姉弟の空



 穏やかな陽射しが回廊の小窓から差し込んでいた。日は少し傾いているものの、まだ日没までには時間がある。折角なのだからジャキを誘って散歩でも――――そう考え、おやすみの間へ足を向けた。ジャキの教養の授業が終わる時間だったからだ。
「ジャキ。もう授業は終わったかしら……っと、あら?」
 声を掛けつつ扉を開けるが、そこに居るはずの弟の姿がない。時間を間違えてしまったのだろうか、と部屋の掛け時計を確認するがその針の位置は今朝ジャキから聞いた時刻と相違なかった。
 ぐるりと辺りを見渡してから、居ないものは仕方がないと諦め、踵を返して歩き出す。さて、予定が狂ってしまった。仕方がないからカジャールに読書をしに行こう、と決めた矢先に、
「っと、これはサラ様」
 丁度続き間を抜けたところでハッシュとすれ違った。こちらを見るや否や、どことなく罰が悪そうに茶色の帽子をかぶりなおし、軽く会釈する。
「こんにちは。あ、それはそうと……ジャキが何処にいったのかご存知ないですか? ついさっきまで部屋にいたはずなのに、見当たらなくて」
「……」
 しばらく黙り込んでいたハッシュは、小さく欠伸をしてから、
「……どうやら儂の授業が退屈でした様で……。ちょっと目を離した合間に何処かへ出かけてしまったようですな……」
 サラはまぁ、と声を挙げた。ジャキはそういうことをあまりしない子だったから、少し意外だ。
「それは申し訳ありません。ジャキに後でもうそんなことをしない様言っておきますので……どうか母様には内緒にしておいてあげてくださいね」
 王である父様が患ってからというもの、母様は最近少し疲れているように見えた。自分やジャキのことであんまり心配を掛けたくない。
「いやいやそんな……儂の方こそそれが有り難いですので」
「え?」
 ちょっと首を傾げると、ハッシュはおもむろに大きな咳を一つして、困ったように呟いた。
「いやなんでも。さて……どうしたものですかの……」
「それなら私が探しに行きます。どちらにせよ出かけようと思っていたので」
「それはありがたい。年寄りに子供の相手はちと疲れる……お頼みしました」
 ハッシュは帽子の下から細い目がのぞかせる。心なしか声のトーンも高くなったようだ。
「それでは儂はこれで……」
 ハッシュは足取りも軽やかに宮殿を出て行く。疲れているのではなかったのだろうか、と小さな疑念が浮かんだのと同時に、近くを通り過ぎた女性が苦笑しながら声を掛けてきた。サラの目線に合うように少し膝をかがめてくれる。
「ハッシュ様ならエンハーサに行かれるのだと思いますわ。なんでも眠りによって真理を探究するのだとか。……ふふ、その影響かは分かりませんが最近はいつも眠たそうにしていらっしゃいます。先ほどそこのお部屋を慌てて出てきたときも、なんといいますか……提灯? みたいなものを鼻からぷかぷかさせていましたよ」
 ですから、ジャキ様が退屈だったのも仕方のないことかと――――。
「あ、それでだったのね」
 先ほどのハッシュの不可解な言動に漸く納得がいった。確かにそれならあまり大事にはしたく無い筈だ。ジャキが遊びに行ってしまったのにも頷ける。
「サラ様はボッシュ様の授業と伺いましたから、そんなことはないかと思いますが」
「でもあの人は変わっているから、時々ついていけなくなるのよ……あ、これは内緒ね」
「まあ」
 女性と別れ、宮殿を出る。ここから眺める景色はサラのお気に入りである。父様や母様がこんなに綺麗な国をつくってきたと思うと、なんとなく誇らしかったのだ。眼下を見渡しながらジャキの行きそうなところは何処か考えを巡らす。
 ジャキは人ごみがあまり好きではないから、多分街には行っていないだろう。そうすると泉か、滝か、花畑か……どれもまずは下まで降りなくては。
 洞穴を抜けて宮殿の下に降り、カジャールを横目に歩いていく。つい先日ジャキと遊んだ花畑までやって来たが、どうやら此処ではないようだ。
 赤、ピンク、黄色――いろとりどりの花々は見ていて飽きない。少し立ち止まって思い切り息を吸った。気持ちいい。草花の香りと、少しひんやりとした風。暫し穏やかな気分に包まれる。
