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今日も俺は月を眺める。
藍色の空に、小さな光を放つ星が点々と輝いている。その中で一際暖かく優しい月明かりが、自分の体をやんわりと包み込んでいた。綺麗な満天の星空の中、俺は名前を呼ばれた。
「月光さんっ」
声のした方を振り向く。そこには、にっこり笑った飼い主の姿があった。ちっさな鍋の蓋を持って、ぐつぐつ煮込まれた具材をじゃーんと見せてくる。閉じ込められていた湯気がもあもあと上がり、その自慢げな顔が覆われた。あちあちっと身を引く様子を微笑ましく見ていると、彼は頬をぷっくりと膨らませてこちらをじとりと睨んできた。
「月光さん、今明らかに俺の事馬鹿にしましたやろ?」
どうやら、目元を緩めていたのを彼はそう捉えられたらしい。だが当の俺はそうは思っておらず、寧ろエプロンがよく似合っていると見とれていただけだった。
「いや、……していない」
お玉をぶんぶん振り回した飼い主は、テーブルに出されている取り皿をそれでびしっと指す。どうやら納得してくれたようだ。
「まあええわ……ほな食べましょ!」
さっさとお玉で具を掬い始めると、俺の分を先に分けてくれる。それも大好きな魚のつみれを多目に、どちらかと言えば薄味の具材を次々によそってくれた。俺も前屈みになり鍋の中をじっと見詰める。豆乳ベースの汁なのか、まろやかな匂いが鼻を通して体内に入り込んだ。つみれ、豆腐、白菜、人参、えのき……色んなものが入ったとんすいは、ほかほかという言葉がぴったりだ。取り分け終わると、彼は両手で器を渡してくる。
「はい、月光さんの分でっせ」
俺も同じく両手で受けとる。掌が器の底に触れ、じんわりとした熱が伝わった。
「ありがとう……」
器をテーブルの上に静かに置く。こんもりとよそられた晩御飯は、久しぶりのご馳走だ。
箸立てに手を伸ばし、俺の青い箸と、まだ自分の分を取り分けている彼のオレンジの箸を引き抜いた。
若干身を乗り出し、そっと向かいに片方の箸を置く。彼はおおきにさん、と微笑んだ。
「あっついんで気を付けてください」
箸を持つ俺に蓮華を渡してくる。それを受け取ると、熱々の野菜を掬って息を吹きかけ冷ました。
口に含んだ白菜は、よく煮えていて味が染み込んでいた。未だ慣れぬ箸でやっと掴んだ人参も柔らかくて美味しいし、魚の旨味が閉じ込められたつみれは特に口に合った。
「美味しい」
素直な感想を伝えると、肉を頬張った彼はにっこり笑った。
「おおきにさんっす!」
飼い主手作りの鍋は格別だ。
二人は雑談を交わしながら、晩御飯をたらふく食べた。
ちっさな鍋だったが、全て食べるまでに時間はそれなりにかかった。
最後に残ったのは一つのつみれ。
飼い主はあんたが食べてと言ってくれた。
俺は鍋から直接蓮華で掬った。
それを口に入れた瞬間だった。
ぼふんという音と煙の中、俺の体は元に戻った。
白煙から現れたのは本当の俺の姿。
銀の鈴と青い首輪。ぴんと立った耳。スリムなフォルム。汚れのない白い毛並み。ふにふにの肉球。
元の、猫の姿に。
「あ……戻ってしもたか……」
後頭部を掻きながら、飼い主は苦笑いした。
「もうちょっと人間月光さんと一緒におりたかったっすけど、時間切れやね」
つみれを咀嚼する俺を軽々とだっこする。優しくて、割れ物を扱うように丁寧な手つきだ。
その大きな手で頭をやんわり撫でられる。
「猫月光さん、次の満月の日は何したいっすか?」
「…………みゃあぁー」
次は……一緒に寝たい。
いつもは俺が抱き締められて寝ているから、たまにはお前を抱き締めて寝たいんだ。
美味しくつみれを食べた後、俺は返事を返した。と言っても、他人にはただの鳴き声にしか聞こえないだろうが。でも、飼い主にはちゃんと通じる。
「ほな、俺早う帰ってきますさかい一緒に寝ましょ!」
「みぃ……」
ありがとう。
彼の顔に頬擦りをした。毛を挟んではいるが、体温が感じられる。
俺も、人間の姿でもっと一緒にいたかったな……。
その願いはきっと叶わないだろう。
満月の夜の、1時間だけの魔法なのだから。
END
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