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ずっと傍にいた事は事実だった。
行きも帰りも、時には休み時間中だって同じ場所にいた。
君が好きだったから、友情を建前にして近づいていた。
でも、そう思っているのは自分だけだろうと考えていた。
きっと彼にとっては、友人という括りに入っているのだろうと常に思っていた。
だがそれでも、近くにいられて幸せだった。
存在を感じられているだけで嬉しかった。
欲を言ってしまったら沢山の願いが生まれてしまうだろうから、このままで良かった。
その考えが、見事に叩き潰されてしまった。
「ん?今日も一緒に帰る?」
椅子から立ち上がりながら、いずみは彼の言葉を反芻した。少量のマスカラがついた目をぱちくりさせて、口元に無理やり笑みを浮かべる。ポニーテールの先っちょがふんわりと揺れた。
「ああ、いいか?」
隣で、越知月光は頬を掻いた。顔をうつ向かせて、体の重心を片方へ傾けている。理由分からないが、いつもよりもその体が小さく見えた。
リュックを背負ったいずみは耳に髪をかけて、室内を見回す。
「……いいよ、兄ちゃんも一緒だよね?」
教室の出入口をチラッと見た。人の気配はない。
「いや、お前の兄はミーティングがあると言ってどこかへ行ってしまった」
「あっ、え、……そうなの?」
目を丸くした。同時に眉間に可愛らしい皺を寄せる。ふうっと息を吐き出した。
いずみの兄は、越知のクラスメイトであり親友だ。いずみが越知を知ったのは、兄につれられて一緒に下校するようになったからである。毎日のように3人で帰ってたから、最近やっと緊張しないで話せるようにはなったものの、長時間一緒にいるのはまだ慣れない。
だから兄という中和剤が欲しかったのだが、今日についてはどうもその可能性はないらしい。あの底無しのうるささで紛らわしてもらえれば幸いだったのに……。
「兄ちゃんは来ないのね……」
「ああ」
「……え、他に誰か一緒に帰るの?」
「いや、誰も誘っていない」
きっぱりと言われてしまった。少し胃が強張り、いずみの脳みそが固まる。しばらくフリーズして、ハッと我に返った。
(……それって2人きりじゃんか)
今までにないシチュエーションだった。心の中で兄の顔をタコ殴りにしながら、目の前の男をじっと見つめた。
銀髪の隙間からほんのちょっぴり、青い瞳が覗いていた。吸い込まれそうな深みのあるブルーに、心を掴まれてしまう。自然と心臓が高鳴った。顔が熱くなってくる。
(……う、急に緊張してきた)
この人はあまり喋らない。帰宅するまでの約15分間、話が弾むか不安だった。自分との会話を普通に楽しんでくれたら何よりだが、話の面白くないつまらないヤツだと認識されて、嫌われたり避けられたりしたくなかった。
しかし、またとないチャンスでもあった。誰にも邪魔をされず好きな人と過ごせるなど、これほど嬉しい事はない。あわよくばのパターンも考えてしまう。
どうするか迷ってしまい、危ない橋とまでは言わないがやや不安定な道を想像した。断ることもできるが、それだと何だか申し訳ない気もする。
目を合わせようとした。しかし、銀の壁に阻まれて瞳はおろか睫毛すら見えない。
「……分かった、じゃあ2人で帰ろ」
鞄を持ち直しスカートの裾を正しながらにっこりと笑ってみせる。色々感情が折り混ざって、頬の筋肉がひきつってるのが自分で分かった。
「そうか、良かった」
越知がくるりと背を向けた。大きな背中に見とれてしまう。
「荷物を取ってくる。校門で待ち合わせをしよう」
おもむろに教室を出る。歩くだけなのに何だかぎこちない。
「うん……じゃあ先に行ってるね」
隣のドアをくぐる越知を一瞥すると、いずみはすたすたと階段を降りた。
門の前でスマホをいじっていると、いきなり手元が暗くなった。おもむろに後ろを向くと、越知が肩に鞄を提げて立っていた。
「……あ、月光くん」
スマホの電源ボタンを軽く押した。スカートのポケットに白いそれを納める。
「すまないな、待たせた」
「ううん大丈夫だよ……帰ろうか」
軽やかな足取りを装って、いずみはポンッと1歩踏み出した。
その横に彼が並んできた。ちょこちょことウサギのように歩くいずみに、越知はゆったりと大股で合わせてくれる。ペースを一緒にしてくれるなんて優しいな、といずみは口元を緩めるが、さりげなく車道側を歩いてくれている事には気付いていない。
「…………」
「…………」
「……………………」
「……………………」
……会話がまるでない。歩くことに集中し過ぎているのだろうか。それともお互いに緊張しているのか。チラチラと隣を流し見するが、分厚い前髪がユラユラ揺れているだけだ。
(どうしよう……何か話さなきゃこっちが気まずい……)
覚えず己の胸元に拳を当てた。冷や汗が頬を伝う感覚がする。何か話そうとするが、口からは溜め息しか出ない。
カーディガンのポケットに両手を突っ込んだ。口の中がやけに渇く。腹の底が震えた。
「ねえ、月光くんはどんな食べ物が好きなの?」
「……更科蕎麦」
返答が返ってきた事にちょっぴり安堵する。今度は自然に顔の筋肉が緩んだ。
