【波を聞く少女A】
人混みを掻き分けてせっかく街の方にまで来たのに、アルバムCDが売り切れていてただの無駄足だったなんて。田舎だから用意されている数が少ないためによく起こることなのだが、なんて今日はついていないんだろうか。
中学の学ランのままとぼとぼ歩いているとき、ふっと目の前に見えた光景に僕は驚いた。
遥か前方に、コンクリート壁にもたれ掛かっている女の人がいる。見間違えようもない。葵姉さんだ。
「もう逢うのはやめにする」、彼女の言葉が脳裏をよぎったけれど、今はそんな場合ではない。
目の前にいる葵姉さんは、ひどく青白い顔をしていて今にも倒れてしまいそうだ。
「葵姉さん…!大丈夫ですか…?今、救急車を…ッ!」
こんなときに携帯、というものを持っていないことをひどくうらんだ。
僕が話しかけると、葵姉さんはとても驚いた顔をして。状況を把握しようとしてだろうか、目を大きく見開いている。
「…貴方は…。救急車は大丈夫、…いつも、の事だから」
だけど、顏には汗が滲んでいるしとても大丈夫には見えない。そう伝えると、彼女は息も絶え絶えに人通りの少ない所に行きたいんだと要望を述べた。弟、夜朔さんに連絡を入れたいとも。
そこで僕らは街から住宅地に抜けて、小さな公園のベンチに葵姉さんを横に寝かせた。以前遊具の老朽化が問題になったために、公園にはベンチと辛うじてブランコが有るのみだ。
話すのも苦しそうな葵姉さんの代わりに携帯を借りた僕は、夜朔さんに電話をかける。
3コール目で電話が繋がった。
《姉さん?どうした────》
「葵姉さんが体調を崩して、すごく苦しそうなんだ…どうすればいいッ?」
《っ…。マジか、場所は?》
一瞬驚いたようだったが、彼の声はすぐ冷静なものになる。
「◯◯地区の、△公園です」
《…あそこか、分かった。今行くから待ってろ。》
待っているその間、僕はただおろおろと歩き回ることだけしか、できなかった。
夜朔さんが来ると彼は慣れた手付きで葵姉さんを背負った。
「俺らの家、近いんだよ。お前も来い」
最初、僕は葵姉さんに迷惑をかけたくなくて、夜朔さんに任せて帰るしかないと思っていたはずだ。しかし夜朔さん来いと言われてしまうと、まるでそれが当然のことであるようについていく僕がいて、変わり身の速さに思わず自嘲してしまう。
葵姉さんと夜朔さんの家は、住宅地にこぢんまりと建っていた。玄関の扉を開けて客間に通された僕は、ぎこちなく椅子に座る。葵姉さんの部屋へ運んだ夜朔さんが目の前に座ったために、僕はさっき以上に萎縮した。
「この際だから、聞こうと思ってたんだ」
「…」
「お前が姉さんに拘わるのは、興味本位か?」
ただでさえ年上の男なのに、夜朔さんの眼光も威圧もあまりに強かったけれど、せめて僕の葵姉さんへの気持ちだけは認めて欲しくて。震える足をバレないように押さえつつ、僕は夜朔さんの顔をじっと見る。
「葵姉さんが好きだったからです。」
「…」
「そりゃあ年はすごく離れてて、頼りないのも分かって…」
必死の弁論は、空回りする。元々中学生のボキャブラリーとやらなんて、たかが知れている。それを知ってか知らずか、夜朔さんは遮った。
「いや、いい。でもなんで姉さんを街に連れ出したりしたんだ。姉さんは街が苦手だと言わなかったのか?」
「…?偶然苦しそうにしている葵姉さんを見つけたんだけど…」
「ちっと待った、話が掴めない。一から説明しやがれ」
なんて羞恥だろうと思いながらも、僕は最初から漏れなくすべて説明した。初めて海で出逢ったことも、一緒に話した内容も、告白して結局フラれて、寂しさを埋めようと街に行って葵姉さんを保護したことも。
「ああ…、そういうことか、姉さん」
「お前に選択肢をやる」
「選択肢…?」
夜朔さんは、今までにないほど眉間にシワを寄せて僕に詰問する。
