桜襲ね〜L'Oiseau bleu.(二)
 
 ――頭が煮えた。一瞬で。
 
 食事をしながら歓談する男女。
 二人を知らぬ者から見れば、親しい恋人同士にも見える光景。
 どんなに身体を重ねても、心の深いところは許してくれない彼女の、私以外の男に向けられた、その笑顔に。
 自分でも救い難いと思えるほど、心の狭い私が暗く呟く。
 ――私といるときはいつもどこか気を張って。
 ――薄絹一枚隔てたよそよそしさを保っているくせに。
 何故、今日会ったばかりの、信用はしてもいいが信頼はしてはいけない男に笑いかけている?
 ――俺にも滅多に見せない、無防備な素の笑顔で――
 
 先に連絡を入れていたため、会釈のみで店内に踏み込んだ私を止めるものはいない。
 真っ直ぐに目的のテーブルへ向かう。

『――十年来の友を今にも殺しそうな目で睨むほどお前にやられているというのに、不憫な奴だ』

 私が来たことにとうに気づいていたレオの言葉が耳に入る。なんの話をしていたのか、直前の会話は聞き取れなかったのでわからないが。どうせろくでもないことに決まっている。
 悪戯に細めた瞳を光らせる悪友は無視して、背を向けているためか、まるでこちらに気づかない彼女の肩に手を置いた。

『――デザートはお済みになられましたか? 茅乃さん』

 ビクリと震える細い身体に、声には出さず、ささやく。
 こんなに近くに来た私に気づかないくらい、他の男との時間が楽しかったんですか?
 連絡が取れず、どんなに私が気を揉んだか、わかってるんですか。
 勝手な言いぐさだ。
 そう、理解しているが抑えられない嫉妬に支配される。
 そんな私の憤りをわかっていて、さらに煽るヤツがいるから――

『遅かったな、アキ。この女の胃袋のせいで破産するところだったぞ』

 ニヤニヤ笑いが止まらないらしいレオに鋭い視線を向けていると、飛び上がるように茅乃さんが立ち上がった。

『じゃあ待ち人も来られたようだし失礼するわね。積もる話もあるでしょうし、私はこれでっ』

 早口にそう述べて去ろうとする腰に腕を回す。
 逃がすわけがないでしょう。

『遠慮することはないんですよ、茅乃さん。そもそも邪魔なのはアレの方ですから』

 言いながら微笑みかけると、腕の中、固まっていた身体がわずかに力をなくした。
 ぶつぶつ何事か呟いていらっしゃいますが、――そうそう、諦めが肝心ですよ。

『アレ呼ばわりはひどくないか、アキ?』

 まだ茶々を入れようとする不埒者を一瞥で黙らせる。

『返してもらうぞ』

 含み笑いで手を振る男に背を向けて、彼女の肩を引いた。
 まったくもって腹立たしいことに、一人になる奴を気遣うような言葉を口にする茅乃さんを、今すぐ黙らせてやりたかった。
 彼女に移った他の男の匂いも。
 自分以外のために装った姿も。
 全て、剥ぎ取ってしまいたい――
 
 
 茅乃さんと関係を持ってから、古賀家の、ではなく私個人がキープするようになった、いつもの部屋へ彼女を連れて行く。
 彼女は気付いていないようだが、あの始まりの部屋とは違うのだ。
 ――部屋が違うからといって、なんになるのか。
 こんなことは自分の愚かさをごまかす、自己満足でしかないとわかっている。
 それでも。
 彼女らしくないキツイ化粧の香りと、共に行動していたが故の、ヤツの残り香が腹立たしい。
 文字通り洗い流そうと、バスルームで服を脱がせようとすると、思わぬ抵抗にあった。
 どういうことだ。
 まるでレオのために装った姿を壊したくないと言わんばかりの彼女に、また腹立ちがつのる。
 恨み言めいた問い掛けに、返ってきたのは、彼女らしい気の抜けるような理屈だった。
 私が彼女に用意した服をどうするかは私の自由。
 その理屈で言うならば、レオの野郎に買い与えられた服をどうするかは、ヤツの自由になるではないか。冗談ではない。
 人の気も知らないで。
 少しくらい意地悪をしたくなるのは、しかたないでしょう?

