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「っ……。」

大きな手のひらが、衣服越しに触れた。その瞬間、視界が反転する。
凄まじい力で胸の中心を押され、たまらず後ろへよろける。ぐらりと体が揺れて、背中から壁に激突した。背面全体と腰骨の辺りに鈍い痛みが走り、些か内臓に振動が響いた。左足は和式便器に突っ込んでしまい、ジャージの裾が濡れている。
痛みに抵抗できず、壁に背をつけたままずるずると座り込んだ。くらくらする視界で彼の顔をおぼろげに捉えると、うっ……と呻いた。

「っ、寿三郎……どうしたんだ……。」

激しいダメージに咳をこぼす。首がピキンと痛み、やってしまったか……と思いそっと手を当てたが、どうやら一時的なものらしい。段々と痛みは引いて行く。
しかし今は自分の心配をしていられる状況ではない。目の前の、もっと重いものを静めなければなならないのだ。
ぼさぼさになった前髪の隙間から、自分を押しやった張本人の顔を見上げる。身長が2mを越えていようとも、尻を床に着けて身を屈めてしまっては、人を見上げる他ない。立っているのが女性であろうと、その目線はこちらが下から見るかそれとも対等になる。だが、必ず見上げねばならない時もある。特に、毛利寿三郎に対しては。

「月光さん。」

トイレの狭い個室内に、えらく低い声が響く。一音一音にびっしりと細かな棘がついているような、苛立ちを含んだ声だ。彼が呼んだ名前はやけに重っ苦しく感じられて、まるで言葉で拘束されているような気分になる。
いやらしく己の唇を舐めながら、彼は……毛利は、じわりじわりと距離を縮めた。打撃を食らって動けないでいる越知を追い詰めるべく、威圧感を漏らしながら足を進める。ちょっとだけ曲げた首の角度から、かなりの怒気が読み取れた。毛利は激怒すると首を傾ける癖がある。それが顕著に表れていた。

「俺、言ったっすよね?あんたが好き過ぎるって。」

弧を描く曲線が、上向きに横倒しになった三日月のような目。口の端が何かに引っ掛けられたように吊っている。笑みでもない、怒りでもない、ただ大量の威圧感が滲み出る顔だ。
右足を半歩引いて、しゃがみこむ。怯えの色を醸す青い瞳をじっとりと見つめて、また唇を舐めた。

「俺はね……依存体質なんですわ。この人と決めたら、溺れる程に愛する。その対象が今は月光さんだって……あんた自身知ってはるでしょ?」

「ぐっ……。」

片手で胸ぐらを捕まれ、無理に上を向かされる。
一気に顔と顔の距離が近くなり、心の隅々まで感情が読み取られた。恐怖と、焦燥と、少しの冷静、そして罪悪感。様々な感情が越知の胸を支配する。

「さっき何してたんすか?種さんとこそこそと……ねえ?」

ただでさえ不気味な目元が、更に細められる。背筋が、氷を押し付けられたようにヒヤリとした。

「何も……していない。」

目を逸らしたいが、それは叶わない。もし逸らしてしまった時には、倍に詰められた距離で瞳孔を覗かれるだろう。恋人にその禍々しい眼差しで射抜かれては、メンタルアサシンと言われている彼の精神にも亀裂が入ってしまう。
ぼうっと鳶色の瞳を見つめ返し、少しの息苦しさに目をしかめた。

「ほんまですか?」

襟元を握る手に力が入る。疑っている表情で、その拳を揺さぶると、越知の頭がぐらぐらと数回前後に揺れた。

「……本当だ。」

毛利の目付きが変わった。それまで感情の見えなかった視線が、途端に怒気を含むそれに変わった。
刹那、大きくこもった音が響いた。越知の左頬を思いっきり殴ったのだ。

「うっ……。」

固く握り締めた拳が頬を直撃した。勢いに押され、顔面が横を向く。接触した部分が紅く熱を帯び、じんじんと重い痛みが広がった。
犬歯で口内を傷付けてしまったらしく、たらりと血が滴る。真紅のその液体は、顎を伝って喉元へ垂れた。
しょっぱくて鉄臭いものを味わいながら呻いた。涙の滲むぼやけた視界に映るのは、嫉妬に狂う彼の顔だ。

