暁鐘の音、鳴り響く




リーネの鐘の元。辺りは暁闇に満ちていた。
酒瓶やグラスが散らばり雑然とした空間の中、先程までの喧騒が嘘の様に在るのは静寂のみ。祭の熱気に当てられて居座っていた者達ももう居ない。
そこに静かに佇む闇色の影。その影――魔王は何かを捉えたかの様に顔をもたげ、視線をすうっと前方へ滑らせた。
――来たか。
気配を感じ鎌を持つ手の力を少し強める。すると階段の下から緊迫した足音が近づいてきた。それ――カエルは、姿を現すと同時にゆっくりと口を開いた。
「……魔王」
低い声が魔王の耳に届くと同時に、すらりという音をたてて剣が抜かれた。それを見た魔王は数歩前に進み鎌を構え、口の端を吊り上げ嘲笑を浮かべる。
「何だ…お前は私を倒す事を諦めたのでは無かったのか?」
一歩前に出る。切れ味を確かめる様に、鎌は空間を数度裂いた。
「ハッ、笑わせらぁ。俺がお前を殺らなかったのは、他にお前より強い敵がいたからだ」
間合いを取る様に、一歩下がる。剣の切っ先は標的の左胸に向けたままで。
「聞き捨てならんな。ラヴォスは私…達により葬られた」
達、と付けたのは心情の変化なのだろうか。主の変化を哀しむ様に、数多の絶望を宿した鎌は薄闇の中で怪しく刃をぎらつかせた。
「ああ。それは間違っちゃいねえさ。だから今は……」
剣を、大きく振りかぶった。
「てめぇを倒すッ!」
キィン!
澄んだ音が響く。続いて数回。
剣と鎌が交わった。同じくして紅と金の視線が交錯する。
一瞬の間。互いを牽制する様に睨みつけ、そのまま二人は後方に飛びずさった。
「…フン。酒の所為で剣筋が鈍ったようだな」
「あんな酒くらいで潰れる程落ちちゃねぇ。…そっちこそ大分鈍ってるんじゃねぇか…――ッ!」
突如辺りに広がった炎の輪にカエルが怯む。素早く水泡を魔王に向けて放ったものの、熱の為にすぐに霧散してしまった。
魔力で勝負するのは無謀と考え、カエルは霧と炎の間を縫って飛び出した。術を唱える為に無防備になった魔王の懐に切り掛かろうとしたがすんでの所で弾かれる。
「不意打ちとは卑怯だな、魔王ッ!」
「お前の甘さが招いたものだろう?」
「……そういうお前も、集中力に欠けるんじゃないか?」
「―ッ!」
不意に力が込められた鋭い一撃に魔王の身体がぐらついた。瞬間、一寸先を剣先が掠める。銀の長髪がほんの一房地に落ちた。
体制を立て直した魔王の眼光が鋭く光った。次の瞬間、また何度も二つの刃が重ねられる。
時折魔法も混ぜた派手とも、豪奢とも言える打ち合い。それは次第に激しさを増していった。
攻防は延々と続いたが、戦いは熾烈を極め、何時決着が付いたとしても何もおかしくないというような状況にあった。
…しかし、その数分後。二人は奇妙な感覚に陥った。同時にある疑問が浮かび上がる。
――何故、とどめを刺せないのだろうか――
カエルの剣は鋭く空を突き、確実に標的の心臓へと向けられていた。しかしそれか突き立てられる一瞬前、無意識のうちに剣先が揺らぐのだ。
剣を弾いた魔王の鎌は緩やかな弧を描き、少し手を引くだけで標的の喉元をいとも簡単に裂く事ができる位置にあった。しかし何故か手が瞬間的に硬直してしまう。
一瞬タイミングを逃しただけで好機は失われる。今まで互いに一度とてこの様な事は無かった。敵と見做した者は、狙い定め、躊躇い無く切り捨ててきた。それなのに――何故。
…親友の仇でもあり、心の底から憎んだ相手を。
…自らを阻み、刃を向けてきた者を。
切れないのだろう…?
両者に焦りが見え始めた。威力は強まったものの、力の自制が効かずに魔法は飛び散り剣は必要以上に大きく振られた。
互いに幾度となく好機はあった……にも関わらずまだ決着は付いていない。疑問を抱いたまま繰り出される攻撃は虚しく宙を舞うだけであった。
…しかし、やがて一際大きな打ち合いの後、ピタリと空気が制止した。
緊迫した静寂の合間を縫って、声が漏れる。
「……っ。引いたらどうだ?」
カエルの視線の先には、自らの脇腹に当てられた三日月型の鎌があった。
「お前の刃が私の喉元を貫く前にはな…」
魔王の視線の先には、喉元に突き付けられた聖なる剣があった。
殺られる前に殺る…その精神は捨ててはいない。相手の手に力が篭った途端、迷いは掻き消えるだろう。
しかし、互いに分かっていた。
自らが先にその刃を血で濡らすことは出来ないと…。
今はもう北の岬で対峙した時とは違った。“仲間”と呼び呼ばれたという繋がりが、隔たりとなって躊躇いを生んでいる。
長い、長い沈黙がおりた。
