林檎蜜事
 
 
「松岡さん松岡さん! お仕事もう終わる?」

 良家の子女にあるまじき騒がしさで使用人の休憩室に走り込んできたお嬢様を、口をつけていたコーヒーカップから顔を上げて私は見た。
「いえ、今日は十八時上がりですが……急用ですか、朔耶様?」
「あのねっ、パパには言っとくから、亜依子ちゃん送ってあげてくれないかなっ? バイト十七時からなのに朔耶のせいで遅れちゃいそうなの!」
 焦った様子でまくしたてる言葉を聞きながら、時計を見ると、
 現在の時刻十六時三十五分。
 それは確かに問題だ。
 椅子の背にかけていた上着を手に取り立ち上がる。
「構いませんよ、特に旦那様も予定はなかったはずですから、急ぎましょうか」
「にゃー! 良かった、あーちゃん大丈夫、間に合うよっ」
 振り返った先に、申し訳なさそうに眉を下げているワンピース姿の少女。
「……すみません……」
 私と目が合い、頬を染めてうつ向く。
 長く古賀家に運転手として勤めている為、朔耶様の幼少からの親友である彼女ともほんの小さな頃から顔見知りだ。
 基本的に、当主のお抱えではあるが、仕事関係の送り迎えより身内関係で使われる事が多い私は、朔耶様にお願いされて、彼女達のお出掛けに何度かお供させられた事もある。
「私の車で行きましょうか。小回りが利きますし、」
 古賀所有の高級車より、彼女のアルバイト先である街中の喫茶店の前に停めても目立たない。同じ事を懸念していたらしい彼女がホッとした表情になった。
「ホントにゴメンね、あーちゃん。松岡さんよろしくです!」
 車庫まで友人を見送りについてきた朔耶様がピシリと敬礼するのに手を振って、助手席に乗った彼女がシートベルトをするのを確認してから車を出した。

「お仕事中だったのにごめんなさい……」
「大丈夫ですよ、休憩室でサボっていたようなものでしたから」
 そう言うと、む、と口をヘの字に曲げて少し拗ねたような瞳で睨んでくる。
「亜依子様?」
「……敬語。様、やです」
 上目使いで訴えてくる少女に苦笑を漏らす。
 そんな顔をして。
 ――今ここで恋人に戻れと言うのか。

 今言われた通り、これも一応仕事のうちにに入るのだが、車を運転していなければ押し倒しているところだ。
「……さっき、一緒にいた人誰ですか」
 うつ向いて小さな声で尋ねてくる内容に首を捻る。
 さっき……? 休憩室でのことか?
 確かに女性と話をしていた。
「メイドの沢口さんのこと? ……気になるの、亜依子」
 からかうような俺の口調に、ぱっと亜依子の頬が染まる。
「だって綺麗な人だったし……! 愁一さんモテるんだもん、」
 何を気にしているのか、最後は涙目になる。
 ったく、運転中だというのに。
 ハンドルを握る反対の手を伸ばして、亜依子の唇に指先で触れる。
「舐めて」
 命じる俺の声にビクリと一瞬肩を揺らし、おずおず唇を開き、目の前に突きつけられた手に軽くキスをしてから、舌を使って舐めてくる。
「ン……、……くふ、ぅんん」
 ぴちゃぴちゃと俺の指をくわえて吸っている亜依子の口腔を指先で悪戯する。あたかも、くちづけている時の舌使いと同じに。
「ふ、ぁ……しゅ、い……」
 瞳を潤ませて、頬を染めて唇を濡らしている自分がどんなに煽情的かわかっていない幼い恋人。
 どんなに、二十も年下の少女に俺がまいっているかなんて。
 彼女の口から指を抜き、車を停めた。
「ん、愁一さ……?」
 物足りなげに瞳を揺らす亜依子に微笑んで。
「着きましたよ、亜依子様。丁度五分前、ですね」
 ぱちぱち目を瞬き、我に返ったように辺りを見回す彼女。
「……有難うございます、松岡さん……」
 愁一さんのばか、と唇の動きだけでささやく。
 ガチャガチャとシートベルトを外して、ふくれっ面で車を降りようとした手を取り、内側の薄い皮膚に唇を落として強く吸ってやる。
 ひぁ、と声を上げた亜依子に笑んだ。

「……続きは帰ってから。――たくさん可愛がってあげよう」

 熟れた林檎みたいに赤くなった君の蜜、味あわせて?

林檎蜜事リンゴ/ミツゴト

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