「また見え透いた嘘つきますね。……全部知ってますよ、俺。手ぇ繋いでた所、がっつり見ましたもん。」

顎を掴まれ、目を合わせられる。口の中の傷が沁みて痛い。

「あれは違う……誤解だ。」

越知が弁解しようとすると、再び拳が飛んできた。

「ぐっ……!」

頬骨のやや上の辺りを何発も殴られた。瞬間的に鋭い痛みが走り、加えてじんじんと熱が広がる。視界の左側にチカチカと眩しいものが感じられ、数回瞬きをして頬をやんわり触った。

「何がどう誤解なんすかねえ?どう見ても手ぇ握ってたっしょ。」

「あれは種ヶ島が勝手に……。」

ドン!
背をぴったりくっつけていた壁を蹴られた。大きな音がして脇腹のすぐ横から振動が伝わる。あと数センチずれていたら、その足はきっと腹に直撃していただろう。首筋に冷や汗を垂らし、横目で毛利の靴を見た。

「勝手に?勝手なら振り払えばええっしょ?普通は拒否するもんでっせ?」

壁に足裏をつけたまま、圧をかけるようにぐりぐりと回す。
越知に喋らせる気はないらしい。それを悟ったのだろう。彼は開きかけた口を横一文字に結んだ。

「…………。」

黒い笑みが、毛利の顔面を支配した。蹴りつけていた足を下ろし、ぺろっと舌舐めずりをする。

「やっぱりクロなんすねぇ、月光さん。こうなればお仕置きしかあらへんのかなぁ……。」

服の襟を握っていた手が外れた。代わりに、二つの手のひらが越知の頬を撫で回す。血がつくのもお構いなしに、狂喜に歪んだ顔でべっとりと愛撫した。

「悪い子にはお仕置きでっせ?月光さん。」

毛利が不気味な笑みを浮かべた。と、ほぼ同時に、今までに感じた事の無い窒息感が越知を襲った。
毛利が、その細長い指で首を締め上げているのだ。

「…………ぁ……ぐっ……。」

親指の爪が食い込む程に強い力だった。このままでは本当に窒息死してしまうのではと思う程の圧迫感が越知を包んだ。
血液の混じった涎が垂れた。顔がみるみる内に真っ赤になり、弱々しい指使いで毛利の手を引っ掻く。しかし、壁に押し付けられてしまっては抜け出す術はない。

「ふふ……月光さん、苦しいっすか?」

呼吸ができずにもがいている越知のすぐ目の前で、クスクスと嘲笑する毛利。しかし彼の青い瞳はその姿を鮮明に映す事はできない。不明瞭な脳内には、絵の具の滲んだような映像しか入ってはこない。
段々意識が朦朧としてきた。苦しさも少しずつ薄れて行き、体に力が入れづらくなる。ああ、落ちるな……と、越知は意識の喪失を覚悟した。
それとほぼ同時だった。首元から、ぱっと手が離れた。気を失う境目を見計らって、毛利が手を解いたのだ。

「おっと……まだ落とさへんよ……。」

押さえつけるものがなくなり、越知の体がぐったりと項垂れた。
潰れていた気道が元に戻り、大量の空気が肺に流れ込んだ。急に酸素が入ってきた為か、激しい咳が込み上げてくる。

「……っ!げほっげほっ、ゔぁっ……!」

全身を揺さぶるようにしてむせんだ。腰を折り曲げて喉元に手を当てる。咳のし過ぎで咽頭がきりきりと痛んだ。
酸素が通ったお陰か、視界と頭がはっきりしてくる。危うく死にかけたのだと強く自覚して顔を青くした。まだヒューヒューと苦しそうに空気を吸いながら僅かに呻いた。

