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物心ついた頃から、好きになる相手は同性だった。無性に何かを求めたくなる気持ちが、男に向いていた。胸の奥がちりちりと焦げるような、じれったい感覚。ぽーっと顔が熱くなって……ずっと見つめていたいのに、照れてしまって目を逸らす。そんな不思議な感情は男にしか感じず、異性にはこれっぽっちも抱かなかった。
それを誰にも打ち明けてはいなかった。周りは皆、男が男を愛する事を異常だと認識しているからだ。
だから常に自分の気持ちを隠してきた。これは周囲に知られてはならないものだと、幼いながら知っていた。
そのきっかけはテレビ。男が男を愛する人の事をおネエだとか、ホモだとかという言葉を使って笑い者にしていた場面を見てしまったのだ。派手なドレスを着飾った男の人が、周囲から揶揄されて笑いを取っている。それを見て自然と悲しみが心を埋め尽くした。
それだけではない。ドラマや映画は異性愛ばかり、結婚も異性間のみ、そして自分含め友達の両親も異性の二人となれば、……もう何も言わなくても分かるだろう。世間は同性愛を認めていない。それを彼は12の時に悟ってしまった。

愕然とした。

愛する人と結ばれる事が叶わないと知り、思考が止まった。
結婚はおろか、下手をすれば恋人と手を繋ぐ事も出来ない。相手と一つになれたとしても、隠し通さねばならない。
事実は非情だった。
深淵に突き落とされたような錯覚が何度も襲ってきた。あの時のショックと言ったら、それ以上のものはない。
それから彼は恋愛を諦めた。世の中では同性愛は異常。だから自分は異常なんだと認識して、毎日を送ってきた。その頃に好きな人が居なかったという訳でもなかったが、それを表に出す気などさらさら無かった。オープンにしたら避けられると、直感で分かっていた。
なるべく目立たないようにしてきた。同性とのコミュニケーションはあまり取らず、かといって異性と沢山話すという訳でもない。ただ、暗い性格を装って、読書にふけっていた。図鑑、伝記、小説、何でも読んだ。図書室から本を借り、ひたすらに文字とにらめっこをする。小学6年の時には、年間で最多数の本を借りた記録として、賞状を受け取る程に図書室へ通っていた。
本は様々な世界を映し出してくれる。魔法使いが唱える術も、空想の生き物も、空も風も星も大地も、全てが生き生きと輝いて自分の懐へ飛び込んでくる。そして己の心の中で、自分だけの光景がばっと広がる。その感覚がたまらなく好きだった。

























あの日も越知はこうして、本を読んでいた。
お昼を食べた後の休み時間。クラスの男子はサッカーボールを持って教室を飛び出し、女子は固まってトランプをする、小学生には似合わないまったりしたあの時間。越知はこの時を待っていた。
ふわっとあくびをして、机の中にしまっておいた書籍を取り出した。温かな日光を左半身に受け、栞の挟んであるページを開く。少し焼けた紙を指の腹で擦りながら、つらつらと並ぶ活字をじっと眺めた。

「あれ?越知、また本読んでんのか?」

読み始めてすぐ、同じクラスの男子が話しかけてきた。その声を耳にした瞬間、体がびくついた。
振り向くと、そこには黒髪の男子が立っていた。前髪の奥から、目を合わせないように顔を見やった。彼は端正な顔立ちをしていた。途端に顔がほんのり熱くなり、思わず視線を逸らしてしまう。意中の相手が自分に話しかけてきた動揺、とでも言うべきか。危うく声がひっくり返りそうになる。

「……何だ?用でもあるのか?」

赤くなる頬を隠すように、頭を少し振って顔面を髪で覆った。

「いや、お前いつも本読んでるよなーって思ってさ。」

彼は後頭部を掻きながらこちらへ寄ってきた。
とくんと一際大きく心臓が跳ねた。横を通った時、ふわりと良い香りが漂ってきて目が泳ぐ。動じないように気持ちを堪えるので精一杯だ。

