罠ウサギ #1
 
 今まで、好きな人がいなかった私にとって、バレンタインとは、少し離れたところから楽しそうだなと若干の羨ましさを込めて見ているもの、だった。
 父と兄にあげるのとは違う、胸をときめかせるそのイベントに、自分が参加することなんて、ないんじゃないだろうかと思っていた。
 だけど、今年は。

 今年は、違うんだ。



 ラッピングバッグをまた握り潰しそうになって、慌てて手の力を緩める。
 ここに来るまでに何度かそんな目にあわせてしまった紙袋の持ち手は、ちょっとくたびれてしまってて。
 ワクワクするようなはにかみと、そして少しの不安とを詰め込んだ、バレンタインのプレゼント。
 毎年みんながどうしてあんなに浮かれるのか、わかったような気がする。
 ヨレった紙ひもを直しながらちょっと焦った。
 こ、こんなになっちゃったもの渡しても失礼じゃないかな?
 目的の場所が近付くにつれて、ドキドキしたりヒヤヒヤしたり、緊張のあまり階段を踏み外しかけたりで、フラフラになっていた私は、また臆病さからくる不安に足を止めた。
 人気のなくなった廊下を静寂が支配していて、心臓の音まで響きそうな気がする。
 忍び足になる必要はないのに、上履きの底を細心の注意を払って床に下ろす私がいて。
 誰かに見られたら挙動不審で怪しまれること間違いない。
 そろりそろりと奥の部屋、少し前まで私も毎日のように訪れていた生徒会室へと足を進め。
 今日はもう、彼一人だけが残っているからと。後輩たちから連絡があった。
 私が彼に片想いしているのは当人以外の仲間には知られていて、だからそんなふうに協力もしてもらえたんだ。
 怖じ気づいて帰るわけにはいかない……!
 よし、と決意を新たにして、戸口に手をかけた。
「宇佐美先輩?」
「ふきゃああああっ!!」
 予想もしない方向からの呼び掛けにガラスがびりびりするほどの悲鳴を上げてしまう。
 驚きすぎて涙目で振り返ると、そちらも驚いて目が丸くなっている彼がいて。
 ああああ。
 何て反応しちゃったの、私っ!
 恥ずかしいいぃー!
「すみません、そんなにビックリするとは思ってなくて。大丈夫ですか?」
 彼はそう苦笑して、上手く言い訳出来ない私が慌てているうちに、ひょいと足元に屈み込んだ。
 手に引っ掻けたのは、驚いた拍子に落としてしまったラッピングバッグで――、あ。
 モロにバレンタイン仕様のそれを見て、首を傾げる彼。
「先輩のですよね。中身、大丈夫かな」
 少し中を確かめるように紙袋を揺する彼の目が、棒立ちになっている私を捉えて。
「宇佐美先輩?」
 取り繕う余裕がなかった。
 たぶんきっと、私の顔は――ううん全身も、真っ赤になってる。
 不思議そうだった表情が、ふと閃きを宿して、紙袋と私とを交互に見やった。
 パチリと瞬きして、問いかけるように口が開く。が、彼が言葉を発する前に、私は逃げた。
 ――背後の扉の中に。

「ちょ、宇佐美先輩っ?」
 ガラリピシャンガチャンと、自分でも唖然とするような素早さで、扉を開けて閉めて鍵を掛けたあと、頭を抱える。
 逃げてどうするのー!!
 しかも袋小路に!
 バカ? バカでしょ私っっ!
 ううう、サラッと渡して端的に告白してあとはトンズラかますつもりだったのに、最後のところだけ実行してどうする!
 しかも、ここに逃げたって――
「何やってるんですか、先輩」
 呆れを隠さない声が、部屋の対角にあるドアから聞こえ、生徒会室の隣にある続き部屋を通って彼が現れた。
 そう、鍵をかけても出入り口はひとつじゃないんだよー!
 バタンカチャン、とさっきと似たような音がする。
 振り向くと彼が続き部屋のドアを閉めて、どことなく意地悪そうな笑みを浮かべこちらへやって来るのが見えて――カチャン。
 カチャンて。
 ……ナニユエに鍵をかけたデスカ?
 微妙に、ビクビクしながら彼の一挙一動を見守ってしまう。
「先輩?」
 びくり。肩を揺らす私の怯えた反応に、楽しそうに唇が弧を描く。
 しししまった!
 彼の嗜虐スイッチを押してしまった!

 彼――もう今さらですね、私の片想いの相手である彼は、一学年下の後輩で、生徒会仲間だった。
 私は退任するまで副会長をしていて、彼は書記、いまは副会長。
 一緒に仕事をした一年間で、彼の人当たりのいい落ち着いた笑顔の下に、どの様な腹黒さが隠れているかなんて、もう勘弁ってくらい知ることになったんだけど。
 ときどき苛烈にSっ気を発揮する、彼の一面が今、現在、まさに稼働中ですよ……!
「先輩、これ、誰のなんですか?」
 笑顔のまま尋ねてくるのが余計に怖い。
 誰のだなんて、もうわかってるくせに!
 そう恨みがましく見つめると、笑みが深くなる。何故。
「わからないんですか? では、拾得物の対応マニュアルに従って、中身を改めましょうか。証人になってくださいね」
 いやあっ! 何の嫌がらせー!?

 ちなみに拾得物の対応マニュアルとはこうだ。



@異臭がしないか確かめる。

A中に入っているものを一つずつ改めて、具体的な内容を用紙に記入する。

B拾った状況、時間、場所も記入。

C調べても落とし主の手がかりがない場合は、用紙と共に先生に届ける。

Dさらにそのあと、先生は警備に届け、その内容が拾得物の一覧に載る。

E一年間落とし主が現れるまで保管。それ以降は処分。



【今回の記入例】

@⇒異臭じゃなくてチョコ臭がします。

A⇒ピンクとブラウンのラッピングバッグの中に、小さなサイズに切り揃えられたブラウニーが五つ包まれて、及びバレンタインのカードが入っています。

B⇒特別棟3階の生徒会室の前で、前副会長が不審な行動を取っているとき、現副会長が拾いました。時間は十七時二十五分頃。

CDE⇒状況からいって、前副会長が落としたものと見られます。
カードの宛名が現副会長のものなので、彼に渡すのがよろしいかと。受け取りを拒否された場合は、ナマモノということで一週間だけ保存。



 そ れ は い や !

 紙袋を開けようとする彼に慌てて飛び付いた。
 それを待っていたかのように、彼が私を拘束する。袋を持った片手は届かないように高く差し上げられて。もう片腕で、暴れられないように抱き込まれる。
 再び顔に朱が走るのがわかった。
 いやー!
 だから何これ何の拷問ッ!?
 クスクス笑う声が、耳元に触れて金縛りにあったみたいに動けなくなる。
「先輩。これは、誰のですか?」
 言え、という穏やかな脅迫に、私は屈した。
「……遼太くんの」
 悔しいやら恥ずかしいやら、真っ赤になった顔をこれ以上見られたくなくて、彼の肩口に額を押し付ける。
「……先輩、それ天然ですよね。いや、ええわかってます。わかってないのは」
 謎の言葉を口にした遼太くんが身じろぎして、同時にピリリパリパリと紙を破くような音が聞こえた。
 え? あ、
 包みを剥がしてるんだ、と悟った私は静止する為に顔を上げたけど、既に遅し。
 彼はパクリと一口でブラウニーを、
「た、食べちゃった……」
「食べましたよ? 僕のなんでしょう?」
 ニヤリと得意気に笑う。
 そうだけど、そうだけど!


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