 しかしずっとこうしていては日が暮れてしまう。まったく、何処へ行ってしまったのだろうか。
 更に足を進めていくと、宮殿のある山からなだれ落ちる滝が見えてきた。水の音が耳に心地よい。
 滝つぼに落ちた水はそのまま地へと流れ落ちてゆく。大陸を分断するように広がる泉とこの地に満ちる魔法の力でジールは成り立っている。水無くして人は生きられず、魔法無くしてこの大陸は空に浮かび続けることが出来ないからだ。その泉には橋が架かっていて、エンハーサへ向かう為の唯一の道となる。
 ジャキは水辺も好きだ。もしかしたら居るかもしれない、と期待を寄せつつ橋の上で足を止め、辺りをぐるりと見渡す。残念ながらここにも居ない。もう日も大分傾いている。早く見つけてあげなくては。
「こんにちは。ジャキを見なかった?」
 小さな姉妹が泉の畔で水の掛け合いをして遊んでいる。近寄って声を掛けると、遊びに夢中になっていた二人は一瞬きょとんとして、それから慌てた様に声を挙げた。
「え、あっ、ひめさま!」
「わ、お水、掛かっちゃいませんでしたかっ?」
 上の子があたふたとサラの長いローブを気にした。確かに少し飛沫が掛かった跡はあるが、近づいたのは自分なのだからこの子たちは悪くない。サラは小さく笑って、
「大丈夫よ。ね、ジャキを見なかった?」
 そう質問を繰り返した。お咎めなしだったことに安堵したのか、二人の表情がふっと和らぐ。
「ジャキ様ならさっき……半刻くらい前に、私たちに果物をくれました」
「あかくて、ぷちぷちしてて、とっても甘くておいしいの!」
「そこの茂みに生ってたのを、採ってくれたんです。あ、でも――」
「でも?」
 ちょっと言いよどんだ姉に、妹が元気に先を続けた。
「ジャキくん果物を採りに来たみたいだったのに、私たちがじーっと見てたら、やっと採れた二つの果物、両方とも私たちにくれちゃったの」
「ほらっ、言葉遣いしっかりして!」
「あ、ごめんなさいっ」
 怒られた下の子が慌てて謝る。サラはにっこりと微笑んで
「いいのよ。それより……」
 急に声を潜めたサラに、二人も真剣な表情になる。
「今度またあの子を見かけたら遊んでやってちょうだい。いつもお城にばっかりいるから、きっと同じ年の子たちとも遊びたいと思うの。だから、お願いね?」
 最後にそうやって語調をあげると、二人はぱっと破顔して、
「はーい」
 声を併せて返事をした。その様子にサラもまた自然と笑みが漏れる。
「ひめさまにお願いされちゃったー!」
 それから二言三言の言葉を交わして和んだ後、ジャキの行先に覚えはないかどうか尋ねる。もしお城に戻っているのだったらそれでいいけれど、まだ遊んでいるのなら迎えに行ってあげたかった。
「ジャキ様はお城の方へ戻って行きました。あ、でも……この後何をするんですか、って聞いたら、もう少し果物を探すんだって言ってた気がします。それと、サラ様。もしジャキ様を見つけたら、果物のお礼に渡してください。さっき二人で作ったんです。ね? ミーナ。渡したいって言ってたもんね?」
 そう言って手渡されたのはクローバーと薄いピンクの花で出来た小さな花束だった。
 上の子が何処か不敵な笑みを浮かべると、下の子――ミーナは何やら訳があるのか、急にそっぽを向いてしまった。その頬は何処となく赤い。最初は首を傾げていたサラも、ようやくなるほどと合点した。
「ええ、わかったわ。渡しておくね」
 ――ジャキに言ったらなんて反応をするかしら。私はそんなことしないけど。
 姉妹に別れを告げて、元来た道を引き返す。さて、次は何処に行ったのだろうか。
『あかくて、ぷちぷちしてて、とっても甘くておいしいの!』
 不意にミーナの言葉を思い出す。赤くて、ぷちぷちとした食感で、甘い――そんな果実をサラは知っていた。というより、大好物だ。
「あの果実があるって言ったら、あそこかな……」
 そう一人ごちて、サラは赤く染まり始めた雲海を横目に見ながらカジャールの隣の森へと足を向けた。