――そして、先に殺気を消したのは以外にも魔王だった。鎌がカエルの腹から外される。
…今ならやれる。そうカエルは思った。最後の、好機であった。…しかしやはり手は動かない。
一拍の間を置いて、カエルがフッと力を抜く。そして何かを諦めたかの様な、はたまた何かを見出だしたかの様に彼方を見遣った。そんなカエルに魔王がすぅっと目を細める。
「……やらぬのか」
溜め息と共に漏らされた声。聞き取れぬ程微かに、安堵の様な響きが混じる。
カエルは下ろした剣を躊躇う様に見つめたが、やがてゆっくりと首を振った。
「ああ。…もう、お前とはやれない」
小さな金属音をたてて剣が鞘に仕舞われた。
「…先程は勇み立っていたというのに、随分な変わりようだな」
嘲笑を浮かべた魔王をカエルが一瞥する。
「しゃらくせぇ。だいたいそう言うお前も鎌を引かなかったじゃねえか。それはどうしてだ?」
居丈高な口調に、今度は魔王が沈黙した。らしくもなく逡巡するように天を仰ぐ。朱に染まりかけた空には三日月が輝いていた。
「……気の迷い、とでも言おうか」
迷い?――違う。
迷ってなどいなかった。
そんな本心を隠した皮肉に、カエルが顔を歪める。
「チッ、捻くれてやがる」
「…悪かったな」
暫くの沈黙。そして、魔王がおもむろに口を開いた。
「…お前とは…この旅が終わればもう会う事は決して無い」
「当たりめぇだ。もうお前の面なんて見たくねぇからな」
「――仇討ちは、もうできぬぞ」
刹那、カエルの眼に何かが滾ったのが見えた。しかしそれは一瞬後、名残すら無く消失した。
「ああ。分かってるさ。…大体…サイラスは俺にこの剣を残して安らかに眠っている。今更仇討ちだなんだと叩き起こす事もねぇだろう」
カエルは過去をも追憶するかの様にグランドリオンに触れ、尚も続けた。
「それに一度仲間と呼んだ相手に刃を向ける程、俺は腐っちゃねぇ」
魔王が虚を突かれた様に一瞬戸惑いの表情を見せる。だが直ぐに口の端が歪められた。
「……お前の口からその様な言葉を聞くとは…奇妙なものだ」
「奇妙…まあ、そうだな。中世に居た頃はこんな事になるなんて想像もしなかった。――って言ったって、あれからそんなに時間は経ってない筈なんだが…」
カエルが言葉を濁す。そんなカエルに魔王は静かに呟いた。
「……変わったのだな」
周りも、自身も。
その声は、誰にも聞かれる事無く宙に溶けた。
「――ん?何か言ったか?」
「いや」
その返事の直後――太陽が東の空に昇った。紫がかった空の中で朱が一層強くなり、朝日が空を神秘的な色に染めていた。
その光を受けて魔王は眩しげに目を細めた。…やはり夜明けは性に合わないと思いつつ。
そして、何かを思い立った様に魔王は言葉を発した。
「旅が終われば、私達の関係も絶たれる」
「…?だから何だっていうんだ?」
意味を図りかねてカエルが意味を問うと、少しの間を置いてから魔王は迷い無く、厳かに答えた。
「……呪いは、解けるだろう」
「な…っ!?」
驚きの声を漏らしたカエルを無視して、魔王は淡々と続けた。
「そもそも私の魔力はラヴォスとの戦いにより減少した。そして幾度も繰り返された時間軸の移動。奇しくも共に行動する事となったが、そうでなければもう呪いは解けていた筈だ」
「……そう、だったのか。俺はてっきりお前が死ななきゃ解けねぇんだと思っていたが」
「…それも一つの手段、というだけだ。お前は直に人の身体を取り戻すだろう」
「……本当に、戻れるのか…?」
魔王は、視線を彼方にずらした。それは肯定の表れだった。
その意味を感じ取り、カエルが沈黙した。今や忘れかけていた姿を思って……。


◇+----*†*----+◇


――もう、言葉が交わされる事は無かった。ただ魔王は会話を放棄するように鎌を手に持った。
充分な間を置いてから魔王は身を翻し、静謐なる空間から抜け出す様に、カエルを残してゆっくりと歩みを進めた。歩く程に、影が長く伸びて揺れている。
カエルは感慨深げにその後ろ姿を見遣った。朝陽に照らされたその影は、心なしか色を得た様にも見えた。
その姿が階段の下に消えるのを見てから、カエルは長い息をついた。
「…変わった…な」
息と共に彼の者と同じ言葉を吐き、カエルはグランドリオンを鞘から抜いた。陽光に反射して剣が煌りと輝く。
「なぁ、サイラス…」
友への問いかけは、空に消えた。その眼に迷いは無い。
その声に被って、夜明けを知らせる鐘の音は辺りに鳴り響いていた――。




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