【波を聞く少女】

何処にでもありそうな、小さな港町に僕は住んでいる。潮風がどこでも強くて、雨の日は特に鼻がつんっとする。耳の奥底に染み付いた波音は、喩え部屋の中だってザアザア鳴る。


僕はただの中学生だ。1つ、片想いの相手が変わっているということを除くならば。

僕の両親は夏の間だけ海の家を経営していて、僕はよくそこで手伝いをする。けれど我が家は海に近い立地なので、僕は冬でも落ち込んでいる時には海へ行った。

最初に僕が彼女に出逢ったのは、真冬の海だった。
彼女は歳が僕より遥かに年上であり、きっと既に成人済みなのだろうと思った。
彼女は名を、葵姉さんと言った。


葵姉さんとその弟夜朔さんは、近所で少し有名だ。綺麗な顔立ちをしているからでもあるのだが、何よりも纏う空気が不思議だからだ。

葵姉さんは体が弱く学校という学校には通えずに大人になり、家でよく小物を作っては、雑貨店に直接送っているらしい。弟の夜朔さんは高校生だが、地元有名私立高校の特待生だという。ただ訳有りなのだろうと、僕はそのことを聞いたときは何も感じなかった。

初めて冬の海で逢ったとき、彼女はテトラポッドの上に腰かけて、昼の海を眺めていた。風に靡く黒髪と、白すぎる横顔と、弱い日差しの冬の海。きっと、一目惚れだったと思う。


僕は少し後ろに腰かけて、同じように海を眺めた。冬の海は見るからに冷たそうだし、実際コートなしで潮風に当たるのはつらい。目の前で大した防寒もしないまま座っている彼女が体を冷やさないか、僕は自分の悩みそっちのけで心配していた。


不意に彼女が振り返った。一瞬、黙ったまま後ろにいた僕に吃驚したようだけれど、彼女は小さく笑って立ち上がる。


「こんにちは。貴方はよくここにいるのね」

「えっ?」
どうして彼女がそれを知っているんだろう。

「貴方の特等席を奪ってしまってごめんなさいね」

「いえ!そんなことないですッ!いつだっていらっしゃって下さってもいいんっすよ。僕だけの場所じゃ無いですし。…僕こそいつも居りましてすみません…、」

どぎまぎして変な敬語になってしまう。嗚呼、僕の阿呆。

クスクスと可愛い笑い声を立てた柔らかい笑顔に、またどぎまぎする僕がいる。

「君は、…海が好き?」

「はい。こうしていると、落ち着くんです。」


「そうね、私もこうしているのが好きだな。波音が、私から聞こえなくてもいいものを遠ざけてくれるもの」

「…??」
どういうことだろう。阿呆の僕にはよく分からない。
「あっ、」小さな声をあげて、彼女が苦笑いした。

「ごめんなさい、今のは何の意味もない言葉なの。忘れてくれる?」

久々に家族以外の人と話して、舞い上がっているんだわ。彼女は呟く。

「……はい。あの、名前を聞いても…?」


彼女が躊躇して押し黙っている間が、永遠のようにも刹那のようにも感じた。


「私は、…葵。」


「…、葵姉さん。」

びっくりしたように彼女は僕を見て、また綻んだ。

「その名をあの子以外から聞くことになるなんて思わなかったわ」






寄せては返す波の音。吹き渡る冷たい潮風。テトラポッドの上の僕と彼女。



その光景は、後から僕の記憶が捏造したものかもしれないけれど、僕の一番美しい景色として脳内に今も焼き付いている。



「また、ここで」

僕は言うや否や足早に立ち去って行った。
否定の言葉を、聞きたくなくて。


それから彼女と僕は、時間が許す限りは海にいた。ある日は僕がテスト期間だったり、彼女の作品の納入日だったりして、中々出会えない日も多かったけれど。

僕も彼女も、互いに約束を取り付けることはしなかった。葵姉さんは近づきすぎたら逃げてしまう小動物のような女の人で、僕は彼女を怖がらせてまで近づくような勇気を持ち合わせていなかったからだ。





海に続く道には桜並木がある。
冬の間殺風景だった焦げ茶の通りは、いつの間にか薄桃色の花びらが舞うようになっていた。



「こんにちは、葵姉さん。」

「こんにちは」

「あの、…これ」

僕がおずおずと彼女に桜の小枝を差し出すと、彼女はふふふっと笑った。僕はまるで子犬か子狐のようであると。傍目にも僕は葵姉さんに尻尾を振っているように見えるんだろうか。それはそれで、切ない気がした。


彼女は慣れた手付きで桜の小枝を挿した。

「似合うかしら」

冗談で言っていること位分かっていたが、本当に綺麗だったから僕は言った。

「素敵です!」

可愛いとはとても言えなかった。相手は10歳くらい年上の女の子なんだから。

「ふふ、君は優しいね。ありがとう」


僕はお世辞なんて言えない性格だ。彼女はいつも、僕の言うことを社交辞令だと取り合ってはくれなかったけれど。

いつ、信じてくれるんだろう。

それから数日後、僕はお気に入りのCDを持っていこうと思って、ラジカセをガチャガチャ準備していた。今ではなんとかマンだとか簡単に音楽を聞ける機器があると聞いたけど、僕にはもうしばらく縁のないものだろう。


ラジカセを持って、あのテトラポッドの先を目指す。

「葵姉さん、こんにちはッ!」

「こんにちは」



いつも通りの会話に、この時初めて部外者が乱入した。

「おい、葵姉さん。」

吃驚して僕は、葵姉さんとそいつを交互に見た。
美人な葵姉さんに白い肌、癖のない髪、顔立ちが似ているその男も、やっぱりとても綺麗な顔だ。ああ、この人が夜朔さんか。ここまで似ていてそら似の訳がない。

