TELEPATHY そういえば電話がないな、と気付いた。
開け放した窓からヒヤリとした夕の空気が流れてくる。
橙から藍に染まる部屋の中で、ラグに寝転びながら、私はボンヤリとそれを思った。
――ああ、終わっちゃったのかな。
一ヶ月前の着信履歴で途絶えた彼からの連絡。
同じ頃私が送ったメールに返事もなく、彼の名前のない携帯の略歴画面を見て、空虚な思いに包まれた。
彼とは友人の友人という関係で知り合って、何となく気が合って、何となく付き合いだして、何となく続いて――三年。
恋愛に淡白な私にしては、驚異的なくらいの長さだ。
あっちも、恋愛に対して同じようなタイプだったから。
どちらかというとインドアで。
お決まりのデートコースは美術館や博物館。
あるいは必要な物を買いに行くついでに、その辺りをブラブラしたり。
部屋で、背中にもたれながら本を読んだり音楽を聴いたり。 ゆったりとした時間を過ごすことが好きだった。
自分の気持ちを誰かに話すことが苦手な私は、何も言わなくても、先回りして気づいてくれる彼といるのは楽だった。
特に何をする必要もなく、二人でいて居心地がいいと思えた相手だった。
無意味に束縛したりしない、だけど一緒にいるときは、大事にされていると感じられた。 しょっちゅう連絡を取り合っていたわけじゃない。
電話とメールのやり取りも、お互いの気の向くままに。 仕事の都合もあって、月に二、三回会えればいい方で。
それでも、全然不満や不安なんてなかった。
私には私の、彼には彼の日常があって、その合間に二人の時間があって、それで充分だったし、彼もそう思っていたはずだ。
会えないくらいでどうにかなる関係なら、最初から続いてなかった。 なにしろ、淡白すぎて恋人に去られるのは毎回のことだったのだ。
彼も、私も。 その点でも気が合っていた。
――でも、そうじゃなかったのかな。
一ヶ月前の電話。
電話が苦手な私は、彼の言葉に、相づちを打つだけで。
それはいつものことで。
だけど、通話を終える間際、彼がため息を吐くのを耳にした。
彼からのメールの返事は、いつも簡潔なもの。
義務的に答えられているみたいで、少しだけ、寂しかった。
ムキになって、嫌がらせみたいな長文を送ったりもした。
そういうことが積もり積もって――駄目になったのだろうか。
もっと素直に気持ちを表していればよかった?
苦手な電話、頑張って話していればよかった?
休みの日を合わせるくらい、していればよかった――?
だけど無理をした私は私じゃない。
そんなこと彼もわかっていただろうし、私だって逆の立場なら、彼に無理してまで、私に合わせることをしてほしくない。
自分自身のまま、お互いの気持ちが重なるところを大切に出来れば、それでよかった。
いつの間にか、その重なる部分が、違ってしまったのだろうか。
自然消滅、なんて彼らしくはないけれど、かえって、私たちらしいのかも。
今、私から連絡すれば。 もしかしたら、また重なることは出来るのかもしれない。
――でも。
返信のないメール画面。
何かを諦めたように吐かれた、ため息。
それがまた繰り返されるかと思うと、 怖い。 連絡して、終わりが決定的になるのが、怖い。
そして何も行動がとれないまま、私は夜が射し込んだ天井を見つめた。
寂しい。
寂しい。
抱きしめてほしい――
今までなら、仕方ないかと済ませていた別れが、彼に限ってこんなに堪えるのは、やっぱり。
本当に、好きだったんだ。
わかりにくかったかもしれないけれど、
どうでもいいと受け取られていたかもしれないけれど、
本当に、好きだったんだよ。
藍から暗闇に変わった部屋で、私は一筋涙を流し、目を閉じた。
完全な暗闇に包まれる―――
「お前、居るなら電気くらいつけろよ」
呆れた声と閉じた瞼に眩しい光。
ビックリして、瞬いた。
「窓開けっぱで居眠りしてたのか? 日が落ちたら急に冷えるんだから、風邪ひくだろ」
仕事帰りなのか、スーツのネクタイを緩めながら、ぽかんと起き上がった私の頭をかき混ぜてくる、彼。
合鍵は渡しているから、彼が入って来られるのは当然なんだけど。
まだ、そこに彼がいることが信じられなくて、もしや夢かと頭を振る。
寝ぼけてやがる、と笑う声。泣きたくなった。
「飯、食った? まだか」
途中で買ってきたのか、スーパーのビニール袋から食材を出し、当たり前に冷蔵庫を開け閉めして、キッチンを使い出す。
今まで何度も見た姿。
おかしな話、彼の部屋では私が率先して料理を作り、私の部屋では彼が作る。
今まで通り、いつも通りの、光景。
どうして? どうして?
