名字さんと付き合い始めてから、早くも1ヵ月が過ぎようとしている。早いようでとても長くて、そして俺の今までの人生のなかでいちばん浮かれていた1ヶ月だったと思う。あの日、名字さんが俺の手をとってくれた日、文字通り世界がきらきら輝いて見えた。その日はなかなか眠れなくて、次の日は早起きして柄にもなくそわそわして、いつもより浮き足立っていたのは俺だけではなかったらしい。俺を見つめる名字さんの瞳が、前よりずっと柔らかで美しい光を纏っているように思えて、そんな彼女と思いを通わせることができた俺はなんて幸せものだろうと思っていた。


付き合って数日はあまりに浮かれすぎて、謙也に何度も突っ込みを入れられたくらいやった。どこかの芸能人のゴシップばりに校内新聞の一面にでかでかと載ってしまったこともあり、図らずも校内中に知れ渡ることになってしまったわけやけど、そんなん全然気にならんかった。むしろ名字さんが俺の彼女やってことが全校に知られることで、これで変な虫がつかんから良かったとさえ思う。そんなことよりも、部活のない火曜日の朝、名字さんにいつもより早く会えること。遠慮なく話しかけられるようになった休み時間や、一緒に昼食を食べるようになった昼休み。彼女が委員会の当番で遅くなって、ちょうど俺の帰宅と重なったときや、部活が終わるのを待っていてくれるとき、他愛もない話をしながら一緒に帰る日々。この間の休みには一緒に映画にも行った。初めてのデートやった。そのどれもが本当に楽しくて、輝いていて、ますます名字さんのことを好きになっていって、こんなに幸せでええんかなって本気で思っていた。


でもそれと同時にいつからか、名字さんが笑いかけてくれるたびに、柔らかいその手をつないだ時に、どうしようもなく幸せな気持ちになる反面、どこか言い表しようのない、まるで苦くて苦しいような、泣き出したくなるように胸をしめつける名前のつけられない感情をはっきりと感じるようになっていた。幸せなはずなのに苦しいなんて、背反した感情を持て余す自分の内心を知られないように、名字さんの前でいつの間にかむくむくと沸き上がる、訳のわからない感情を圧し殺すのに必死だった。








「そんで白石は、名字さんとどこまでいったん?」



それからさらに2ヶ月ほどが経ったころ、それは体育の着替えの時に唐突に訪れた。3ヶ月も経てば、俺と彼女のことを根掘り葉掘り聞いてくる輩も大分減ったけれど、やはり青春真っ盛りの男子中学生らしく、その手の話には目がないらしい。他校に彼女がいるというクラスメイトの話で更衣室は大いに盛り上がっていたが、相槌を打つだけだった俺にふいに話題の矛先が向き、その場にいた全員が一斉にこちらに視線を向ける。


「もう3ヶ月は経つやろ?キスはもうしたよな、やっぱりもうやったん?」
「そらそうやろ、天下の白石様やで?手え出さへん理由ないやろ」
「名字奥手そうやけどなあ...いや、なんや想像したら生々しいわ!そんで、実際どうなん?」
「...せやなあ、ご想像にお任せするわ」
「うわ!さすが白石や。響きがエロいわ」
「お前らなあ、人の恋愛事情に首つっこんどる暇あったら自分の心配せえや!」
「なんやて謙也、お前も人のこと言えへんやろが!」


どっと笑いにつつまれた更衣室のなかで、俺はただ張り付けたような笑顔を浮かべることしかできなかった。頭のなかがじわじわと沸騰してくるような感覚がする。謙也がうまく話を反らしてくれて助かった。思わず拳を握ったことに、幸いにも誰も気付いてないみたいやった。ずっと感じていた、もやもやと言い様のない感情があっという間に胸の中に広がって、それは確実に俺の中に影を落としていく。いくらクラスメイトの雑談とはいえ、自分以外の男の下衆な想像に一瞬でも名字さんの姿が浮かんでいたと思うと、吐き気がするほど嫌だった。そして俺はその瞬間、ずっと感じていた違和感の正体にようやく気付いてしまって、そのあまりの浅ましさに激しく自分を嫌悪すると同時に深く絶望する。だんだん貪欲になっていく欲望は渦を巻いていき、もはや無視できないくらいに拡大してしまっているから、もう認めるしかなかった。やっと手に入れた、ずっと好きだった人。ただ笑ってくれるだけで、隣にいてくれるだけで幸せやったのに、どんどん欲張りになっていく。...俺は、名字さんに触れたい。誰も知らない名字さんを知りたい。今よりもずっと、近づきたい。キスだってしたい、それ以上も。でも、こんな欲望にまみれた汚い思いを、あんなに純粋に俺に笑いかけてくれる彼女には、知られるわけにはいかない。絶対に。










