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ただ、そうしたかった。
誰かにかまってほしいとか、止めてほしいとか、そういった願望はなかった。むしろ、誰にもかまってほしくなんかなかった。独りでいたかった。
ストレスを感じているのか?と問われる事がある。それはもちろんそうだ。ストレスを感じない人間などいない。いくら精神暗殺者と言われようと、完璧ではない。
でも、自分の心のキャパシティに比べたら、ストレスなんてちっぽけなものに変わりなかった。だから、原因はストレスではない。それは自分自身も分かっている。
では、何故そんな行動を?と聞かれる。
……そんなものは、どうだっていいだろう。個人の勝手だ。
自分の思いを素直に表したら、そうなっただけ。つまるところ、別になんでもないのだ。ただの趣味と言っても過言ではない。どっちにしろ、迷惑をかけていなければ、周りが必要以上に干渉すべきではないのだ。
そう。
個人の趣味に、周りはあまり干渉すべきではないのだ。
……ああ、美しい色。
自分の手首から流れる深紅を、うっとりと眺める。
とろり、とろりと、指先へ伝って、爪と皮膚の溝へ流れ込み、やがては床へぽたりと落ちた。
鉄臭さが漂う密室で、深紅だけが色鮮やかに映る。
口のはしっこを、思わず少しつり上げた。
リストカット。
越知月光は自傷することに依存していた。
ケタケタ笑いながら、ぱっくり割れた手首を見つめている。
真っ直ぐに線の入った傷口は、あふれでる血液を見送るしかない。既に手のひらは血塗れだ。握ると圧がかかって、もっと垂れてくる。少しの痛みは感じるが、アドレナリンが出ていて鈍くなっている。所詮はチリチリする程度だ。
心臓が異様にうるさく耳元で鳴っている。それも耳鳴りを交えてだ。キンキンとドクドクの繰り返しで、頭がジーンと痺れる。
ぐ……ぱー、ぐ……ぱー……
握ってひらいて、握ってひらいて。
真っ赤な手を動かす度に、血はぽたぽたと落ちてゆく。
それを見て喜んだ。
にたりと笑って喜んだ。
落下する血液に触れてみた。ほのかに温かい。
それを口に含んでみた。不思議な味がする。
真っ赤な指を咥えて、舌を這わせる。
その内に段々と、手のひらを舐めるようになった。
しょっぱい、美味しい、鉄臭い、美味しい
自分の血の味が、何だか妙に美味しく感じられる。
無我夢中でしゃぶった。
がっついていると、更に心拍が跳ねた。
興奮しているのだ。
ああ、俺は、俺は生きている
生を実感した。
流れ落ちる自分の血液、脈打つ自分の心臓、ほんの少しだが痛む傷口。
自分は生きていると、強く感じられる。
強く、強く、強く……何をするよりも、生を強く感じた。
チチチ……とカッターの刃が再び顔を出した。
先ほど一文字に遮断されたばかりの皮膚の真下に、銀の線をあてがう。強く押し付け、肉を食い込ませ、そのまま横へヒュッとスライドさせた。
肉がまたぱっくりと割れた。切り裂かれた直後の白い断面は、みるみる内に紅色に染まりゆく。あっという間に赤に占拠されると、今度は外へとこぼれてきた。
ぱたぱたぱたっ……
また床へ落ちた。
跳ねた飛沫が足に付着する。
楽しい、楽しい楽しい
薄気味悪い笑みを浮かべた。
真っ赤になった左手を、蛍光灯に掲げる。
何故、自傷はいけないと言われるのだろうか……
つい先日、他人に傷痕を指摘された事を思い出した。
こんなにも、幸せな気分になれるのに。
自分を大切にしていないと、思われているのだろうか。
そんな事はもちろんない。自分を大切にしているからこその自傷……もといリストカットなのだ。
死にたいのかと聞かれる事もある。
しかし死ぬ気なんてものは最初から無い。生きたいからこうやって切っているのだ。
それを止める権利は誰にもない。
そう、誰にもない。
自分は満足しているのだから。
おもむろに小瓶を取り出した。
小物作りに使うような小瓶だ。
コルク栓を抜いて、ベッドの上に置く。そして真新しい透明なガラスに、赤を流し込んだ。
あっという間に瓶の半分ほどが赤で染まった。瓶の口を指先でつまんで揺らすと、とぷんと小さな音がする。笑みがこぼれた。
頑丈に栓をする。何かの拍子に倒れても、赤が漏れ出さないように深く詰め込んだ。
自分の血液が入った不気味な小瓶のできあがり。
そんな物が作れるのは、自分が生きている証拠。
何度作っても飽きない。
本当は常に首からぶら下げていたいくらいだが、流石に周りの目を気にしたりもする。
リストカットをしているだけで叱られたり揶揄される事が多いのだ。血なんかぶら下げていたら何を言われるか分からない。
仕方なく、テーブルの上に置いた。奥には以前作った瓶がゴロゴロ座っている。大きさはまちまちだ。
空気と遮断されているそれは、つまんでゆっくり振れば変わらずトロトロと渦を巻く。ずっと前に作ったものでも変わらずに。
確か1年前に作ったものが最も古かった筈だが、それすらも呑気に渦を巻いている。下の方に沈殿して少しは固まっているものの、どす黒い赤は身軽さを忘れてはいない。
とぷん、とぷん……
蛍光灯の光が反射する。
とぷん、とぷん……
ガラスの壁に打ち付けられた赤は、すぐに元の通りにおさまる。
とぷん……とぷん、とぷん……ぱしゃ、ぱしゃ……ぱしゃ、ジャバジャバ……ジャバッ、……バシャバシャバシャ!
振って、振って、振って、振ると、泡がたつ。
ブクブクブクと瓶の内にへばりつくそれは、俺の事を凝視する目玉のように見えた。
ふっと頬笑む。楽しいのだ。
俺の血、俺の血が揺れ動いている
そう、動いている
止まることなく
月日が経っても変わらずに
音を伴って動いている
それは何よりも、
俺に生を感じさせる
だから、リストカットはやめられない
血の小瓶を作るのをやめられない
死んでいないから
生きているから
生きている証拠になるから!!
「ああ、俺は生きている!」
この血が全て固まらない限り、俺は生きている!
思わず手首に頬擦りをした。生暖かに濡れた感覚と、自分の低い体温と、そして生を感じる。
頬は一瞬で血にまみれた。唇にまでも赤が付着し、傍目から見ると、それはドラキュラのようだった。
自然と目が潤んだ。
ああ、幸せだ……
俺は生きている
それを感じられるなんて、こんなに幸せな事はない。
声をあげて笑った。
狭い個室に狂喜的な笑いがこだまする。
やがて笑い声がおさまると、ぎゅっと拳を握りしめた。
興奮で震える手に、またカッターをあてがった。
そして再び、横へ素早く滑らせた。
Endless
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