまった。その後、教室で再会した真斗は「あれは事故、何の意味もない。早く忘れるべきだ」と突き放すように春歌に言ったが、それも対する春歌を思って一番良いと考えたからだろう。
この一ヶ月近く、彼と少しでも仲良くなろうと、授業中や朝練中ずっと真斗を見てきた。人一倍真面目な性格、優秀な成績。同じクラスの主に那月の言動が目立って隠れがちだが、ほんの少し浮世離れしたその観点。
きっと真斗は、事故とは言え、若い春歌のような女性が見知らぬ男と唇が触れてしまったなど、ショックな出来事でしかない。勢いよくぶつかってしまった事はほぼ春歌に非があるが、真斗はそうは思っていないような気がする。彼は少なからず申し訳なさを感じているのではないか。春歌は考えている。
自分を思いやってくれた彼の為にも、そしてこれからの卒業オーディションへ向けての準備の為にも、早く忘れてしまうのがお互いの為だと思う。
しかし。
(……でっ、でもやっぱり意識しちゃいます!)
真斗には悪いが、それが本音だ。
ああ。こんな事だから、ふたりきりの際ずっと緊張してしまうのだ。もっと他の事に集中しなければ。
まったく今も自分は何をしているのだろう。こんな風に隠れて、休日のクラスメイトを覗き見ているなんて、アイドルを追いかけている気分だ。勿論彼はアイドルを目指している身であるし、春歌は真斗がプロになれると信じている。ならなければもったいない。だが今は、真斗は春歌のパートナーであり、追いかけるアイドルではない。共に走っていく学生同士なのだ。
勉強の為に図書室へやって来たのだから、彼を見習い、自分も勉学に励まねば。
けどこうして隠れて見ていた後だと、どんな顔をして、何と言って声をかければ良いかわからない。でもこのまま真斗の姿を盗み見ている訳にも、かと言って黙って知らぬ顔で退室してしまうのも、それはそれでもし気づかれていたとしたら後日また会う時に話しづらい。何より立ち去ってしまっては自分が来た意味がない。黙って彼の前に現れる訳にはいかないが、なんと話しかければ良いのか。
どうすれば……と苦慮し始めた、その時。
「七海」
「!!!」
あれこれと悩む春歌の背後から、落ち着いた真斗の声が聞こえぎくりとした。反射的に振り返ると、彼は座っていた椅子ではなく、思ったよりすぐ近くに立っていて。
「ひ、聖川様っ!」
びっくりして思わず大声を出してしまった春歌に、真斗は素早く、彼女の顔の前に人差し指を立てて見せた。その意味がわかった瞬間、春歌ははっとして小さな手で口元を押さえ、ちらりと周囲を見渡した。
真斗の観察に集中してしまっていた春歌は、彼に見つかってしまったという事に驚き、何も考えず声を上げてしまった。休日で、しかも自分達ふたり以外誰もいないとは言え、図書室では静かにするもの。入室する際も、扉にしっかりと「図書室では静かに」という張り紙を見た。
「ご、ごめんなさい……」
春歌はやってしまったと眉尻を下げ、注意してくれた真斗に今度は小さな声で謝った。
すると真斗は、春歌との間でぴんと立てていた指をそのまま自身の唇に寄せて微笑んだ。
「誰もいなくて良かったな」
優しく笑みを見せた真斗に、とくんと胸が高鳴った。
春歌は今、自分が子供のように真斗にたしなめられたのだと気づき、途端に恥ずかしくなった。恥ずかしさから顔が熱くなっていくのがわかり、そんな自分を見られたくなくて俯く。
「それよりも、お前はここで何をしていたんだ? 俺の様子を伺っていたようだが……」
「え……」
俯くこうべを上げられないまま、春歌は僅かに声を漏らした。
恐る恐る、不思議そうに尋ねてくる真斗を見上げる。彼は今さっきまで自分がここでしていた事に疑問を持っているようだった。それに気づくと、春歌は更に顔を真っ赤にして、困惑した。
「え、えっと、私のこと、気づいて……?」
「ん? ああ」
変な子だと思われた、まずそう思った。こっそりと隠れてまで相手を見つめているなんて不自然過ぎる。真斗もきっと迷惑だったに違いない。やはりこんな事するんじゃなかった。
「調べ物に集中していたので、お前がいたことには先程まで気づかなかったが……視線を感じてな。目の端でちらちらと女子の制服が見えたので、誰かと思えばお前だったから、何をしているのかと気になり……」
「あ、あの、えっと……」
何と言えば良いのだろう。本人の目の前で、本当の事を話すのはかなり恥ずかしい。ただ素敵なあなたに見惚れていました、とは。しかし他に言い逃れできるような術は春歌は持ち合わせていない。第一、自分が隠せる気がしない。
春歌は細々と、けれどきちんと伝えられるようなんとか声を絞り出した。
「その、ずっと見て、ました。聖川様を……」
「俺を?」
「は、はい……。お休みの日の図書室で、まさか聖川様にお会いできるなんて思ってもみなくて、驚いて思わず隠れてしまって……。その、それで、読書されてるお姿を見ていたら……目が離せなくなってしまって……」
