温もり




夜。
月が空の頂点に昇っている頃。
皆が眠りにつき、宮殿の中は静まり返っていた。
そんな静寂の中、自室で書物を読み耽っていた俺はふとその手を止めた。
廊下で…微かに何かが聞こえた気がしたのだ。
人間ならば決して聞こえない程に小さな、小さな音が……。
それはだんだんと近付いてくる。
五感を研ぎ澄ます。存在が感じとれた。
しかし…人にしては気配や足音が小さすぎた。
一体、何が――
不意に、ある影の記憶が脳裏をよぎった。
カリカリと何かを引っ掻く様な音が扉のほうから聞こえてきた。
「……まさか…な」
ある程度予測は出来た。決して、害の有る物では無い。
席を立ち、扉に向かう。
そのまま、扉の向こうに居る存在を傷付けないようにゆっくりと扉を開けた。
―そこに居たのは、アルファドだった。
予測していたのにも関わらず、動揺した。
何故ここに居るのだろうか?
しかし、そんな俺を無視してアルファドは扉が薄く開いた途端、直ぐに部屋の中へと入ってきた。
その姿は窓から差し込む月の光で青、銀、紫、と色を変えた。
その姿も、昔の記憶となんら変わっていなかった。
俺は扉を閉め、また元の長椅子に腰掛ける。
そして、何事も無かったかのようにしていようと思った。…だが。
アルファドがじいっとこちらを見ている。何かを待っているようだった。
できるだけ気にしないようにしながら書物を開き、ページをめくる。
解読に時間がかかりそうな文字がずらりと並んでいた。
しかし、先程の様に内容に集中できなくなっている。理由は分かりきっていた。
…無理だ。集中できない。
俺は書物を読むのを諦め、音をたてて閉じた。
すると、その音に反応した様にアルファドがピンと耳を立てた。
一直線に俺の方に向かって駆けてくる。
そして俺の横の空いている場所に飛び乗り、ごろんと寝そべった。
…確か、猫が腹を見せて寝ている時は心を許せる者と共に居る時、だった様な――
遥か昔に覚えた、二度と使う事は無いと思っていた記憶が呼び覚まされた。
そして、一瞬でもそんな事を思った自分を自嘲する。
…魔王と呼ばれた者が。恐れられし予言者が。…俺が…猫を愛でる?
…有り得ない、筈だ。
しかし、そんな心とは裏腹に目の端には喉を鳴らしながらくつろいでいるアルファドが目に入り、奇妙な感情を覚えた。
そして、暫くの間の後…俺は一つ、溜息をつく。それは諦めから来た物であった。
そして、ゆっくりと手を伸ばす。
丁寧に、出来るだけそっと抱え上げた。
小さく、ひ弱なそれを、この長い爪で万が一にも傷付けてしまう事がない様に。
腕にその命を抱く。
途端にじんわりと、その小さな身体を触れた場所から何かが広がっていった。
……温かい…。
純粋に、そう思った。
無論部屋の中が寒い訳ではない。宮殿の中は魔力で満たされている為、何時だって快適な温度に保たれている。
しかし、今まで…此処に居る時も、中世に居た時も温かさ等、感じた事は無かった。
当たり前だ。何時だって俺の周りを取り巻いていたのは、黒い風だったのだから――
死の予感は、冷たい。身が凍る程。
それに堪えられていたのは俺が冷酷な魔王だったからだ。
だが、今。
俺は、まるで凍り付いた血を溶かすような温もりを感じている。
腕の中のアルファドの頭を撫でる。するとごろごろと喉を鳴らし、くつろいでいる様に目を細めた。
――暫く、こうしていたい。
だがそう思っていられたのもつかの間だった。
また、廊下から足音が近付いてくる。続いて微かな声も。
「アルファドー?」
ジャキの声だった。おそらくアルファドを探しに来たのだろう。
俺はアルファドを真横に降ろした。
それは手からするりと抜けていった。
…そして、また。俺の身体は冷えていく。
だが、アルファドを離してからも。
心の奥に何か…温かいものを感じた気がした…。
俺は席を立った。扉の前で足音が止まるのを確認してから開ける。
突然開いた扉にジャキは戸惑ってたじろいだ。
そして一瞬怯んだ様子を見せた後、虚勢を張りながら切り出した。
「…紫の猫…アルファド知らない?…あ、別に知らないなら良いけど」
「…それなら」
答えようとしたその時。にゃあう、という鳴き声が部屋の中から聞こえてきた。
ジャキが大きく目を瞠る。
まさかこんなところに居るとは思ってもみなかったのだろう。
俺を押しのけて部屋に入り、アルファドの姿を目にしたジャキは、不服そうにその視線をこちらに向けた。
「何で此処にアルファドが?…連れてったの?」
疑惑の目で見られ、俺はぶっきら棒に言い返した。
「…勝手に来ただけだ。そもそも俺がそのような事をする理由が無い」
「……嘘だ。アルファドは僕以外の奴にそんな事しない」
ジャキがアルファドを抱き寄せようと手を伸ばす。
――しかしアルファドは戸惑った様にジャキを見、それから俺を見た。
まるで、どちらの元へ行けば良いのか解らず迷っている様にその場を行ったり来たりしている。
それを見て、ふと思った。
アルファドは飼い主、即ちジャキにしか懐かない、筈だ。
なのにどちらの元へ行こうか迷っている。
……この猫は、解るのだろうか?
造形は魔に染まり、肉親すら見分けのつかない程変わり果てた俺を。
アルファドだけは…解るのだろうか?
一向に自分の手の内に来ようとしないアルファドに、ジャキは一層不機嫌になった。青い瞳が揺れている。
「…何で、あんたなんかに」
「さあな」
俺はアルファドに近付き、抱き上げた。
一瞬。返すのを躊躇い手を止めた。
しかしすぐに思い直しアルファドをジャキに手渡す。
するとジャキの腕の中でアルファドは安らいだ表情を浮かべながらも、俺の方を少し寂しげに凝視していた。
堪らなくなって手を紫の毛並みの上に置く。
ジャキは不満そうだったがアルファドは満足したように目を閉じた。
それを見たジャキが怪訝そうに俺を見る。暫く置いて、言葉を発した。
「姉上にも懐かなかったのに…不思議だ。僕とあんたは、全然似てないのに」
その言葉に俺は軽く冷笑を浮かべた。
似ていない…確かにそうだ。
ただ、限りなく近いだけで。
「にゃあ…ぁう」
不意に、アルファドが大きく欠伸をした。眠そうにジャキの腕の中で丸くなる。
「…アルファドもう眠いみたいだから、そろそろ部屋に戻るね」
「…そうすると良い」
踵を返しかけたジャキは何かを思い立った様に振り返った。
「あ、それと…」
「ん?」
「多分、アルファドはまた此処に来るから、絶対嫌がるようなことしないでよ」
戸惑った俺にジャキは尚も続けた。
「…僕は、あんたなんか嫌いだけどね」
…捻くれているな。
昔の自分を見て、微笑を浮かべる。
「…何故また来ると分かる」
「だって、アルファドは…懐いた人の所にずっと居たがるからさ。…あんた優しく接するとか出来なさそうだし」
「…にゃあ!」
ジャキの言葉に被るようにして、眠っていた筈のアルファドの鳴き声が肯定するように響いた。
…全く、心外だ。
俺は憮然としながらも、扉の閉まる音をいつもより安らいだ気持ちで聞いていた。
…アルファドがまた来る、ということに微かな喜びを感じながら。



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