「これ、何の本?」

机に広げてあった書物を手に取り、彼はページをめくった。

「え、あ……物語……。」

「物語?」

表紙を眺めながら彼は問いかける。

「うん……。一人の少年が、本当の自分を見つける旅に出る話。」

「へー、ちょっと読んでみてもいいか?」

「あ、……構わないけど。」

彼はぺらりと本をめくり、ぱらぱらと流し見をする。

「ふーん、……面白そうだね。」

所々挿し絵も眺めながら、にこりと微笑んだ。その幼げな可愛らしい笑みに、越知は心を鷲掴みされた気分になる。

「うん。舞台はある外国の自然に囲まれた街なんだが、そこで生まれた男の子が親から強い束縛を受けて育って、それで15で家を出てな。都会の方へ行って自分は何者かを追い求めるんだ。彼の葛藤やら周囲の反対やら、折り混ざっていて面白いぞ。」

少し得意になって、やや強めに喋る。普段は黙っている事が多いのに、自然と彼の前では饒舌になるらしい。

「葛藤?」

彼は黒に緑が混ざったような綺麗な目をぱちぱちさせた。どうやら言葉の意味が分からないらしい。

「葛藤。ざっくり言うと、自分の中で別々の思いが絡み合ってどちらを取るか迷う事だ。」

「そうなんだ。……お前物知りだなー。」

「そうでもない……。」

「いやいや、お前頭良いしさ。」

「え、あっ…………ふふ……。」

白い歯を見せて笑顔を作る彼を見て、自然と自分の口元もゆるむ。勉強面はやや劣るもスポーツで右に出るものは居ないと言われる彼。自分にとっては眩しい存在で、褒められると自然と嬉しさが込み上げた。
が、反面、何と返せば良いか分からない。褒められたのだからありがとうと言うべきだろうが素直に言えない。そんな恋する男子がそこに居た。

「……って、あれ?」

ふと、早めに紙をめくっていた指が、止まった。

「ん?どうした?」

越知は首を傾げながら紙面を覗いた。彼との距離が近くなり、あの良い香りが更に濃くなる。

「え、いやあ……。」

言葉を濁す彼はちらりと明後日の方向を一瞥して、もそもそと喋った。

「……これ、読んでて気持ち悪くなんねーの?」

「えっ……?」

彼が指をなぞらせている文章に目をやった。

「…………っ!!」

その瞬間、頭を金属バットで殴られたような衝撃を受けた。
そこに書いてあったのは、同性愛を肯定する文だった。主人公の彼が自分の気持ちに嘘をつけずに、ある年上の男性に思いをぶつけるといった展開がそこにはあった。
主人公が同性を好きになる事は冒頭の章で知っていたが、こうも堂々と書かれているとは知らなかった。その文が書かれているページは最後の方で、今自分が読んでいたのは丁度真ん中らへん。到底、そんな章が待ち受けているなんて知るよしもない。
極めつけはその部分の挿し絵。主人公が男の手を握り、頬に口付けを施していた。スケッチのような画風で、滑らかな線はよりリアルにその光景を映し出している。
ネタバレをされたショックなどない。いや寧ろそんなものを感じてる暇はない。そんな小さな悲しさよりも、他とは比べ物にならない衝撃が越知に襲いかかった。
それは、彼が放った言葉だった。

“気持ち悪くなんねーの?”

