遠く広がる海の向こうに、彼がいるのだと判ってから、私の心は海に奪われた。




「また海を見ているのかい? 毎日眺めて飽きない?」

寒い冬空の下、わたしは海を眺めていた。
特に何をするわけでもなく、ただ淡々と眺めるだけ。
海の向こうにいる彼を想いながら、地平線を見る。
それがわたしの日課になっていた。

薄い着物一枚で冷たい潮風に当たり風邪を引くことを心配した兄が、わたしに羽織りを掛けながら訊ねる台詞は、最近何度も聞いたものだ。
それを何度聞いても羽織りを掛けないのは、夏から着物一枚でいることが願掛けになっているから。
兄を心配させて罪悪感は感じているけれど、それでもわたしはこの服装で海を眺めたい。

「……早く家にお帰りなさい。母上が心配なさっているよ」

兄がわたしの両肩に手を掛ける。
その力は弱々しくて、女のわたしでも振り払うことができる。
だけど、わたしはその手を振り払えない。
兄の気持ちを無駄にしたくないし、わたしが兄の手を振り払うことによって、兄が消えてしまいそうな気がするから。

わたしは兄に連れられるままに、踵を返した。
本当は、もう少し海を眺めたいけれど。




「……そろそろ教えてほしい。どうして毎日海を眺めるのかを」

帰宅途中、兄がふとわたしに訊ねた。
わたしが海を眺めるようになってから、この台詞も何度となく聞いている。
以前は海を眺めるのに理由が必要なのかと言ってその場をしのいだけれど、今回は無理だろう。
わたしの左手を握る弱々しい兄の力が、少し強くなったから。

日本人には珍しい、色素が薄い兄の頭髪を少し見て、わたしは口を開いた。

「以前、兄様が仰ったでしょう? 海の向こうには、彼がいるのだと」
「……それは、萬嘉漆亀様のことか」

わたしは首を縦に振る。
それを見て、兄は一つ溜め息を吐いた。

「どうして漆亀様を気にする。まさか彼に惚れたのかい?」
「身分違いにも程があると仰りたいのでしょう。ですが、わたしは漆亀様に恋心を抱いてしまったのです。この心は、誰にも止められない」
「……彼は旗本の人間。しかも嫡男でいらっしゃる。小さな藩の分家の人間であるお前とは」
「解っています!! 解っているから、こうして苦しんでいるのです……」

瞳から、涙が流れる。
わたしには、それを止める術がない。
漆亀様に対するわたしの心のように──。

漆亀様とは、幼少の頃に一度お会いしただけだ。
まだわたしが九つの時だった。
萬嘉家の御当主であられる父上様の付き添いで、わたしの叔父が藩主をしているこの藩にいらっしゃった。
奉公修業のために叔父の屋敷にいたわたしは、漆亀様を見て、なんて綺麗な方なのだろうと思った。
彼は、まだ成人を迎えていない歳にも関わらず、まるで成人のような雰囲気を持っていた。
そして、一番わたしの目を惹いたのは、彼の金髪だった。
兄と同じ金髪──。
それは、わたしにとって一番の魅力。

「よくお聞きなさい。漆亀様は将来萬嘉の家を継ぐお方なのだよ。私や父上、まして叔父上でさえもなかなかお目通りが叶わない。遠くから見るしかできない。それでもいいのかい?」

兄の言葉に、わたしは頷いた。
夫婦になろうなんて考えはない。
ただ、彼を、漆亀様を想うだけでいい。
病のせいであまり長くないといわれる兄と同じ金髪の彼を──。

「……兄様。いつかまた、漆亀様にお会いできますでしょうか」
「お前が願えば、遠目ながらもお目通りかなうだろう。さぁ、家に入ろうか」

わたしに笑いかけながら、兄は家の戸を開けた。
刹那、わたしの視界に赤い何かが広がった。

「ッ!? 見るんじゃない!」

兄が急いでわたしの視界を手で塞ぐ。
だけど、わたしは見てしまった。
目の前に広がる──

「……や。……いや。イヤァァァァァァァァァァァァァァッ!!」

──父と母の亡骸を。








わたしは、海の向こう側へ行くことになった。
両親を亡くし、兄が叔父に引き取られた今、わたしの居場所は此処にない。
叔父はわたしも引き取ると言ったが、叔父には娘──つまりわたしの従姉妹が大勢いる。
そんな状況でわたしまで娘になったら、叔父に迷惑を掛けるだけだ。
兄とわたしに今まで優しくしてくれた叔父に迷惑は掛けたくない。
そこで、叔父が奉公先を紹介してくれることになった。
目指すは江戸。
彼が、萬嘉漆亀様がいる江戸だ。
これで、少しは彼と近付けたのだろうか。

「兄様、お元気で」
「いつか必ず帰っておいで。私は待っているから」
「はい」

兄様との別れの挨拶を終えて、わたしは叔父が用意した籠に乗った。
途中、舟に乗り換え、また籠に乗り、漸く辿り着いたのは江戸。
漆亀様がいる江戸に、行けたのだ!

「漆亀様……いつかお会いできる日を信じております」

そう呟き、わたしは瞼を閉じた。




わたしの両親が殺された理由は、明らかではない。
ただ、家は荒らされておらず、怨みを持った誰かの犯行だろうと叔父は言った。
誰かに怨みを抱かれるような両親ではなかった。
一体、誰が……。

「広海様。到着致しました。」

籠から降りると、目の前に広大な屋敷があった。
思わず圧倒されてしまう。
此処が、今日からわたしが奉公するお屋敷。
まずは当主様にご挨拶を……

「おい、其処にいるヤツ。邪魔だ」
「も、申し訳ありませ…ん?」
「なんだ。何か用か」

金色の髪に、軍服。
まさか──

「漆亀…様」
「ん? 私を知っているのか。ならば話は早い。其処を退け」
「……はい」

なんだか、昔と様子が違う。
確かに、成人を迎えられたから昔より更に素敵だ。
けれど、やはり雰囲気が違う。
なんだか他人を寄せ付けなくなってしまったように思った。
それでも、漆亀様はわたしの想い人であることには変わらない。
江戸に来て早々出会えるだなんて…!

しばらく彼の背中を見送った後、わたしは本来の用を思い出し、急いで屋敷に入った。




ここから、わたしの人生が大きく変わっていくことは、まだ知る由もなかった。




to be continued...

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