「あーあー、そんなに苦しかったっすか?」

真っ青な顔を覗き込む毛利。己の喉元を押さえていた彼の手を取ると、互いの指を絡めた。

「……殺されるかと、思った……。」

毛利の手を、弱い力できゅっと握る。指先が静電気を浴びたようにぴりぴりと痺れた。
彼はそれに答えるように、ふっと微笑んだ。骨を潰すような力で握り返し、痛がるその反応を嬉々として眺める。

「あはっ、何で好きな人殺さなあかんのですか?まあ……でも息絶えた月光さんも素敵でっしゃろね……きっと。」

ミシッ……。骨が軋む音がはっきり聞こえた。このまま力を込められ続ければ、利き手の骨はただでは済まされないだろう。そうなればラケットも持てなくなってしまう。

「寿三郎……やめてくれ……。」

男の骨と言えど、それなりの圧力を加えられては今にもぽっきりいきそうだ。大腿骨や二の腕の骨ならまだしも、指の細い骨では簡単に折られてしまうだろう。
それでも毛利は掴んだ手を離さない。それどころかどんどんパワーが増していく。

「は?あんたにやめさせる権限があると思ってるんすか?」

「っ……!」

パキッという乾いた破裂音が響いた。折れた訳ではなさそうだが、どこか損傷してしまったのだろう。鋭い痛みが感じられた。

「ある訳ないやないですか。俺に逆らったら、それこそ月光さん自身が意識を失うはめになりまっせ?」

突然、消え去るように力が抜けた。かと思いきや、しなやかな手指は固い拳を形成し、一瞬の内に越知の鳩尾を殴り付けた。

「かはっ……!」

衣服の上から打撃がめり込んだ。胃の辺りに衝撃が行き渡り、強烈な吐き気が込み上げてきた。

「ほら、丁度こないな風にね。」

悪どいような嬉しそうな声が聞こえた。
先程やっと窒息感から解放されたにも関わらず、再度息が詰まる感覚に襲われた。まるで内臓が気管支のあたりまでせりあがったような、そんな苦しさだ。胃がダメージを受けて、沢山の酸が分泌される。嘔吐とまではいかなかったが、大量に作られた唾液が口から滴った。

「月光さんは俺の言う通りにしとればええんすよ。そうすれば何も悪い事はせえへん。」

ぽたぽたと透明な液体がタイルの上に落ちる。虚ろな眼差しでそれを見ていると、粗雑に前髪を握られた。

「ね?」

「くっ……。」

生え際が痛い。髪を全部引きちぎられてしまいそうだ。それでも口答えはせず、痛みに耐え続ける。

「う……。」

口をついて出る言葉は、何の意味も持たないただの呻きだ。身も心も痛め付けられ、最早抵抗する意思などもう無い。半開きの、虚無感しかない瞳は、一体どこを映しているのだろうか。長い睫毛は微かに震え、涙を付着させている。首にじんわりと残ったうっ血の痕は生々しく、その上に伝う血痕は乾いて茶色く変色していた。頬骨の赤みも一層濃くなり、何日か後には痣になるだろうと予測できる。
その様は、文字通りの満身創痍だ。荒い呼吸音だけを発しながら、微動だに動かない。
毛利の顔が満面の笑みを作る。目の前の動く気力の無い彼に、えもいわれぬ恍惚感を感じたのだ。

「ふはっ、ええ顔っすねえ……。今日はこのくらいにしたりますわ。」

手が離れ、ぱさりと白い前髪が越知の目にかかった。暴力ばかりを奮っていた拳は解かれ、やんわりと頭を撫でた。ひたすら髪の毛を梳き、指に絡め、愛おしそうに見詰める。そうして顎に手を当てると上を向かせ、唇を重ねた。
出血はもう止まっているようだが、毛利の口内に微かに塩みと鉄臭さが香る。舌で歯をなぞり唾液を啜ると、名残惜しそうに口を離した。

「……今度何かあったら、半殺しの刑っすからね。」

ドスのきいた低い声色で忠告すると、ぽんと肩に手を置いた。何度か肩と二の腕を触ると、これ以上は我慢とでも言うようにぴたりと動きを止めた。
そうしてくるりと背を向けて足を進め、個室から一歩出る。