別れるつもりじゃ、なかったの――?
私の視線に気づいたのか、彼が部屋のすみに置いた自分の荷物の方に顎をしゃくる。
「待ってる間それに目通しとけ」
「………?」
鞄に混じって、クリアファイルに入れられた書類を見つけた。
不動産の印が入れられた、マンションの。
「俺がいいなって思ったとこ、数件選んだから。その中からお前の良さそうなとこ、選べよ。――そんでそこに引っ越すぞ」
「へ!?」
料理をする手元は止めずに話す彼と、空き物件の説明であるらしい書類を交互に見る。
え、なに、引っ越し? 選べって……、
書類に記載されているのはどれも3LDK以上のもので。
一人用ではない。
当然、それは――
「電話もメールもめんどくさい。部屋行き来もめんどくさい。なら、一緒に住めばいいだろ?」
事も無げに言う。
「そこからめぼしいとこ絞ったら、明日見に行くから。とっとと決めちまおう」
「な!?」
さっきから馬鹿みたいに声を上げるだけの私に、彼はムッと眉をしかめる。
「嫌とかナシだからな。このために一ヶ月働きづめで平日の休み取ったんだから」
一ヶ月―― 一ヶ月?
「れんらく、なかったのは、」
単に、本当に、忙しかっただけ?
「連絡、してなかったか?」
たった今、気づいたように首を傾げる。
「……別れるつもりかと思ってた」
「はあ!?」
ぽつり、呟いた言葉に今度は彼が声を上げた。
菜箸を置いて、振り返り、低い声で問うてくる。
「――お前、それでそのまま別れるつもりだったのか? 黙って? 素直に?」
素直に、じゃないけど。
「……だって、最後の電話、素っ気なかった」
「いつも素っ気ないのはお前の方だろう」
「……苦手なんだもん。メール、返事なかった」
「メール苦手なんだよ」
はあ、とため息をついた彼がこちらに歩み寄ってきて、その目付きのきつさに怯んだ隙に、額を弾かれた。
「ぐだぐだ阿呆なこと考えやがって。だから、一緒に住もうって言うんだよ」
弾かれた額を押さえながら、疑問の眼差しを向ける。
「電話じゃ、“うん”と言ったお前が何を考えてるのかわからない。
“ああ”だけのメールの文字じゃ、俺の気持ちが伝えられない。こうして顔見てれば、同じ言葉でも伝わるだろ」
「……怒ってる」
「ああ」
「……呆れてる」
「ああ」
「……阿呆で仕方ない奴だけど、私のこと、好き?」
「ああ」
阿呆な子ほどかわいいって言うだろう、と、尖らせた唇に軽く触れられて。
自分の独りよがりな落ち込みが、全くの勘違いだとわかった。
ヘコんでその場に蹲る。
そんな私を鼻で笑って、キッチンに戻る彼。
「まあいい。ゆっくり考えろ」
黙っていても、伝わらない。
言葉にしても、伝わらない。
動かなくちゃ、伝わらない。
まなざしで、伝える。
音にして、伝える。
行動で、伝える。
矛盾する、コミュニケーション。
言葉の足りない私は、とりあえず手っ取り早くその背中にくっついて、自分の気持ちを彼に教えることにした。
END.