「――では、茅乃さんが自分で脱いで下さい」

 ものすごく嫌そうな顔になるのは予測済み。
 ヘンタイ! このヘンタイ! と彼女に罵られるのが快感になってきたかもしれない。
 もちろん倒錯嗜好はないが、困らせたときの、茅乃さんの涙目が好きなのは否定しない。
 自分で脱いで、と言った直後の呆れたような蔑む視線も可愛らしかった、なんて事を考えているだなんて知られたら、またヘンタイ、というんだろうけれど。
 わかっているんですか? 私が馬鹿な事をするのは、全て貴女が所以だと――
 
 衣服のまま水場になだれこみ、生まれたままの姿にした彼女を、手のひらで味わう。
 抱きしめながら、愛撫する。
 手のひらに丁度の乳房を、泡のせいだと言い訳て、強く嬲った。
 ハッキリした意識のままで風呂に入っていることが殊更羞恥を誘うのか、彼女は耐えるように声を殺そうとする。
 それがまた許せなくて。
 
 もっと声を。
 もっと証を。
 貴女が私のものだという、証拠が欲しい。
 
「きゃっ……! ひゃ、んン!」

 隅々まで私が触れる感覚が擦り込まれるよう、“洗う”という名目で、手のひらを上体から下肢まで滑らせていると、ある一点で彼女が跳ねた。
 やだ、なんでぇ、とどこかうろたえるような声を漏らす。
 力をなくし、クタリとこちらに全身を預けてきた彼女の耳朶やうなじが、熱に火照っているのが見て取れた。
 指先で探ったそこはとうにぬかるんで、こちらを待っている。
 私とて、とうに限界で――
 手を伸ばし、シャワーの水量を上げる。まるで子どもが悪戯をしたみたいに、泡にまみれていた身体を水流が清めた。
 すべて洗い流して、彼女から感じられるのがソープの香りだけになったことに満足する。
 そのまま腰を持ち上げて、穿った。
 予想していなかったのか、悲鳴を上げた彼女の内が一気に痙攣するように収縮する。
 拒むかに見えた内側は、すぐに蕩けて私を包み込んだ。
 眉を寄せて、こらえる表情も、誘っているとしか思えない。
 持って行かれそうになる意識を保つために、耳元で意地悪をささやく。
 ぷいと背ける素直じゃないしぐさも。
 私を捕らえて離さない身体も。
 愛しいと、言葉に出来ればいいのに。
 無理な体勢で繋げた身体が崩れて、バスタブの縁を強く掴む彼女の手が白くなる。
 抑えがきかなかった。
 苦痛の声も無視して、突い挿し、狂ったように、細い身体を揺さぶる。
 ここまでひどく扱っても、拒否されないことを免罪符に、更なるものを求めそうになる。
 きっと、彼女の今までの恋人が辿り着けなかったところまで、自分は到達している。初めて抱いた時に気付いた彼女の経験値から、それはわかるのに。
 まだ足りない。
 もっと、と貪欲なまでの欲望が私を支配する。
 身体ばかり深く繋がっても、想いはどこか遠く、そこにあるのに触れられないもどかしさが付きまとう。
 どうすれば、このひとを、本当に自分のものに出来るのか――
 
 しっとりと肌と肌が重なる。
 吸いつくように、溶け合うように、細胞が交じり合おうとする、こんな感覚は彼女以外の誰とも分かち合えないだろう。
 唯一無二。
 陳腐な言い方をすれば、運命の女。
 出逢えたことは、奇跡のように当然で。
 
 まだ少年だったあの頃。
 子どものくせに、自分という人間の行く先をこんなものだろうと見切って、何ものにも心を動かされず生きていた。
 レオという、腹立たしくもこちらの上手を行く親友を手にして、人生に抱いていた倦怠感は薄れたが。
 祖父のように、父のように、生を共にする誰かのために自分がある、なんて想いは、持てないだろうと思っていた。
 幾多の女が現われ通り過ぎて行く中、その中の誰にも何の思いも抱けない自分は、きっとこのまま一人なのだろうと。
 少なくとも、身内を大事に出来るだけ、人間として壊れていないのだと、言い訳のように安堵して。
 歳をただ重ねた。
 
 あの春の桜の下で。
 目立って特別だったわけじゃない、だが、特別になった出逢いが、私をそれまでの自分と違うものにした。
 
 何故彼女にこうも惹かれるのか。
 姿かたちが美しい女なら、今までの女にもいた。
 茅乃さんは、どちらかと地味な部類に入る。本人によると、だからこそ、変装化粧が映えるのだという。確かにアレは別人だ。
 だが、彼女を評するのに一番適切な言葉は、“綺麗”。
 容姿を言うのではなく、その、生き方が。過ごしてきた時間が、人生と向き合う姿勢が、綺麗なのだと思う。
 彼女を聖人と持ち上げるつもりは無い。欠点だって多々ある。嫌な気持ちをも持たないわけでもない。
 それら全てを誤魔化そうとしない、真っ直ぐさが、彼女を綺麗な女性にしているのだ。
 そして、私はそここそに魅せられているんだろう。
 
 バスルームで茅乃さんを抱き潰してしまい、ぐったりした彼女を慌てて寝室に運ぶ。
 のぼせた、気持ち悪い、このヘンタイ、と弱々しく繰り返される悪態を聞きつつ、髪を乾かして差し上げているうちに、彼女は眠ってしまった。
 さんざんレオの野郎に引っぱり回され、アレの暴走をわずかながらにも抑えて、くたびれているところに私の暴挙だ。
 申し訳なく思いつつも、とりあえず気は済んだ。
 離れるのは名残惜しかったが、まだやることが残っている。
 置いていた衣服に着替え、後ろ髪を引かれながら部屋を出た。
 
