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自宅だった。ちゃんと自宅である。ベッドは自分のもの、ところどころに涎が染み付いた痕がある。枕元には乱雑に置かれたぬいぐるみ。全部自分がゲームセンターで取ってきたもの。
むくりと起き上がるとテーブルとテレビが視界に入る。うん、これもウチのだ。香水と化粧品が散らばったテーブル、最近いつ点けたか分からないテレビ。完璧に私のものである。
で?
この、隣の人はナニ?
シングルサイズのベッドで、ゆずの隣で身を屈めてすやすやと寝息を立てている男がいる。こちらに寝顔を向けて、そこら辺にあったぬいぐるみの1つを抱きかかえ、安眠の底にいる。
フリーズした。お互い服は着てる。自分は昨日着ていたシースルーとスキニーを、この男はシャツとスラックスを。そして今気付いたが枕元にネクタイとピンが置いてあった。
だが何にも覚えてないゆずは首をかしげるだけだった。この状況は何だろう?よく考えてみたが寝起きの頭じゃちっとも働きはしない。
結局は、ああ、頭バグってんのか。と結論づけた。
もう一度寝ようと、横になった。布団をかぶっておやすみと目を瞑る。しかしやはり横からは規則正しい寝息が聞こえてきた。
夢じゃねーのかよ。
段々と冴えてきた頭のせいで、眠気がどこかへ行ってしまった。再び起き上がると、男の顔をじっと見つめた。
通った鼻筋と長い睫毛、そして薄い唇。見覚えがあった。昔に比べ髪型こそ少しばかり変わっているが、柳蓮二だと気付いた。
そこまではいい。
問題は、何故中学でしか接点のなかった柳が自分の隣で寝ているのかという事だ。
頑張って思い出そうとするが、昨日の記憶がない。酒でもしこたま入れてしまったか?と考えたが二日酔いはしてない。
とにかく、どうしようか。柳が起きたら何か分かるかもしれないが、自分がどうしてこの状況に追いやられているのかを分かっていないから、逆に悪い方向へも行きかねない。ゆずは少し悩んだ挙句、運に任せることにして再び二度寝を決め込んだ。
直後だった。
「ん…………んん……」
隣でぬいぐるみを抱きながら寝ていた男が呻きながらゆっくりと体を起こした。目を擦り、髪の毛を手ですくと、ふあっと欠伸をする。
その様を、ゆずは片時も見逃すことなくガン見していた。そんなゆずの強い視線に気付いた柳は、おや、と1つ声を漏らした。
「どうした、そんなに厳しい顔をして」
起きたばかりだと言うのに、涼しげに首を傾げる柳。この男は何故ここにいるのか知っているのだろうなと一瞬で分かった。
『中学の時の柳蓮二……だよな?何で私の隣で寝てたんだ?』
ゆずは両手を八の字に構えて臨戦体勢をとる。その行動が柳にとっては突拍子なかったのだろう、彼はふははっと大口を開けて笑い始めた。
『な、何で笑う?!』
「いや、すまない……っくく、ついつい。お前は何も覚えていないのかと、思ってな」
『覚えてないな、昨日の記憶すらない』
「そうか、じゃあ内緒だな」
『待て待て待てそれはずるいぞ柳、教えてくれよ』
「いや、お前の反応が面白くて……ちょっと意地悪を言ってしまっただけだよ」
この男……中学時代より温和になってはいるが、それに付け足して意地悪にもなっている気がする。
『何故10年前はただのクラスメイトだった君が私の部屋にいるんだ』
ポンポンとマットレスを叩いた。柳は顎を人差し指でで2度さすると、鼻で笑う。
「偶然、会ったんだ。お前の勤めているところへ俺が偶然寄ったんだ」
『……え?』
やれやれと溜め息をつく柳。ゆずは何が何だか分からず間抜けな顔をしている。
「昨晩、香水の店の前を通りかかってな。丁度柔らかな匂いのする香水を探していたから試しに入ったんだ。そうしたらお前が接客をしてくれたのだが、……お前は疲れていたのだろうな。ろくに思い出のない俺に、久しぶりじゃないかこの後1杯どうだ?と絡んできたんだ」
ゆずの間抜けな顔は変わらない。
1杯。大人の1杯と言えば酒だ。確かに昨日のゆずは8連勤の最終日で、テンションがブチ上がってはいた。ちなみに8連勤もしたのは、運悪く従業員から欠員が出た為である。
『マジか……、いやでも、酒に誘って記憶がないのは分かるが、二日酔いしてないのは何でだ?』
「本当に覚えていないのだな、お前。……勤務が終わって待ち合わせたバーに行ったら、既に相当酔っ払っていたぞ。そこから俺と共に更に酒を飲んで、色々赤裸々な話を聞かされて。俺もほどよく酔ったところで帰ると言う話になったのだが、知り合い程度であったとしても流石に女性1人を深夜の帰路につかせるのは心配でな。二日酔い対策を万全にして家まで送ったんだ」
『おう待て待て待て何だ赤裸々な話って。私何を話したんだ』
「家についたらお前は俺ごと家の中に引き摺り込んでいったぞ。そして“折角だから泊まっていってくれよ、1人は寂しいんだ”と俺のネクタイを……」