「葵姉さんのことを知るか否か。よく考えて選べ」
「…僕なんかが知っていいことなんですか…?」
葵姉さんは、最後まで何も話してくれなかった。まして人づてで聞いてしまってもよいものとは、僕は間違っても思えない。
「話した事は口外するな。葵姉さんにも、だ。知ったあと覚悟出来ないようならば、もう二度と会っちゃいけねえ」
これ以上姉さんが傷つく必要なんてないんだ。夜朔さんは溢した。
「本当に聞いて良いなら、聞く覚悟くらいは出来てます。」
葵姉さんに迷惑がかからないならば。何も知らないでいるより、僕は進みたい。
夜朔さんを真っ直ぐ見上げると、彼は大きく宙を仰ぐ。一つ大きく深呼吸をして、彼はぼそぼそと語りだした。
「姉さんは波の音が聞こえる人なんだ」
元々俺ら姉弟のご先祖は、霊的な力を持つ、平安時代に最も興隆した呪術師の系譜の一つだ。
科学が進歩するに従い、“そういった不可思議で説明の出来ぬものは迷信だ”という迷信が広がり、今じゃ宗教を気休めと考えるやつの方が多いだろう。
そう思い込むようになっているうちに俺たち日本人はいつの間にか、本当にそういうものが視える人まで淘汰されていくようになった。
姉さんと俺は、一見そんなものとは無縁な普通の家庭に生まれついた。
姉さんはどこか引っ込み思案な節があったが昔から心優しく気配りのできる女の子だった。俺は腕白盛りのやんちゃ坊主。な、どこにでもいそうな姉弟だろ。
彼女が小6、俺が小2のときにそれは起きた。
小学校で、姉さんは突然頭を押さえて発狂したんだ。
大きな叫び声を上げて、先生に押さえられても振り払って。どうにかその場が収まり、市民病院に搬送されたが全く原因が掴めずにたらい回し…果ては精神科の病院まで奨められた。
姉が精神病、俺はそれに納得が行かなくて学校をサボっては家の倉庫やコンピュータから色々な情報を得ようとしたんだ。
事実を知って愕然としたよ。
倉庫の奥底に眠っていた書物。俺は幼すぎて読むことが出来なかったが、母が大学の古典の講師でな。母さんはそれを読んで、それを持って行った俺の頭を抱き、顛末を話しながら気を失った。俺は母と共に倒れて、一人泣いた。
波の音と言うものは、心のさざめきだとでも思ってくれればいい。つまりは人の心が聞こえる、そういうことだ。
確かにそういう予兆はあったんだ。さっき姉は気が効く人だったと言ったが、時折何も言わなくとも食事中に塩を寄越したり、さらには俺が悶々と解けない問題について考えていたら、「何か教えて欲しいものはないか」と訊ねてきたり。
その時は気にも止めなかったけれど、あまりにも不自然なことも多かった。
そしてその小6のある日、能力がめざましく発達した。クラスメイト35人、先生方、すべての波音を聞き取る恐怖は、凄まじいものだっただろう。
姉さんの一番の不幸は、能力が不完全だったことだ。本来の力が書物にある通りのものならば、聞き取るものを取捨選択できるはずだった。けれども、隔世遺伝でぽこっと生まれちまった不完全な能力者は、頭の中に流れてくる波に飲まれるしかない。
原因は精神病よりも遥かに厄介だった。姉は間違いなく正気であることが家族の中で証明されたけれど、突き止めた所でどうしようもなかったというものも事実。
しかも学校で発狂してしまった姉さんは、気付くと“キチガイ”の烙印を捺されていた。
しばらく保健室登校を繰り返していた姉さんだったけれど、その間も波音は止まない。しかも姉さんへの侮蔑や嘲笑、それらすべての負の感情が姉さんの頭に響き、翻弄した。
姉さんは笑えなくなった。そして、気付くといつもぽろぽろ涙を溢すようになった。
同時期、両親にあらぬ疑いがかかる。“虐待”、そんなわけもねえのに。
両親もそれぞれひどく患い、家はいつ心中が起きるかというほど荒れた。…俺もおかげで強い他者不信に陥ったしな。
