【夜道と涙】
秋啓(アキヒロ)は暗い夜道を歩いていた。冬は嫌いだ。寒さで指が凍えてしまう。
学校から帰る途中に、僕は嗚咽を抑えるので精一杯だった。手袋の中の手のひらを、ぎゅっと握ると氷を掴んでいるような心地がして、自分の冷え性を嫌悪した。
僕が泣いているのは、別に虐められただとか、そんなことじゃない。
最近の成績が芳しくない。他人にとってはそれだけのこと。でも僕にとっては重大事なのだ。元々中学時代から数学は大の苦手科目だった。けれどとうとう一桁の点数をとってしまった。数学ばっかり勉強しているにもかかわらず。
それだけならまだしも、他の得意教科さえ下がってしまったのだから救いようがない。
せめて、この涙目と涙声を誰にも気付かれないようにしなくては。男がこんなことで泣くなんて、みっともない。絶対に母さんとあの子にはバレたくないな。
次の電車は、特別車らしい。こういうときほど重なるものだ。苛々しながら目を閉じた。
片桐。勉強怠ってないか。
苦手な教師の言葉が脳裏に浮かび、また腹がたつ。奴に、何が分かるんだ。教師になるような奴は、専門科目で挫折したようなことはないだろう。どれだけ頑張ったところで出来ない奴もいるのだということを奴は、知りこそすれ一生かかっても理解することはないだろう。そして逆に僕はそういう人間を、理解する由もないのだ。そう思うと笑えた。
高校生にもなるとさすがに知ってしまう。天才と呼ばれるのは家族だって大概エリートで綺麗事の蓋を外せば、つまりは人間は生まれなのだということを。そして自分が凡庸な側の存在である、ということを。
ゆらゆら揺れる薄い膜を目から溢さないように歩く。自分は何に怒っている、泣いている。
不甲斐ない自分が悔しくて泣いている?報われない自分が可哀想で泣いている?
前者は進歩する人間だ。後者は大概堕落する。
そして自問自答の答えは、誰よりも僕が分かっていた。
「ただいま」
「秋啓、おかえり。今日テスト返ってきたんでしょ?どうだった…」
帰ってきたら真っ先に言われるだろうと予想していた言葉。追試も補充もやらされた後でそんな問いに答えるような気力はなくて。
無視を通して階段を上がった。
バタバタとけたたましい音がして、その音で自分が制服のまま寝ていたことに気付く。
今年で小学六年生になる従妹の千夏が、バッタンと盛大に扉を開けた。
「秋兄テスト酷かったの?」
開口一番がそれか。げんなりしている僕に気付かずデリカシーのない質問を延々と繰り広げる従妹に、初めてなほど強い嫌気がさした。
「黙れよ」
未だ嘗て無いほど、ぞっとする低さの声が聞こえてすぐに後悔した。制服姿のままもう一度鞄を拾い、そのまま階段を降りる。
「秋啓!?何処に行くの!」
「コンビニ」
手袋をして来なかったことを後悔しながら、また暗い夜道を歩く。腹が立ったって言ったって、アイツはまだ小学生のガキだろ。何やってるんだ。僕は。
近所のコンビニに着いてしばらく雑誌の立ち読みをした後、夕飯を食べていないことに気付き、温かいコーヒーとパンを買った。
味気ない。素直にそう思う。
なんで僕はあんなに千夏に苛々したんだろう。それも考えるまでもないことだ。高校になってから落ちこぼれた僕にとっては、千夏のあのあっけらかんとした性格が気にくわないのだ。小6で大丈夫かと思うくらい勉強していないそして出来ない彼女は、それを欠片も悔しいとは思っていないから。コンプレックスの塊の僕とは違って明るいし、バカだけど。
くだらない。ただの嫉妬だ。八つ当たりだ。
「はー、だっさ。」
千夏の好きなパイの実と、自分の好きなメントスを買って、いい加減帰る覚悟を決めた。
部屋に入ると千夏がベッドの上で正座していた。
「にい…ごめんなさい」
「別に怒ってないよ。怒ったところでお前はお前だし僕は僕だし…、」
「にい…あたしのこと嫌いになった…?」
「なんでそうなるんだよ。ただもう少し千夏は僕のことも考えて話して欲しいけどね。はいコレ。」
「え…あ、パイの実」
ありがとうと言ってその場で食べ始める千夏に、ベッドの上で食べるなよと言いたかったが、今回は大目にみようと諦めた。メントスのグレープを隣で食べてると、千夏の手が伸びた。
「秋兄いる?」
「別に千夏が食べればいいのに」
「あたしが秋兄のメントスも食べたいんだもん」
「はいはい、交換な。」
すぐに元の調子に戻ってくれたことに呆れつつ、こっそりほっとした僕だった。
「秋兄も失敗することあるんだね」
「そりゃそうだよ。」
「秋兄いっつも私の学力バカにしてるから、ちょっとほっとしちゃった」
「え」
「完璧な従兄を持つと下は苦労するのだよ秋啓サン」
「デリカシーのない従妹を持つと上は苦労するのだよ千夏サン」
「はーい…、以後気ヲツケマス…。」
千夏!いつまで家にお邪魔してるの!早く降りてきなさい!
下からおばさんの声がして千夏は慌てて今帰りますと、すっ飛んでいく。
振り返りざまに「秋兄またね!」と笑いながら。
完