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山道を、走る。
木々を掻き分け、獣道とも言えぬほどの荒い斜面を、ただひたすらに走る。
先日降り続いた雨のせいか、斜面はぬかるんで滑りやすい。空気もしっとりと水分を含んでおり、息を吸うたび喉が湿る。地面を力強く踏む靴は泥にまみれ、服に土が飛ぶ。時折枝から落ちる水滴が頭に落ちた。
何本もの湿った木の幹に手をかけ、後方に押しやった。ぐいっと反発する力を利用して速度を上げる。

はあはあと息を荒げて、前方を走る犬を追い掛ける。赤茶色の美しい毛並みを持った大型犬は、捕まらぬようにと必死に逃げて行く。それを男は追い掛ける。
最初こそかなり距離が離れていたが、赤毛の犬は疲れて来たのだろう。徐々に徐々に間が縮まって行く。体力に自信のあるその男は、息こそ切らしているがまだ走れそうだ。
追いかけっこ。そう言えば響きは良いが、今、一人と一匹が形成するこの状況は全く別物だ。

犬は男から逃走を図っている。

明るさの欠片もない状況だった。



「待てっ……寿三郎……!!」

堪らず、男は口を開いた。叫び声は空気を伝わり、山の中にこだまする。
寿三郎。そう呼ばれた大型犬は、走りながらちらりと後ろを振り返った。
つぶらな黒い瞳に、服が汚れるのも構わずに走って追ってくる彼の姿が映る。

(月光さん……。)

寿三郎は一瞬目をしかめると、決死に四肢を動かして逃げるスピードを上げた。





























今朝の事だ。
テーブルの上に置いてあった手紙を、越知は見付けた。白い封筒に1枚の便箋。温かなココアをすすりながら、封を開けた。
表情を変えずに、小さな文字の羅列を目で追う。しかし次の瞬間、越知はココアの入ったマグカップをカーペットに落とした。あっという間に、新緑の布に茶色の染みが広がって行く。だが越知はそれに構わず手紙を放り投げて部屋を飛び出した。
廊下に出て玄関の方を見ると、大きな毛並みの美しい犬がいた。
犬は越知の姿を見ると、開いていた玄関から飛び出た。走り去るその姿を凝視しながら直ぐ様靴を履き、越知は犬を追いかけた。




手紙には、こう書いてあった。



“月光さんへ

いきなりこんな手紙なんか出してすんません。
でも、どうしても言わなあかん事を隠してました。
突然っすけど、俺、実は犬の半獣人間なんです。
確か、水の精である月光さんは、犬は苦手っすよね……。
だから俺、もうここには居られません。あの時、いじめられてた俺を守ってくれて、嬉しかった。
二年間、ほんまありがとうございました。

毛利寿三郎より”



気付けば、越知はその後を無我夢中で追っていた。
山に入っていく犬を見逃さぬよう、全速力で駆けた。
山に入り獣道を登り、転びそうになりながら必死で追跡した。
そして、今に至る。





「寿三郎!」

叫んだが、彼は何の反応も示さない。
聞こえている筈なのに、振り返りもしない。呼び掛けに反応したのはさっきの一回きりだ。

かれこれ何分走っていたのかは知らないが、相当の時間ダッシュしていたのだろう。ふくらはぎや腰がじんじんと痺れてきた。肺ももう引き裂けんばかりに酸素を取り込んでいる。体力が限界なのだろう。
ふと、空を見上げてみる。どうやらそちらも持ちそうにない。灰色の雲が、山を覆っている。

……やむを得ない。

そう思った。

越知は咄嗟に左手を横に伸ばし、指を広げた。
左側には小さな渓流があった。ここ数日の雨で増水した渓流は、茶色い水を下流へ流している。
何やら呪文を唱えると越知は左手で指を鳴らした。パチンと音がして水が動き出す。
水は、ごうごうと轟音を立て渦を巻くように宙に舞い上がり、泥水が浄化されたように、あっという間に透明な綺麗なそれに変わる。
そして、一瞬の内に水は巨大な龍を形成した。
越知は左手を右胸に引き寄せるモーションを行い、龍をこちらに近づける。すっかり並走するようになると、その背に跨がり角を掴んだ。
龍に乗り移動するこの業は、水の精である越知にしかできない業だ。それに加え、大量の水がなければここまで巨大なものは作れない。数日降り続いた雨は有り難かった、と、角を握り締めた。
龍の背に乗った越知は速い。ものの数秒で毛利に追い付いた。


「止まれ!寿三郎!」

「…………。」


無視を決め込んだのか、やはり反応はない。
何度も叫んだが、耳一つ動かさなかった。それどころか、走るスピードを上げる始末だ。
その様子に段々と腹が立ってくる。
こんなにも呼んでいるのに……。怒りに歯をぎりっと噛み締めた。