「へえ、お蕎麦が好きなんだ?」
「ああ」
「……渋いね」
「そうか」
「うん」
「…………」
安心したのも束の間、早々に会話が途切れてしまった。
元々口数が少ないと知ってはいるが、微妙な沈黙がこんなにも精神に来るとは思っていなかった。
それでも気を取り直して沢山話しかけた。いや、正確には、落とした気を曖昧にする為に喋りかけた。
「ねえ、月光くんは兄弟はいるの?」
「あ、月光くんってどうしてそんなに背が高いの?」
「そうだ、月光くん友達何人くらいいる?」
「月光くん、アイドルとか興味ある?」
「月光くんは無人島に行くなら何持ってく?」
出来る限り、色んな話題を振った。何か面白い話を聞けたり、雰囲気が和やかになればいいと思ってた。
しかし、返ってきた言葉はせいぜい3つほどで、多くて5つだ。それも「ああ」とか「そうだ」とか、会話を続ける気のないような返事ばかりで、越知から会話を振ってくる事は絶対になかった。
(…………無理だわ、これ)
いずみは虚ろな瞳を地面へ向けた。転がっていた石を爪先で軽く蹴る。小さな欠片は下水口の鉄格子を潜り抜けて水音をたてた。
「…………」
とぽん、という小さな音が耳に残る。自分が小石になって落ちてしまったような錯覚に襲われた。
進むのが怖くなって立ち止まる。足裏がジンジンと痺れた。
それを不思議に思ったのは越知だった。ほんの少し追い抜いたところで止まり、振り向いた。
「……霧ヶ丘?どうした?」
下を向いた視界の中、大きな足が静かに歩み寄ってくるのが見える。何だか詰め寄られたくなくて、咄嗟に片手を前に突き出して遮った。
「…………月光くんは、あたしと居て楽しい?」
セミの脱け殻よりも掠れた声が出た。
「…………は?」
「あたしと居て、……楽しい?」
「……どうした、急に」
「だってあたしって、他の人みたいにお喋り上手くないしそんなに可愛くもないでしょ。楽しいのかなって……純粋に疑問」
「おい……霧ヶ丘?」
戸惑いを隠せていないのか、越知はやたらと片足に重心を傾けている。
「はっきり言っちゃえば、月光くんにとってあたしは友達のオマケじゃん。面識はあるけど、そんなに親しくはないじゃん」
口が勝手に動く。目頭がじんわりと熱くなった。思ってる事も想像も、全部が全部出てしまう。もういっそ嫌われてしまえば楽になるよ、と、頭の片隅で誰かが呟いた。
「だから、やっぱり今度からあたし以外の友達とか誘って帰った方が……」
「やめろ!」
全部言い切らない内に怒号が飛んだ。滅多に聞かない越知の大声に驚いて、思わず前を見た。
彼の唇は歪んでいた。何を思うまでもなく、涙が溢れそうになる。しかしその口から出たのは、いずみの予想だにしてない返答だった。
「お前をオマケだなんて思っていない!」
「…………え?」
暖かい滴がポロリと落ちた。
不意に、ふわっと柔らかな風が吹いた。木々の香りに混じって、爽やかな柔軟剤の香料が鼻を掠めた。
銀色の前髪が横へサラリと靡いた。銀の向こうに隠れていた青い双眸が心に突き刺さる。彼は突き出した手を両手で包み込むと、切なげに囁いた。
「……お前と2人がいいんだ」
睫毛が震えている。握った両手は微かに震え、頬や耳にはぽうっと紅がにじんでいた。
「え……嘘、だって」
「嘘じゃない、お前といたいんだ……お前が好きなんだ」
握る力がほんの少し強くなる。手のひらを通して心臓の音が聞こえてしまうのではと思うほど、ぴっとりと肌が密着している。
「…………嘘……嘘!だって……あたしのお話つまらなそうに聞いてたじゃん……!」
いずみの混乱は増すばかりだった。力任せに骨張った手を握り返してやると、越知の息が詰まった。
「それは……っ、…………好きだから、どう答えたら良いかが分からなくて……下手に喋って、嫌われたくなくて…………すまない」
消え入りそうな男の声が、何故かずっしりと胸に響いた。
「…………それ、……ほんと?」
袖で目元を擦りながらいずみは大きくしゃくりあげる。小さな背中が張り裂けるのではと思うほどに苦しそうに息をした。
手を引っ張られた。バランスを崩して前へと倒れると、すっぽりと彼の胸の中に納まった。背中を優しくさすられる。あまり恥ずかしいところは見せたくないのに、嗚咽が止まらない。
「本当だから……そんなに泣くな」
とん……とん……と、背に振動を感じて更に咽び泣いてしまった。
彼の匂いと、彼の体温と、彼の声と。彼の全てがこんなに近くにある事が信じられなかった。彼の腰元へ腕を回し、離れるなと言わんばかりにきつく抱き締める。
「嬉しい……嬉しいよ、……ごめんね月光くん……」
「謝るのはこちらの方だ……冷たい態度を取ってしまってすまない」
「ううん、大丈夫……ごめんね……。
ねえ……明日も一緒に帰ってくれる……?」
胸板に額をつけながら、いずみはケホッと1つ咳を漏らした。
頭のてっぺんに、大きな手のひらが置かれる。細い指に髪の毛が絡んだ。
「……帰りと言わず、ずっと共に居てほしい」
越知はそれだけ呟くと、気付かれない程度に儚げに笑って、目を閉じた。
おわり
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