『待てって待て待てその前に赤裸々な話ってなんだよ?て言うか、は?何それ?昨日の私そんなことしたのか?!』
テンパったゆずは口をあんぐり開けたままネクタイを見やる。外した記憶なんてない。もっと言うと赤裸々な話をした覚えも全くない。
「それはもう、するりするりと解かれたぞ」
あちゃー……とゆずは顔面を片手で覆った。
昨日の私はそんなに酔っ払っていたのか。社畜勤務をしてテンションをブチ上げてかつてのクラスメイトであるオトコを家に連れ込んで……夜は何もなかったのだろうが、これじゃあまるでワンナイトのようだ。自分の行動力をある意味尊敬する。
それと余談ではあるが、限界まで酒を入れて帰ってきたのだとしたら、柳の二日酔い対策とやらはとてつもない効力を持っていることになる。
「ついでを言うとお前は俺をベッドに寝かせて“ねんねんねー”と言いながら背中をトントンしてきていた。その割に自分の方がすぐ寝こけて涎を垂らしていたがな」
『やめろやめろ!!語らなくていいところを語るんじゃない!!中学の時に比べて意地悪になったな柳?!』
「俺は元々こうだ。ついでに言わせてもらうと、お前は随分大胆な女だったのだな、霧生。隣の席になってもそんな片鱗はなかったから正直驚いたぞ」
『棘が取れたと言え棘が取れたと!!』
「お前は案外からかい甲斐のある人間だな。とても滑稽で面白い」
『クソッ……全部自分がしたことだから何も反論できねぇ……』
ああ……恥ずかしい。生まれてこの方、男にも女にも素直にならずに生きてきたのに、酔っ払って大失敗とは。しかも、こんなただの中学の同級生にだ。
柳も柳で可哀想に。こんな女っ気のない人間の家に引き摺り込まれるなんて。自分で言うのは気がひけるが、何も魅力がないただの成人女性に捕まって損をしただろう。自分のそばに居させることは、柳にとって何の意味もないし有意義なことではないはずだ。
自分で連れ込んでおいて何だが、早く帰ってもらおう。きっとそれが1番いいだろう。私にとっても、柳にとっても。
『悪いな、柳。私の我儘に付き合わせてしまった』
ゆずはゆっくりと立ち上がった。頭を掻きながら、目を伏せる。
『何もしない、柳をこれ以上振り回すわけにはいかない。帰ってくれ』
部屋の扉を開けた。ワンルームだから扉の先はすぐ玄関である。開けっぱなしにして、ゆずはため息をついた。
テーブルの上に鎮座する数多の香水、その1つを手に取ってキャップを外した。プシュッとひと吹き、首元に散らす。淡い柑橘系の香りがたちまち辺りに漂った。シトラスのようなキレのあるみずみずしさの中に、ライムの苦味を思わせる落ち着いた香り。やはりこの香水が1番好きだ、とゆずは鼻から息を吸った。ゆずにとって、香水は煙草と同義である。
今日明日と休みだから、もう自由気ままに過ごそう。うーんと腕を天井に向けて突っ張って伸びをした。その時ふと気付いた。柳がまだ帰ろうとしないのだ。怪訝に思ったゆずはベッドの方を見やると、彼は帰るどころかうつ伏せになってぬいぐるみを眺めていた。
『柳……?何をしてるんだ?』
「お前は帰れと言うが、俺はまだ帰るつもりはない」
『……は?』
一切視線を逸らさず、ぬいぐるみの足を握りながら柳はさも当然のように答えた。
『え、何で??』
「俺も今日は仕事が休みだ。急いで帰る意味はない」
分からない。ゆずの頭が混乱した。
自分にとって、柳蓮二という男はほぼ他人も同然である。そんな程度の認識の男が自宅に泊まっていったというだけでも結構なイベントなのだが、それに留まらず寛いでいくという。ゆずにはもはや、この男が何を考えているのか分からなかった。
かと言って嫌いなわけでもない。勿論、好きでもないが。だからその分、無理に帰すのも気が引ける。
『……帰らないなら、まあいいや。自由にしてくれ』
「そうか、ならもう少しのんびりしていくとする」
『その代わり、私は私で自分の生活をさせてもらうからな』
「ああ、別に気にしない。そもそも本当に嫌なら、共に酒を飲むことなんてしないからな」
柳が目を開いた。怪しげな瞳だった。切長で、睫毛の長い流した目。その虹彩の奥に、何か蠢くものを感じた気がして背筋にピリッと衝撃が走った。……何だこの男。ただ穏やかなだけの男じゃないのか。ごくっと生唾を飲み込んだ。
『……とりあえず、私はシャワーを浴びてくる。覗くなよ』
「安心しろ、お前の風呂を覗くくらいならぬいぐるみと戯れていた方が有意義だ」
『そりゃ良かったよ』
嫌味ったらしく鼻で笑うと、ゆずは干されたバスタオルをするりと引っ張り肩にかけた。ボックス型のケースから畳まれた下着を隠すように持ち出して、ユニットバスへ向かった。
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