こうなれば、手段は選ばない。


龍の背に跨がりながら、右手を頭上に上げた。そして再度、フィンガースナップの音を響かせる。
その途端、龍はただの水に戻り、ばしゃりと地面に落下した。
大量の水が獣道に流れ出す。それはまるで川のように、濁流を生んだ。斜面を滑るように、土をさらった水流が物凄い勢いで道を侵食する。
毛利はそれに巻き込まれた。突然の事に動揺し、足をじたばた動かすが、抵抗は虚しい。顔を浮きつ沈みつさせ流れに翻弄されている。
越知はその流れに飛び込み、彼の体を抱き上げた。自分は水の中でも呼吸はできるので、毛利の顔を水面に出す事を最優先させた。
やがて水量が少なくなると、越知は彼を抱きかかえながら流れから脱出した。太い木の根元に毛利の体を寝かせ、びしょ濡れになった毛並みを撫でながら、息をしているか確かめる。
越知が口元に耳を近づけたその時、毛利の耳がぴくりと動いた。そしてみるみる内に人間の姿に戻り、咳をし始めた。
噎せて前後に揺れる背中を優しく叩きながら、怒気を含んだ声で言った。

「待てと言っているのに待たないからこんなことになるんだぞ……少しは言うことを聞け、愚か者。」

精である越知は水に濡れなどはしない。寧ろ水分を吸収する。
びしゃびしゃになった毛利の衣服に手を当て、その水分を吸いとる。咳が治まってきた毛利は濡れた髪を掻き上げ、鋭い瞳を向けた。

「何で……追っかけてきたんすか!月光さんが犬は苦手って言ってたからここまでしたんに!!」

シャツの胸ぐらを掴んだ毛利の顎から、雫がぽたぽた落ちる。眉を釣り上げて越知を睨み付けるその目は、野生そのものだ。
越知は静かに息を吸うと、一発掌で彼の頬を叩いた。パァンと破裂音がして、じんわりと叩かれた部分が赤くなる。
ぴりぴりと痛む頬を押さえ、何故殴られたのか分からない毛利は更に怒りを込めて睨み付けた。そして声を荒げようとしたが、


「話を聞けと言っているだろう愚か者が!!」


反抗の言葉は、越知の怒鳴り声に掻き消された。
普段は怒鳴らない温厚な越知がここまでの説教をする事が毛利は信じられず、ただ押し黙った。
シャツを握る拳の力が弱まるのを、越知は見逃さなかった。その手を払うと、逆に相手のそれをぐっと握った。

「大人しく俺の話を聞くことも出来ないのか?!一方的に用件を伝えて去って……。俺の気も知らずに、自分がこれで良いと思った事は俺にとっても良い事だと思っているのか?!」

鼻の先が擦れ合う程に顔を近づける。お互いが見つめ合っているのは、相手の怒りに満ちた瞳だ。
だが。
毛利の胸ぐらを掴む手から、ふっと力が抜けた。それとほぼ同時に、爛々と怒りの炎を燃やしていた越知の瞳は、いつもの冷静な凪の状態に戻った。
あまりの困惑した毛利は眉間にシワを寄せる。

「……きちんと俺の話を聞け。」

越知は平静なまま続ける。

「俺はお前が犬の半獣でも構わない。」

その言葉を聞いた毛利は耳を疑う。

「はァ?!やって水の精の月光さんは……」

「話を聞けと何度も言っているだろうが。」

怒りを通り越し呆れ果てた越知は溜め息をついた。

「確かに俺は犬は苦手だ、大小に関わらずな。
だが、考えてもみろ。二年間共に過ごした者を失うのと、突然犬がすり寄ってくるのでは、俺は前者の方が辛い。」

「…………だって」

「自分を必要ないと思うな。お前が犬だろうと、俺はお前と生活を共にしたいという思いは事実だ。」

真剣な青い眼差しが、毛利の心に刺さった。
この人は自分を苦手どころか必要としている。その事実がたまらなく嬉しかった。
ぽろぽろと涙を流す毛利の濡れた頬を、両手で包み込むようにして触れた。何も言えないでいる彼の額に、自分のでこをくっつける。

「何か、反論はあるか?」

泣きながら、彼は首を左右に振った。しゃくりあげる呼吸を必死に押さえて言った。

「……な、いっ…………。」

越知は口角をゆるめ、ごめんなさいを連呼するその背中を撫で続けた。
不意に、ぽつぽつと、何かが頭上から落下してくる。頬に当たったそれを、毛利は人差し指で拭い取った。
自分の涙ではない水滴が付着していた。
つまり雨。天気が崩れ始めたのだ。

「月光さん、雨が……」

空を見上げた毛利が呟く。同様に頭上を見やった越知は、目の上で掌をかざす。

「そうだな。……帰ろう、お前がびしょ濡れにならない内に」

すっと立ち上がり、土をできるだけ払う。ぱんぱんと泥を落とす最中、涙と雨まみれの笑みを浮かべ、ぽそりと言った。

「月光さんのせいでもうびっしゃびしゃっすけどね……。」

見かねた越知が服の水分を完全に吸いとる。

「それはお前が言うことを聞かないからだ。」

一瞬の沈黙のあと、先程の衝突はどこへやら、二人は互いを見つめ合い、笑う。
そして、手の指を絡めるように握り合うと、山道をゆっくり下り始めた。



「帰ろう、俺達の家に。」


雨の降り続く山中を、一歩一歩踏み締めた。


自分達の家に、帰る為に。

お互いを悲しませない為に。








End






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