はっきりと、見えない剣で貫かれた感覚。冷たすぎる金属製の刃は、無情に己を抉った。
彼がそう言うという事は、自分をそう捉えているという事に繋がる。それがたまらない絶望感を沸かせた。
目の前に白いもやがちらつく。頭の中がごちゃごちゃに引っ掻き回されたようにこんがらがっていた。

「……………………いや、そんな場面があるなんて知らなかったから………………僕も、良くは思わない。」

辛うじて出た言葉は芯のないひょろひょろとしたものだった。ショックが凄まじすぎて、頭が真っ白だ。自分で自分を否定している事にすら気付かず、ぼうっと手のひらを見つめた。

「だよな?!ホモとかありえねーよ、気持ちわりい。ほんとにいたら引くわ。」

けらけら笑う彼の言葉は、金づちとなって越知の頭を殴った。追い討ちをかけるようにガツンガツンと、軽率な発言は少年を崖っぷちに追いやる。
何が何だかわからない。どろどろした感情しか沸かなかった。

「……すまない、ちょっとお腹が痛くなってきた。」

強すぎるストレスのせいだろうか。腹部に違和感を感じた。急激に冷や汗が分泌され、額にうっすら水気が浮かぶ。

「え?大丈夫か?保健室行く?」

彼の手が背中に触れた。
前までならその温もりは嬉しいものだったのに、今では恐怖に変わってしまっている。だから、手の温かみを感じて、思わず立ち上がってよけてしまった。
避けてしまったのが気付かれたらしい。彼は手を引っ込めて、疑問符の滲む瞳をこちらへ向けてきた。
俺は慌てて口を開いた。自分が傷つけられたからと言って、彼に同じ事をしてしまうのは御免だ。

「あ、……うん、一人で行けるから大丈夫だ……。」

椅子の背もたれに手をかけて、机の下にしまう。足のゴム部分と床がすれてキイイと音がなった。

「……そう?……お大事にしろよー?」

後ろから聞こえる心配そうな言葉に、精一杯の作り笑いを見せた。

「ありがとう……。」

なるべく平静を装って、戸に手をかけた。




教室を出た直後、涙がこぼれた。何かが弾けて壊れてしまったかのように、流れ出した雫は止まらない。
人気のない廊下を全力で走った。泣いている事がばれないように、前髪で顔を隠した。上履きがぱたぱたと音をたてる音が響く。とにかく早く教室から離れたくて、階段を一段飛ばしでかけ降りた。
息を切らして駆け込んだのは、昼下がりでのんびりとした雰囲気を持つ保健室だった。ぽかぽかと柔らかな日の光が窓から差し込み、静かな空間を保っている。越知はドアを乱暴に開け放つ音でその静寂を破った。
中では、髪を1つに結った女性の保健医が驚いた顔をしてこちらを見つめていた。一瞬ぱちくりと目を見開いていたが、白衣を翻しながら入り口に立つ越知の元へ駆け寄った。

「越知くん?!そんなに慌ててどうしたの?」

開けっぱなしの戸をそっと閉める。小学生ながら成人男性並みの身長を持つ越知に、彼女は抱きつくようにして寄り添った。震える白い手を優しく握って、ぽろぽろと涙をこぼす青い瞳をじっと覗き込む。

「……僕が…………」

両脇で固めていた拳を握り締める。黄色く変色して、食い込んだ爪で怪我をしてしまうのではと思う程だ。

「……僕が男の子を好きになるのは気持ち悪いのか?!」

叫び声がこだました。
彼女は弾かれた様に息を詰まらせると、絶句して目の色を変えた。

「何で?!何で僕は女の子を好きにならない?!何で同性ばっかりを好きになるんだ?!
周りからは気持ち悪いとしか言われない!バレてしまったら終わりだ!きっと、オカマだホモだおネエだと馬鹿にされるんだ!
それなら好きにならなければ良かった!でもそれはできないんだ、心は勝手に好きな人を見つけるんだ!気持ち悪いと言ったらありゃしない!僕なんか……僕なんかっ!」

「越知くん!」

「!!」

彼女の一際大きな声が文末を遮った。我に返った越知は、目の前の悲しそうな表情をした女教師の顔を見やる。……今にも、崩れそうで脆い。とても繊細な瞳だった。
心が受けてきた仕打ちは、とても酷いものだったらしい。知らぬ間にいかにダメージを受けていたかを物語る。自分でも驚くほどに深い傷がいくつもいくつもできていて、……しかし1つも癒えていなかったようだ。我慢が限界を迎え、抑え込んでいた感情がどっと溢れ出してしまった。
彼女は越知の拳を柔らかな手で覆った。手の甲をさすってやると、目一杯入っていた力が段々と抜けていく。