「ほな、また後で会いましょ。」

振り向かずに聞こえる程度の声量で呼び掛けるが、反応はない。少しの呼吸音が耳に入ってくる程度だ。
毛利はにっこりと笑った。反応がないほど憔悴しているのだろうと考えて、支配欲が満たされたのだ。越知の身は自分の掌にあるという、その事実に陶酔したのだ。
満足そうに上唇を一度ぺろりと舐めると、そのままトイレから出ていった。廊下を歩く足音が、次第に遠ざかって行く。



「…………。」

一人取り残された越知は、怠い手を動かして、ぴりぴりと沁みる口の傷の辺りに指の腹を当てた。微かに付着した赤い液体を眺め、無意識に指を擦り合わせた。
静かすぎる冷たい空間に、熱の籠ったため息が一つ響いた。ピントが合わないレンズのような視界で、天井を見上げる。灯りの点いていない蛍光灯が目に入った。

「寿三郎……。」

覚えず口が動く。何も考えずとも、言葉はつらつらと出てくるのだ。

「俺は、……お前に逆らおうと思った事など無い。」

長い腕で己の体を抱き締めた。これまでにつけられた傷痕に優しく触れるように、繊細な手つきでしっかりと。



越知は知っている。
暴力こそが彼の愛情表現なんだと。
痛みと恐怖で束縛する事で、自分の心を繋ぎ止めている事を。
他人からすれば、まるで恋人とは思えぬ関係だと思うだろう。拳を奮って相手を痛め付けるなど、普通の恋仲ではまず見られない。
世間一般的に恋人というのは、対等に愛し合って平等に接するカップルを指すのだろう。甘い愛で心を通わせ、互いを優しく愛でて、時には喧嘩もするのだろうが、総じて穏やかな幸福に包まれているものを普通とするのだろう。
それが暴力による支配云々となれば、それを使って愛しあっている二人を見る目はどうなるだろうか。
暴力を加える方は正義を名乗る者に制止され、反対に、痛みを受ける方は無用な心配をされて「そんな奴とは別れた方が身のためだ」と言われる。更に、周りの不要な態度がエスカレートすれば、最悪DVや虐待と間違われて通報されかねない。
実際に、越知と毛利にもそんな事はあった。越知の首元に見え隠れする青あざを知り合いに見られ、別れてしまえと説得されたのだ。無論越知は断ったが、彼は引くわけもなく……DVについて詳しく記された本を渡してきた事もあった。
毛利も毛利で、友人に通報されそうになった事があった。路地裏で越知を痛め付けていた所を見られ、二人で必死に弁解した記憶がある。
どちらにしても苦い思い出だ。双方の合意の上で暴力が成り立っていると言うのに、それを認めて貰えない世間に、二人は同意しかねていた。
越知の体に刻まれた傷は、全て毛利の手によるものだ。浅い切り傷も、酷い打撲の痕も、かすり傷だってそうだ。仮にマゾヒストなのかと問われれば、それは頷けるかもしれない。恋人に虐げられて愛を確認する自分は、恐らくそういった人種なのだろう。嫌だと思った事は無いし、そう考えようと思った事もない。
寧ろ愛を感じたくて、自分から近付く事もある。
今回もそうだ。わざと毛利の見える場所で、ごみがついていると嘘をついて種ヶ島の手を取ったのだ。毛利の心に嫉妬を与えるべく、取った行動だった。
暴行の途中でやめてくれと言ったのはただの建前だし、嫌がる振りも全部演技だ。

どちらにしろ、二人の愛は歪んでいるのだ。越知も毛利も、互いが良いようにねじ曲がった愛情表現を持っている。それは自分達が一番自覚していた。
他の人からは理解されない、鉛の様な重っ苦しい愛で、二人は繋がっている。


「寿三郎……愛している。この傷痕ごと……な。」

おもむろに左頬に触れ、越知はそっと微笑みを浮かべた。







Continue……





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