「やっぱり……」
 ふふ、と小さく笑みが漏れる。
 森の中。滾々と湧き出でる泉の横。草むらの中で青い髪の毛がぴょこぴょこと動いていた。あの後ろ髪の跳ね方は、間違いなくジャキだろう。どうやらまだこちらには気付いていないようだ。そうっと近づき、
「ジャーキ!」
 少し強めに肩を叩き、脅かしてみる。
「!」
 案の定、ジャキはビクリと身体を震わせて草むらから飛び出した。普通こういう時、ジャキくらいの年の子なら声を挙げるものではないのだろうか――と何時も思う。ジャキの少々引っ込み思案な性格はサラも少し気にしている。
 ジャキは大きく目を見開いたが、サラの姿を見た途端、目元を和らげた。その後ハッとしてすぐ物調面になる。
「な、何……姉上。脅かさないでよ」
「ごめんなさい、ジャキ」
 脅かされたことが気にくわなかったのか、俯いてしまったジャキにサラは少し笑いながら、
「ほら、もう拗ねないの。いいものあげるから、手を出して?」
「……いいものって何?」
「ミーナって子から、貴方にお礼だって」
 先ほど預かった花束を渡す。小さな可愛らしい花束を物珍しそうに眺めたジャキは、少し間を置いて、表情を変えずに花束を受け取った。もう少し反応を期待していたサラは、ちょっと物足りなくてジャキを凝視する。暫く花束を握っていたジャキだったが、やがて泉の方に足を向けると、薄手の上着を脱いでその端を水に浸し始めた。
「ジャキ? 何してるの?」
 冷えるのは今からなのに、そんなことしちゃダメじゃない――と続けようとしたサラに、
「……このままだと萎れちゃいそうだから」
 と言って水気を含ませた布を花々の切り口にあてているのを見て、サラもようやく合点した。
「嬉しかった、のね?」
「…………うん」
 少し顔が赤い。照れているのかもしれない。そんな弟の可愛い顔に、ついサラも顔がほころぶ。
「そう……よかったわ! じゃあ今度直接お礼を言ってあげるといいわ」
「別に……そこまでじゃないし」
「もう!」
 これでもうちょっと素直だったら、その優しさがみんなにも分かってもらえるかもしれないのに……と姉としては少し残念だが、自分から見たらただの可愛い弟である。
「姉上。これあげる」
「え?」
 突然渡されたのは、籠の中に入った三つの赤い果実。赤くて、ぷちぷちしてて、とても甘くておいしい果実。そして……サラの好きな果実だ。
「姉上これ好きでしょう? あんまり城では出ないから……時間も出来たし、採ってこようと思って。まだ時期が早いみたいで、あんまり採れなかったけど」
「ありがとう、ジャキ。嬉しいわ」
 姫と言えど、自分の好物を貰えば嬉しい。サラの喜びが伝わったのか、ジャキもどことなく嬉しそうだ。
「なら、良かった」
 ジャキのお腹が小さく鳴った。気付かれたかどうか確かめたいのか、此方を控えめに窺ってくる。サラはそんなこと気にしなくても良いのに、と思いながら、
「一緒に食べましょう。私、ジャキと一緒に食べる方が嬉しいわ」
「なら、食べる」
 二人して泉の畔に腰かけた。もう太陽は沈みかけていた。木々の隙間から洩れていた光は、影を多く含むようになって、こんな時間まで外に居る事に罪悪感とちょっとした楽しさを感じる。
 ――母様と父様に怒られちゃうかしら。
 あの二人は妙に心配性なのだ。この前もサラが少し熱を出しただけで大騒ぎして……。いつも忙しい二人が構ってくれたようで、サラとしては嬉しかったのだけれど。心配させちゃいけないのは分かっているけれど。もう少しくらいなら、いいかもしれない。
 ジャキから貰った果実を一口齧る。甘くて、美味しい。
「ジャキ、美味しいわ」
「ん」
 ジャキは自分の果実を食べるのに夢中なようだ。サラが半分も食べ終わらない内に、ぺろりと平らげてしまった。まだ食べたりなそうにしているから、籠に残った一つを渡そうとするけれど、ジャキは首を振って応じなかった。サラにあげた物だから、自分が二個食べるのはおかしいと言う。
「じゃあ……こうしましょう」
 半分まで食べた自分の果実をジャキに渡し、残った果実を新たに口に含む。
「はんぶんこ、ね?」
「――――なら、食べる」
 ジャキはまた美味しそうに食べ始めた。今度はサラと食べる早さを合わせる様に、すこしゆっくりと。
「それにしても……ハッシュ様の講義を抜け出したんですって?」
「だってあの人寝てたから」
「……やっぱり」
「だから良いかなって」
「うーん、それなら仕方ないかもしれないわ」
「でしょう?」
 顔を見合わせて、暫くそうしていると、次第になんとなく可笑しくなってきて、二人して吹き出した。
「久しぶりだね、姉上と出かけたの」
 ジャキには珍しい晴れやかな笑顔。大きく伸びをして、少し紫がかった空を見上げる。
「この時間の空が、一番好きなんだ。色が綺麗で、あと……明るいのに、星が見えるから」
 ジャキは一番輝く星を指さして、目を細めた。小さいと思っていたジャキもこんな顔をすることがあるのかと、ちょっと驚く。そして自分も空を見上げ、
「同じ色だけど、私は朝の方が好き。段々と明るくなっていくから。でも今は――――とても綺麗な空だと思うわ」
「でしょう?」
 少しの間、静かに星を見ていた。水の流れる音だけ響いている。横目でジャキを見ると、とても穏やかな顔をしていた。心なしか微笑んでいるようにも見える。その時、なんとなく――少し大げさに言えば――幸せを感じた。
 やがて空が黒く染まり、星が瞬き始める。サラはジャキの手を取って、
「帰りましょう、ジャキ。果実、美味しかったわ。ありがとう」
「――――うん!」
 夜に背を向けて、城へと戻る。帰り道、姉弟はずっと手を握っていた。