葵姉さんは目を白黒させて、自分の弟を見ている。

「…、夜朔がどうしてここに?」

「つけてきたんだよ。誰と逢瀬してるのかと思ったら、なんだ。ただのちんちくりんじゃないか」

「ちんちくりんじゃないぞ!第一これから僕は成長期なんだ」

なんて失礼なやつなんだろう。お姉さんとは大違いだ。

「それをちんちくりんっつーんだ、ど阿呆。」

「んだとッ!?」

「第一こいつ、絶対俺より年下だろ。悪くて小坊、よくて中坊。」

「中学生だよ、わりーか!」

「俺、さすがに姉さんにショタ趣味があるとは知らなかったんだけど」

僕の奮闘は、虚しいことに華麗にスルーされてしまった。

「聞いてないだろっ」

「こらこら、喧嘩しないの。」


葵姉さんの仲裁でその場は収まったけれど、僕のむかむかは増すばかりだ。

「姉さん、帰るぞ」

「ごめんなさいね。今日は納入日なの」




弟に手を引かれて海を後にする彼女を見るのは、なんだかとても切なかった。


テトラポッドには僕と葵姉さんと、何人かの釣り人しかいない。海水浴にはまだ当分先だから、暫くは静かな景色が楽しめることだろう。

「あのあと、どうなったんですか?」

お詫びにと貰った駄菓子を頬張りながら、僕は葵姉さんに聞く。

「別に普通よ。…あの子、私に対して過保護なのよ。吃驚したでしょう?」

弟の顔を思い出すだけで腹が立つけど、葵姉さんにグチるわけにはいくまい。

「仲がいいんだなって思いました、ちょっとむかつくやつだったけど。僕は一人っ子だから、そういうのってうらやましいです」


「ふふ、ありがとう」

にこにこ笑っているのに影のある表情は、今日の曇り空のようだ。

笑ってほしい。心からの笑顔が見たい。いつもいつも、僕は彼女といるたびそう思う。
いつの間にか僕のその言葉は、「今日は寒いですね」といった無意識さでぽろりとこぼれ落ちていた。

「好きです。僕は、葵姉さんのことが」


彼女は一瞬鉛色の空を仰ぎ見て、僕を見た。

「ごめんなさい、波の音で聞こえなかったわ。」


雨が降りそうね、今日のところは帰りましょ。




聞こえなかった訳がない。隣同士で、今まで会話をしてきて互いが聞き直したなんてことはなかった。

フラれたのか、僕は。当然だな、一回りくらい年が離れているんだ、僕は子供なんだ。

僕も俯いた。ぽつんと鼻の頭に雨が当たる。

最初の告白は、大好きなはずの海にかき消されてしまった。

それから僕は、幾度となく告白を試みた。ちゃんと断ってくれなくちゃ、諦めるものも諦められない。どうせ今さら引けないと覚悟したら、僕の精神はなかなかに強いようだ。告白をするようになってから、数日間が過ぎた。


「葵姉さん…せめて、断っていただけませんか?」

「…」

「……、困らせてしまってごめんなさい。好きにはなれないって、一言を言ってくれるだけでいいんです」

「…貴方は、もっと別の素敵な子が現れるわ」

「………」

「私みたいなものを好きになっちゃダメよ」

「…、」

「逢うのはこれで終わりにしましょう」


「…。…今まで、ありがとうございました。」






僕は足早に次のテトラポッドに乗り移る。頬を伝うものの存在を、僕は無視する。

すべてが終わった、そんな気分だった。やっぱり、お気に入りの場所を失うだけの行動だった。後悔はしている。でもきっと、遅かれ早かれこうなっていたのだ。


春にしてはひどく寒い空からは、あの初めて逢った日の空のように薄い日差しが降り注いでいた。



それから数日は、予想通り彼が来ることはなかった。きっともう彼の中で私が過去にならない限り、彼は海には来ない。
当たり前だろう。もう逢わない、そう言ったのは紛れもなく私なのに。


それでも私は、あの子が急ぎすぎて危うくテトラポッドから落ちそうになりながら駆け寄ってくる錯覚を、何日も何日も、人気のない海辺で1人見ているのだ。



彼には私より他の子を好きになってあげてほしい。それは偽りのない私の本当の気持ちだ。

彼の最初の告白は私にとって予想だにしないものだったけれど、それでもきっと私は笑って頷いていたはずだ。そう、私があの力さえ持っていなければ。
彼が気にしていたほど、私は彼を子供として見ていなかった。「あの子にとって好きな娘が、こんな年増でいいの?」と思わなかった訳ではなかったけれど。


私は、普段立ち上がって海を見渡した。太陽の光を乱反射しているのに、何処か海はくすんで見えた。

それから私は普段行かない街の方へと、足を向けた。
僕はあれから、ずっと断りっぱなしだった友人たちの遊びの誘いを全て受けて、スケジュールと寂しさの埋め合わせをしていた。こういうときに1人でいるのは辛いものがある。大勢でわいわいやっていれば少しは気が紛れる、そんな気がするから。

葵姉さんとお別れをしてから5日目になる今日、とうとう予定が空いてしまった。……今日はどうしようか。考えて好きなバンドの新アルバムでも買おうかと思い立ち、街の方へ行くことにした。

そういえば、一度ラジカセを持って行ってまで葵姉さんに薦めたいと思っていたあのバンドだ。無意識のうちにそう考えていたので、僕はそれを頭の隅っこに追いやった。

忘れようと決めたのに。僕の頭は「明日は葵姉さんにこんなことを話そう」と考えている、だなんておめでたいにも程がある。

突然日が翳った。今の僕には、空を見上げる気力はない。


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