「…………辛かったね、辛かっただろうね。自分では打ち明けてなくても、周りから知らない間に傷つけられていたのね。今までよく頑張ってきたね……。」

そう言って彼女は背伸びをして、柔らかな銀髪に触れた。そっとそっとガラス細工を扱うように、穏やか。指先から伝わる穏和さと、本心から相手を慈しみ、労る想い。小柄な体格ながら、その中身は母親のようだった。
越知は、状況が理解できずに立ち尽くす。人にこんな事を言われたのは初めてだったのだ。
何も言えないでいる越知の頭を尚も撫で続けながら、彼女は目を伏せて口端をふわりと緩めた。

「でもね、自分で自分の事を差別するのは駄目よ。あなた以外にあなたらしさを表現できる人は居ないの。越知くんは世界に一人しかいないのよ。そのたった一人の自分を傷つけてはいけない。何故だか分かる?」

「……………………。」

越知は答えない。唇を固く結んだまま、眉間にシワを寄せている。

「自分の中にも、自分の居場所がなくなってしまうの。
……そんな事になってしまったらどうなると思う?他人から認められないどころか、自分ですら自分を人間として見られなくなってしまうのよ。そうなれば、あなたはどこにも存在できなくなって、苦しい毎日を過ごす事になる。
いや、更にはあなたを愛してくれている人全てが悲しむ事になる。……それだけは絶対駄目。」

説教ではない。優しく諭すような口調だ。
柔和な微笑みを浮かべた彼女の目元は微かに潤んでいる。
突発的な感情は随分と沈静してきたようだ。火元から鍋を離したように、少しずつだが怒りはおさまる。小刻みな震えが止まった後も、彼女はその手を握っていた。
涙もすっと引いてくる。廊下をひた走っていた時から不鮮明だった視界が明瞭になってきた。

「……先生は」

蚊の鳴くような、頼りない問いが口から出た。

「うん?」

「先生は、僕の事気持ち悪いとは言わないのか?」

越知にとっては覚悟のいる問いだった。
今まで誰からも非難され続けてきたが為に、それを聞くという事は恐怖と同等の意味を持つ。しかし、同時に希望でもあった。誰かは不快ではないと言ってくれる筈だという淡い希望。まあそんなものはことごとく打ち砕かれてきたのだが……。

「言わないわよ。男の子が男の子を好きになっても、女の子が女の子を好きになっても、あなたはあなただから。」

「……!」

今回ばかりは、違った。
本当の自分を認めてくれる人が、そこにいた。冗談かも知れないと、癖で疑ってしまうが……彼女のその真面目な表情の中に、そんな薄っぺらいものなど無かった。いや、ありはしないのだ。本心から言っているのだから。

「越知くん。人を愛する事って、とっても素晴らしい事なのよ。愛情っていうものはね、優しくて温かで、皆を幸せにできるの。そんな美しいものに、男だとか女だとか関係ない。」

心に一つ一つの言葉が刺さってくる。決して攻撃的ではない。傷の中に入って癒着し、段々と癒えていくような。……先程とは別の涙が出そうだった。
赤みの引かない目元を見て、彼女は安心したらしい。袖で顔を擦る彼の背中をぽんぽんとゆったり叩いてやる。

「越知くんは男の子が好きって言ったわね?世界は広いから、越知くんみたいに自分は男だけど男の子が好きって人は沢山居るわ。……世の中っていうものは広すぎるくらいなのよ?男で男が好きな人も居れば、女で女が好きな人、それから、性別関係なく愛する人もいたり、そもそも恋愛感情を持たない人も居る。……実は私もその一人なのだけれどね。」