 予想していた通り、奴はそこにいた。
 最上階のバーラウンジ。無駄に衆目を集めている野郎のところへ行くのは気が進まなかったが、しかたがない。

『思ったよりも早かったな? 茅乃はどうした』

 わかっているくせに白々しい。

「早良さん、申し訳ありませんでしたね。お守りして下さっていたんでしょう?」

 カウンターに座ったレオの周りに女性がいないということは、このバーの主である男性が上手く人払いをしてくれていたに違いない。
 そう思って礼を述べたのだが。
 壮年のバーテンダーは苦笑して首を振った。

「いえ、うちの社長がいらしていましたので。なにやら、お話が弾んでいたようですよ」

 …………嫌な予感がするのは私だけか。
 叔父とレオ、似たもの同士の組み合わせに眉をひそめていると。

『新しいプロジェクトにお前を巻き込むことにした。キミヒトも了承済みだ、よろしく頼むぞアキ?』
『ああ?』

 叔父が了承済み、ならそれはホテル事業に関することだというのはわかるのだが。
 俺を巻き込むとはどういうことだ。

『ウィンスレットの城の一部を改築して、ホテルにする。レイリオールホテル・ウィンスレット支店というところか?』
『――待て。本家の城を? 正気か、伯爵は賛同しておられるのか』
『これに関して文句を言える人間はいない。もうな、追いつめられているのさ、うちの一族は。呪いが解けない限り、未来はない。なら、解くためになんだってする。城はすでに俺の資産の中に入っている』

 藍色の瞳に陰が過ぎる。
 レオの家にまつわる不可解な伝承を、多少なりとも知っている俺は、それ以上踏み込むのをやめた。必要なら、話すだろう。 

『ホテルなら、人が集まるだろう。うちの城は見かけだけなら美しい。――そう、辺りの風景もあわせて、女が好みそうだ』
『ああ。そういったプランを組めば、ロマンチストな女性は行ってみたいと思うだろうな。……で、俺にそのプロジェクトの指揮を執れと』
『キミヒトはそう言っっていたぞ。よろしく頼むぞ、親友?』

 学生時代、何度か訪れたことのあるウィンスレットの城を思い浮かべる。
 確かにあそこを一般人も利用出来るホテルにするならば、次期当主の友人で、一番事情を理解している俺が適任だろうが――

『……俺を殺す気か……』

 どれだけ兼任させれば気が済むのか。本社の関連部署も、ようやく体制が整ってきたところだというのに……!
 ますます茅乃さんとの時間が減るじゃないか!

『仕事中毒の言葉とも思えんな。せいぜいカヤノに心配してもらえ』
『心配してくれるならいいが……』
 
 “あら〜、大変ですねえ、がんばってくださいね?(ヤッター、自由時間が増えるう!)”
 
 なんて確実に思われそうで嫌だ。
 溜め息と共に、グラスを干すと、隣の悪友がまじまじ俺を見ていた。

『なんだよ』
『いやいや。自信がないのはこっちも同じか。愉快なカップルだな』

 そのニヤニヤ笑いを引っ込めろ。

『お前は見つけられたんだから、逃がすなよ』

 あながち、からかいではない声音に、その裏に秘められた奴の切望は見ないふりして、余計なお世話だとそっけなく返した。 
 
 
 部屋へようやく戻ると、眉間にシワを寄せたまま眠る彼女。
 こんなにガチガチに身体に力を入れていては、眠っていても疲れるだろうと抱きしめながら、髪を、背を撫でる。
 そうして、ふっと彼女のこわばりが解けるのを感じて――それだけで、幸せに思う自分が滑稽だった。
 
 好きです、好きなんです、こんなに、最低な男に成り下がるくらい貴女を愛しているのに――
 想いは伝わらない。
 伝え、られない。
 
 あの桜の下、出逢えた時に戻れるならば。
 相手がいようが関係ない、傷つける前に手に入れて、もっと大切にする。
 なのに、私の口からこぼれるのは、狂気めいた執着を示す言葉だけで。
 
 こんなに近くに、こんなに深くに、側にいるのに。
 
 何かに隔てられたまま、もどかしさを超えられないまま、また、こうして夜が終わってしまう。
 
 確かに貴女はここにいるのに。
 
 見えない幕に遮られ、惑わされたその先。
 貴女の姿を見失ってしまいそうなのだという、この不安を。
 
 わかって欲しいと思うのは、身勝手なんだろうか―――
 
 


(初出'10/11/25,加筆改稿'11/02/22)
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