「だから、この3次関数が直線mと交わるときの2点P‐Q間の距離を求めたいんだから、まずPとQの座標を求める」
埃っぽい放課後の数学準備室に、授業でもないのに数学を教える俺の声が響く。口調こそ授業中のそれだが、声の音量は目の前に座る1人の女子生徒のために調節している。俺の説明に彼女が小さく頷くと、色素の薄い彼女のふわふわと長い髪が揺れた。
「点Pの座標は(2,1)って分かってるけど、点Qの座標が分からないんだから、どうするよ」
「うー、点Qの座標を(a,b)とおく」
「その通り。で、Qは3次関数上の点なんだから、aとbの関係はどうなる?」
「んー…?」
「x座標がaだから、y座標のbは3次関数にx=aを代入した値になるだろ」
ここまで説明すると、彼女は「もーわかんないよ先生ー」とシャープペンシルを投げ出して椅子の背もたれに体重を預けてしまった。
俺は呆れて、3次関数のN字形の図形を指差したまま長く溜め息を吐き出した。
「おい森下、ここは基本なんだから分かってないと点数取れないぞ」
「あたし文系だし、数学で取れなくたっていいもんー…」
そう言いながら、彼女は姿勢を元に戻したもののシャープペンシルを手にしようとはしなかった。
確かにこいつは英語や国語でならクラスでも上位の成績を取る生徒だが、自分からこのままじゃいけないから数学を教えてくれ、と言ってきたくせに何を言ってるんだか。
全く、と呟いて自分専用の椅子にどかりと腰を下ろすと、森下は重そうな前髪の下から遠慮がちに此方を見上げながら言った。
「でもね、aとbはあたしと先生みたいなものなんだっていうのは分かったよ」
「aとb?」
「うん。aの値が決まると、それに従ってbの値も決まるでしょ。先生の教え方に従ってあたしが数学の問題を解くみたい」
真面目な顔してそんなたとえ話をするから面白い。
お前は解けてねぇけどな、と笑ってポケットからタバコを取り出すと、森下はむっとするでもなく悪戯っぽく笑いながら言った。
「あ、先生、煙草吸うんだ?」
「ああ、大人は色々大変だからな」
こうしてタバコ吸って、気休め程度に気持ちを落ち着かせる訳よ。そう言って口から煙を吐き出すと、森下は「数学教師もたいへんだー」と自分のシャーペンに話し掛けた。お、少しはやる気になったか。
そのまま森下の手がシャーペンに伸びる事を期待して俺もタバコを灰皿に押し付けようとするが、彼女は「あ、そうだ」と呟いてシャーペンではなく自分の制服のポケットに手を伸ばした。
「お疲れの先生にはこれをあげましょー」
そう言って彼女がポケットから取り出したのは、今までそれ全部ポケットに入ってたのかよ、と思う程沢山の色とりどりのキャンディ。
「いち、にい、さん。先生には特別に3個もあげるよ」
「あー、俺あんまり甘いの得意じゃないから甘くなさそうなやつちょうだい」
「甘い物は疲れを取ってくれるんだよ!」
俺の話なんか聞いちゃいない。彼女が勝手に選んで俺の前に置いたキャンディはピーチ味に、イチゴミルク味に、キャラメル味だった。全部めちゃくちゃ甘そうじゃねーか馬鹿野郎。
だけど何だか笑ってる自分がいて、ありがとう、と素直に受け取った。彼女が数えた3つの数字は、まるで魔法をかけるための呪文みたいに俺の疲れを本当に軽くしてくれたような気がした。正直なところ、タバコなんかよりも森下の言動のひとつひとつの方がよっぽど俺にとって癒しだった。
煙草の煙で白く霞んでいく向こうで笑う彼女の姿は、煙草の味まで甘く変えてしまいそうな程に、甘かった。
1「1、2、3。」
2 aとb
3 ありがとう
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