「その一人?」

首をかしげると、先生はまたにこりと微笑む。

「うん。男の人を、そういう目線で見た事がなかった。だから皆の恋話にはついていけなかった。じゃあ女性ならどうなんだろうと思って、女性とお付き合いした事もある。でも、結局どちらも恋愛感情は持たなかった。」

「…………。」

初耳だった。
彼女に、恋愛の気がない素振りなど感じていなかった。確かに、左手の薬指に証は無かったが、恋人に値する人はいるのだろうと思っていた。自分は女性に性的な魅力を感じないけれど、美しい人だとは思っていたから、浮いた話の1つ2つあるものだとばかり思っていた。
でも、彼女にそんな気はないと今はっきり分かった。人は見かけによらないと世間ではよく言うが、これもその一例のようだ。

「けどね、越知くん。人を愛せないから不幸って訳じゃないのよ。その人にはその人なりの愛する心がある。友人でも肉親でも、恋心じゃなくても、他人を想う気持ちは変わらない。
私は越知くんを愛しているし、他の生徒も同様に愛しているわ。慈愛と言うべきかしらね。皆、大切な生徒だもの。」

銀の前髪が彼女の指によって分けられ、視界がばっと明るくなる。

「越知くん、あなたはとっても素晴らしい人。もっと自分に素直になっても良いのよ?皆に酷い事を言われても、私はあなたの味方だから。」

「先生……。」

鮮明に、映った彼女の顔。自分を素晴らしいと言ってくれた、その儚げな表情が目に焼き付いて離れない。ぼやけた映像ではなく、パキッと明度が分かれたはっきりした1枚の絵のように、彼女の表情が事細かに刻まれている。それほどまでに、印象に残った。
決して高いとは言えない体温が、顔を包んだ。彼女の掌が、両頬にやんわりと触れていたのだ。

「話してくれてありがとうね、越知くん。辛いなら今日はもう授業は出なくていいから、ゆっくり休んでいきなさい。」

力が抜けてしまったのか、越知はその場にへたり込んでしまった。まるで膝から下がなくなってしまったかのような勢いで、ぺたんと内股に座った。いきなり目線が外れた為に彼女はびっくりしていたが、再び瞳を向かわせるべく、中腰になる。

「……ありがとうございます、先生…………。」

ぽたりぽたりと、雫が落ちる。1つの感情が強く感じられた時ほど、涙というものは止まらないらしい。現に今の状況がそれを証明していた。
嬉しさ。
ただそれだけ。胸の奥から滲むようにして、嬉しさが自分を満たす。それに伴い、自然と感情は表に出る。

昼休憩終了の金が鳴った。
まったりとスローテンポの放送は、嗚咽ばかりが響く室内に覆い被さる。
少年の耳に、時の刻みなどは入って来ない。咽び泣く不安定な声色ばかりが聞こえる。小さな水溜まりになってしまうのではないかというくらいにぼろぼろと号泣しながら、異常と思い込んでいた自分を認めてもらった喜びを噛み締める。
彼女は越知が落ち着くまで、震える背中をさすってやっていた。普段あまり表情を変える事がない越知がここまで慟哭しているとなると、差別されてきた事が余程辛かったのだと身に沁みて分かる。……いや、差別をされて平気な人間などいない。それは誰よりも彼女が知っている。

「……越知くん、存分に泣きなさい。あなたを苦しめた偏見を自分から無くしなさい。心に傷は残ってるかもしれないけれど、それを癒してあげられる人は必ず居るわ。それを忘れないで。」

白衣の裾を弱々しく掴みながら、ぶんぶんと首を縦に振った。柔らかく長い前髪は、湿って目元に張り付いている。鼻をすすりながら床に溜まった涙を袖で拭いた。
ゆったりとした午後の時間は、亀が歩くように少しずつ進む。それは限られたものではあったが、同時にそれと引き換えてでも重要なものを手に入れた気がした。


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