父さんは銀行会社を辞め、家族引っくるめて、遠く離れて身内もいないこの場所へ夜逃げした。
この地へ着いた両親は、安月給の仕事に就職し直し、姉さんは内職や小物作りをするようになり、俺は家族に負担をかけないために私立の最高特待生として高大一貫校に通っている。それでも貯金は減っていくばかりだから、早いところ大学を卒業して割のいい会社に就職するっつーのが、俺の夢であり使命なんだ。
一番苦しいときに役立たずだった俺の、せめてもの罪滅ぼし。
これが、俺らの話だ。
これ以上ないってほど、家族は苦しんで来たんだ。実は俺も、力の麟片はあるんだよ。俺の場合はそれが姉さん限定で、姉さんはそれを申し訳なく思っているようだけども。
そんなことないのにな、一番辛いのは姉さんなのに。第一、家族なんだから。
「お前は、覚悟があるのか?そういう能力を持った人間と寄り添って生きていく、覚悟が。」
ぼろぼろ泣いている僕に、夜朔さんが苦笑いした。夜朔さんの目も酷く赤くなっていて、目尻には光を反射する涙が浮かんでいた。
「僕、葵姉さんに心の底から笑って欲しいって…、ずっとそう思ってるんです。迷惑になる位なら身を引くべきだと思ったけれど、それでも僕は。葵姉さんの隣に居たい」
夜朔さんは荒っぽく顔を拭った。
「お前なら、他の奴らよりは信用できる気がするよ」
僕は夜朔さんに許されて、葵姉さんの部屋に入った。白とグリーンを基調とした室内は、葵姉さんらしい爽やかな雰囲気を与えている。
葵姉さんの寝ているベッドの側に行き、僕は姉さんの手を取った。
姉さんはそれに気付いて、顏を上げた。起こさないようそっと握ったんだけどな。ごめんなさい。
「さっきは、ありがとう。ごめんなさいね」
「いえ、身体は大丈夫ですか。」
「大丈夫、貧血だったのよ」
当たり障りの無い返答をする彼女の手を握って、葵姉さんの顔を見る。
どうせ伝わってしまうなら、この想いが姉さんに届けばいい。
葵姉さんはハッとした表情で、僕をまじまじと見詰めた。
「そう…、あの子が言っちゃったのね?」
「教えてもらいました。すみません、もう逢わないって…言われていたのに」
「黙ったまま逃げようとした、私に否があるもの。どうか気に病まないで。」
姉さんは、僕に聞いた。
「貴方は、恐ろしくないの?私は…貴方の考えていることがすべて分かってしまうのに。どうして?それでも…私なんかに構うなんて」
葵姉さんの自嘲的な笑みに、また引っ込んだはずの涙が溢れ落ちる。
「葵姉さんはきっとつらい思いをしてきたんだと思うけど、どうか僕の好きな人を卑下しないでください。僕は葵姉さんといるときが、一番しあわせなんです。僕の願いは、葵姉さんの傍に居たい。」
いつかはその対象が替わると思うわ、貴方はまだまだ若いんだもの。そう葵姉さんは言った。まずは信じてもらわなきゃいけない訳だ。
「仕方のない子ねぇ、…夜朔。あんたも隠れてないで出てきなさい」
「うっ…、わりい気になって」
夜朔さんは少し気まずそうにしていたけれど、捲し立てるように言った。
「ぜってえに葵姉さんに手を出すんじゃないぞ!出来婚とか認めないからな!」
「いいもん、ちゃんと働いて、素敵なプロポーズするんだから!だから葵姉さん!僕が大人になるまで待っててくださいね!」
「え、ちょっと待てよ?姉さんの旦那になるんなら、このちんちくりんが…義兄さん?…だと…」
「えっ夜朔さんが義弟に…なっちゃうの??」
「『うわぁ…』」
「もう!二人とも、気が早すぎるにも程があるわ。第一、私の気持ちはどこへ行ったのよ?」
「嘘つけ、俺は分かってるんだぞ!葵姉さんはこのちんちくりんが…」
「夜朔ッ!!まったくもう。」
そうやって浮かんだ涙が光る澄んだ瞳で話す葵姉さんの笑顔は、今まで見てきたどの葵姉さんよりも綺麗だった。