 * * *


 夜明け前である。まだ王国は闇に包まれていた。何となく胸が騒ぎ、何時もより大分早く目が覚めてしまった。気分が晴れず、外の空気を吸おうと宮殿からそっと抜け出す。
 澄んだ空気を吸い込むと、気分が少し良くなった。太陽が雲海の向こうから少しだけその姿を覗かせている。夜明けの王国を見るのは、嫌いじゃない。そう思って見晴らしのいい場所へと足を向ける。
「……?」
 暗闇の中に、それよりも濃い影を見つけた。階段に腰かけ物憂げに遠くを見つめているその人の横にそっと腰かけると、どうやら驚いたようで、彼はビクリと身体を震わせた。その後大きく目を見開き、此方の姿を認めるとフッと和らげる。しかしその視線はすぐ逸らされてしまった。今は何時も付けているフードつきのローブを着ていない所為か、彼の表情がよく分かった。その瞳が、何処か戸惑うように揺らいでいるのも。
「お早いですね。まだ夜明け前ですよ」
「貴女の方が早い。もう少し休んでいても良いのでは?」
「眠れなかったので」
「そうですか」
 彼――予言者は多くを語らない。偶にこうして話す機会が有っても、直ぐに会話を打ち切ってしまう。そうして誰かと打ち解ける事を拒むのだ。
「――空が、綺麗ですね」
 紫がかって、徐々に明るくなっていく空を見上げて言う。予言者は軽く上方に視線を滑らせて、
「ええ」
 一言だけ呟いた。そしてサラが次の言葉を探し出す前に、
「ですが、私は……日暮れの方が好きです」
「え?」
 少し、驚いた。予言者が自分の事を話すのはとても珍しい事だから。
「――勿論、今の空も綺麗ですが」
 そう笑って、予言者は腰を上げた。その横顔は、優しく微笑んでいるようにも見えた。
 なんとなく、懐かしかった。
「そうですね、とても、綺麗です」
 答える者の居ない呟きは、口の端から零れて消えた。そうしてサラは、久々に晴れやかな気持ちで空を見ている。
 夜明けである。夜が背を向けて去って行く。その時、姉弟は互いに微笑んでいた。

 Fin.
*あとがき*
10500Hitのリクエストでhiyohiyo様より「明るめなサラさん」とのお題を受け、書いてみました!結局2か月程かかってしまいましたね…申し訳ありませんっ!
……このサラさん……明るいですか!?壁┃ω・;)
それに幼少期が大半になってしまいまして…これで良かったのかどうか書き上げてから自問自答しております(大汗)
最近クロノ小説を書いていなかったのも有って、もしイメージと違う感じになってしまっていたら申し訳ありません…っ(> <;)
ですが久々にサラ視点の話を書けて、私としてもとても楽しかったですv
これからも古代で一人で盛り上がっているとおもうので、声かけたりしてやって下さるととても喜びます(笑)
それでは、リクエスト有難うございました!!

2013.3.16

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