チェリーの誘惑

【1】

 危ういな、――と思った。
 まだ年若いその女性は、カウンターの片隅に一人きりで座り、なれない手つきでグラスを傾けていた。
 背に流れる艶やかな黒髪、うつむく顔がわずかにしか見えずとも、整って美しいことがわかる。
 華奢な肢体は桜色のワンピースに包まれ、暗い照明の店内で、そこだけ花が咲いているような錯覚を起こさせた。
 頼り無げに風に揺れる、花。
 ゆっくりとアルコールを味わう姿を、自分と同じく注視している男性客がそこかしこに居ることを意識して、彼は思案する。
 自分が男を誘う色香を振り撒いていることなど自覚せず、ただ空虚にグラスを傾けている彼女を、保護するか否か。あのままでは遠からず、誰かに持ち帰りされそうだ。
 ましてやここはホテルのバー。
 宿泊客がアルコールを楽しむ場所、連れ込む部屋はすぐ側にあることになる。
 彼女が宿泊客かどうかは分からないが――何しろ、二十歳そこそこの若い娘が一人で気軽に泊まれるような安価なホテルではないので――ここで少なくない時間を過ごしているようだが、人を待っているわけでもなく、酒を楽しみに来たようにも見えない。
 ただ事務的にアルコールを流し込む姿は、酒を美味いと思っている様子がみじんも感じられないからだ。
 壁際のソファーにいる、あまり質のよろしくない男性客二人が、彼女を眺めて何やら話しているのを目に捉え、仕方がないと彼は腰掛けていたスツールから身を離した。
 彼がそうして動いたことで、従業員が緊張状態から解放される。皆、危うい彼女を気にしながらの接客に、神経を擦り減らしていたようだ。
 私的に酒を楽しみに来ただけだったのに、これでは仕事をしているようなもの。
 まあ、ここで揉め事を起こされることは出来れば回避したいので、自分が今この場にいたことを皆には感謝してもらおう――そう思いながら、彼はカウンターへ移った。

「そろそろ、水に切り替えた方がよろしいのでは? お嬢さん」
 隣の席に着き、やわらかく落とした忠告に、ビクリと娘の肩が跳ねた。
 驚いてこちらを振り仰いだ黒い瞳は潤んでその色を深くし、アルコールにより上気した薔薇色の頬と唇が、人形めいた硬質な美貌を生気あるものにしていた。
 彼女は間近に彼を認めて、目を瞬き、さらに頬を染めて視線を逸らす。
 母譲りの甘い顔立ちが、異性にどう影響するかなど承知済みの彼は、彼女の反応も不思議に思わなかった。
「早良、彼女に他の飲み物を」
 カウンター内で、彼女に向けられる周りの邪(よこしま)な視線を一人で遮っていた壮年のバーマスターは、彼の登場にわずかに表情を緩め、自分の仕事に専念し始める。
 新しくカクテルを作り出す動きに、慌てて静止の言葉を口にしたのは彼女だった。
「あの……ごめんなさい、もう結構です、帰りますから……」
 すっかり萎れて、今にも席を立ち逃げ出してしまいそうな様子が気遣わしく、引き留めるために手に触れる。
「咎めた訳ではないよ。ただ、あまり楽しんでいないようだったから、もうお酒を飲むのは止めたほうがいいかと思ってね」
 視線を落とし唇を噛み、ごめんなさいと呟く姿が小さな女の子に見えて、彼はつい姪にするように頭を撫でてしまった。
 指を通る髪の滑らかさに、どこか惹かれるものを感じつつ――柔らかい口調を心掛けながら、言葉を紡ぐ。
「君のような綺麗なお嬢さんが一人でどうしたんだい? 誰か一緒ではないの」
 彼が若い男では無いことが警戒心を奪ったのか、店員と親しく話していることからナンパではないと判断したのか、肩の力を抜いた彼女は口を開いた。
「場違いなのはわかってたんです……何だかジロジロ見られていたし……」
 小さくなった娘は、自分が男達にどう見られていたのか、全く気付いていなかったようだ。酒のせいか彼のせいか、赤くなった頬を手で押さえる仕草が何とも言えず可愛らしい。
「友人に、このホテルのバーは素敵だからって言われて来たんですけれど、やっぱり浮いてますよね」
 はにかんで微笑む面に、自嘲の色。
 その瞳の陰りに、おそらく他の理由があることは察せられたが、そこまで踏み込むのはどうかと思い、とりあえず彼は安心させる笑みを見せた。
「場違いなんて思わないが、少し無防備かな。悪い男に拐われるよ?」
 私のように、と悪戯めかして顔を寄せささやくと、娘の引きはじめていた頬の赤さがまた立ち上る。
「……貴方みたいな素敵な人なら構わないかも、」
 そう言ったのは精一杯の背伸びなのかもしれない。
 自分が言ったセリフに照れて、また朱くなるそんな風情が可愛らしくて、一回り以上は確実に年下の娘にわずかな欲を覚えた。
 まいったな。自分らしくもない衝動を誤魔化すように、彼もグラスを傾けた。
 新しく差し出されたノンアルコールのカクテルを口にして、ほっと口元を緩める彼女は、あまり酒に慣れていなかったことが窺える。
 なのに何故、飲み慣れない酒を飲んでいたのか――、彼の疑問を察したわけではないだろうが、彼女はポツリポツリと言葉を選んで、話し始めた。
「……ホントは、友達にすっぽかされちゃったんです。以前から、わたしが世間知らずなこと、からかわれたりしていたから、一人でこんな大人の場所に放り出されてどうするか、見たかったんじゃないかなぁ」
 寂しそうに微笑んで、アルコールのせいで押し込めた気持ちがこぼれたのだろう、頭を振る。
「……その友人は女性?」
「? はい」
 キョトンと瞬く黒い瞳は、何も気付いてはいない。おそらく、本人は気にもしていない、人目を引く美しい容姿に嫉妬した、友人とやらのイヤガラセ。
 友人と言ってはいるが、相手はどう思っていることやら。
 大人びた美しい容姿に似合わない、無防備で心細そうな彼女が、夜のバーに放置されてどうなるかなど親しければ分かるはずだ。
 変な男に引っ掛かれば良いとでも思ったのだろうか。そうだとしたら随分悪質だ。
「あの、わたし、桃井美桜子(ももい みおこ)と言います。あの、貴方は……?」
「――あぁ、失礼した。古賀皇人(こが きみひと) です。悪いね、今は名刺を持っていない」
 スーツの胸元を叩いて言うと、わたしも持ってません、と初めて彼女は声を立てて笑う。それは花の香が立ち上るよう。
 自覚がないのはおそろしい。つくづく居合わせて良かった。
 初対面の娘に保護者めいた気分になるのもおかしな話だが、どうも放って置けない雰囲気がした。
 お互いに名も交換し、気持ちがほぐれたのか、俯きがちだった顔は上がり、可愛らしい笑顔をためらいもなくこちらへ向けてくる。
 ――そんなに簡単に男を信用しちゃ駄目だよ、と言いたくなった。



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