真斗の表情は読み取れない。貼り付いた能面のようにじっと動かないから。それがまた綺麗だとも思うが、こんな時は不安で不安で見ていられそうもない。彼はただ静かに春歌の話を聞いていた。
「ご、ごめんなさいっ! 私、本当に失礼な事をしてしまって……!」
真斗の沈黙に堪えきれず、春歌は深々と頭を下げて謝った。真斗が今何を思っているかはわからないが、謝らなければ自分の気持ちが千切れてしまいそうな程だ。少なくとも快くは思われていないのだろう。心の中で勝手にそう考えると今にも涙が溢れそうになる。せっかく素敵なパートナーとこれから仲良くなっていこうと毎日必死だったのに。
自分の足元を見つめる両目に、じわ、と熱いものがうっすら滲んできた。それを堪えようと、抱き締めたファイルや筆箱をぎゅっと胸に押し付ける。
「いや、謝る事はない。……顔を上げてくれ、七海」
優しく落ち着いた声色が耳に響く。そんな心地よく暖かな言葉が、今の春歌には余計視界を滲ませる事になり、なおさら顔を上げられなくなってしまった。
「その、そんな風に見られていたのかと思うと、少し気恥ずかしい気もするが……」
そう言うと、真斗は何か思い当たったように不意に口をつぐんだ。
なかなか顔を上げてくれない春歌。手荷物を固く抱き締めるその肩がほんの少し震えている。そんな春歌を見かね、真斗は少し大袈裟に靴音を立て、彼女に背中を向けた。ひとつ咳払いし、腕を組んで片手を口元に当てると、そのまま押し黙る。
彼のやや大きな足音に違和感を覚え、春歌は少しだけ顔を上げ真斗を窺った。どうやら此方に背を向け、考え込んでいるらしい。春歌は慌てて手の甲で目元を拭った。
「アイドルを目指す身として、常に誰かに見られていると意識していなければならんな」
急に黙り込んだ真斗が瞳を閉じ、考え込むようにそう呟いた。
「七海、俺をどう思う」
「っ、え?」
睫毛を撫でるように目元を整えていた春歌は、不意な問い掛けに驚いた。じわりと潤みかけていた目を拭ったところで、真斗がゆっくりと振り返る。そして漸く顔を上げていた春歌と目を合わせると、僅かに微笑んだ。ような気がした。
「え、えっと……」
「お前の目から見て、この俺をどんな風に思うか、と訊いている。率直に言ってほしい」
真斗に対して春歌が思うこと。思うことは沢山あるが、それらを伝えるのはちょっと恥ずかしい。もし失礼なことまで言ってしまったらどうしよう。何より真斗が今どんな言葉を待っているのかわからなかった。それを聞き返せたら良いが、決して会話が得意ではない春歌は、今こうして真斗の前に立っているだけで必死なのだ。今もあまり余裕がない。
けれど早く答えなければ、真斗を待たせてしまう。一番に、ぱっと思い付くことを伝えれば良い。
率直に……思うこと……。
「聖川様、は……その」
春歌は絞り出すように言う。
「か、かっこいい、と、思います……」
「……え?」
ただ見た目が、と言う訳ではない。
先程も、涙が溢れそうになった春歌を察し、わざと靴音を立てて背を向けてくれたのだろう。音を気にした春歌が、真斗が背を向けた事に気づくように。そして真斗が見ていないその隙に、目元を押さえるなり深呼吸をして気を落ち着けるなりすれば良い、そう思い。
気付こうとしなければ気付かない、細やかな心遣い。そんな紳士的な優しさもまた、かっこいいと思える。
だからかっこいいと、言った。率直過ぎただろうか。
不安でおずおずと真斗を見上げると、困ったような戸惑いの表情を浮かべた彼がそこにいた。おそらく思っていた言葉と違ったのだろう。
「そ、そうか。いや、その……そう言ってもらえるのは、悪い気は、せんが……。いや……」
珍しく赤くした頬を長い指で擦り、視線をあちらこちらと彷徨わせている。そんな露骨に照れた真斗を目の当たりにして、春歌はますます恥ずかしくなって足が震えそうになる。
「あ、ありがとう……」
「はい……」
お互い顔がどうしようもないほど熱くなっていくのを感じていた。
彼は感情をあまり表情にしない人なので、春歌にはまだよくわからない事の方が多い。けれど今は、何故だか一緒なんだとわかる。照れくさくても目を見れなくても顔を上げられなくても、同じ気持ちを抱いているとわかる。それが嬉しかった。
ひとりで暖かい心地に胸をときめかせていると、対する真斗が小さく咳払いした。
「いや、そっ、そう、ではなく……。ここから俺を見ていたのだろう? 女子の目からどのように見られていたのか、参考までに教えてはもらえぬか」
他者の視点から、特に男性アイドルとして若い女性の声は何より参考になるはず。他人がいない空間で自分がどのように見られていたのか、詳しく聞きたいと真斗は言う。
「は、はい!」
真斗の考えを理解し、自分の意見が少しでも彼の役に立てるならと、春歌は元気良く頷いた。その笑顔に釣られ、真斗も少しだけ笑みを見せてくれた。
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