「もうすぐ期末テストだね」


いつものように一緒に帰る道すがら、ため息混じりに名字さんが呟いた。そういえばすっかり忘れていたけれど、今回のテストは進路に響くからちゃんと対策しとけと担任が言っていたような気がする。


「白石くんはすごいよね。テニス部もあるのに、いっつも成績優秀で」
「そんなことないで?普通に授業受けとるだけや」
「優秀な人はみんなそう言うんだよ」


いいなあ、私、最近化学がやばいんだ。ため息をつくように名字さんが言った。じゃあ、と俺は自然に口を開く。


「ほんなら週末、俺ん家で勉強する?」
「えっ、いいの?」
「もちろんや。その代わりいい点とれなかったら罰ゲームやで」
「大丈夫、白石くんが教えてくれるなら絶対いい点とれるよ」
「名字さん、俺のこと買い被りすぎやない?」
「そんなことないよ!本当に嬉しい。ありがとう」


心底ほっとしたように笑う彼女の健気すぎる笑顔を見て、俺はつられるように笑ったけれど、その瞬間に差したあの黒い影に思わず心がひきつる。もちろん純粋に、名字さんの助けになりたいと思って申し出た提案だったはずなのに、俺の部屋に名字さんが来るんやって思った瞬間に心臓が高鳴って、まるで反射みたいに邪な考えが頭をよぎる。最近の俺はこんなんばっかや。でも、ただ純粋に喜ぶ名字さんの手前、もうどうにも引っ込みがつかなくて、誤魔化すように楽しみやな、と言って笑うことしかできなかった。





そしてその日はあっという間にやってきて、インターホンを鳴らした名字さんはどこか緊張したような面持ちで笑って「こんにちは、お邪魔します」と丁寧に言った。休みの日に何度かデートに出かけとるから、名字さんの私服を見るのは初めてやなかったけど、相変わらずいつ見てもほんまに可愛えと思う。でも今日の名字さんはいつもより少しよそ行きの格好をしていて、ずっとそわそわしているような気がする。上がって、と言った俺に、家族の人に渡してほしいと言って名字さんはバウムクーヘンを差し出した。なるほど、いつもより緊張してるように見える理由はそれか。俺は差し出された包みを受けとりながら、ばつが悪いような、妙な罪悪感を感じてしまう。


「気い使わなくてええのに」
「でも、おうちの人にご挨拶するかなって思ったから」
「あー...今日な、みんな出かけてて誰もおらんねん」
「えっ」


これは俺の名誉のために言っておくけど、決して狙ったわけやない。たまたまみんな用事ができて、夜まで帰ってこないだけや。なんなら彼女に会ってみたいから後日改めて連れてこいと文句を言われたぐらいだ。そして俺と名字さん以外誰もいないことを彼女に伝えなかったのも、決してやましい気持ちがあったからやない。せやからこれはあとで一緒に食べよな、そう言って笑った俺はいつもの笑顔を作れてたやろか。目を丸くしていた名字さんがうん、と頷いて靴を脱いで玄関先に丁寧に揃えるのを、何とも言えない複雑な気持ちで見ていた。






「...すごい、白石くん。ものすごく分かりやすい!」
「ほんま?そら良かったわ」


俺の部屋で向かい合うように座っている名字さんは、よほど感激したのか何度も何度も感嘆のため息を漏らしては、やっぱり、白石くんはすごいね。と笑顔で手放しに俺を褒める。そんなに褒めてもなんも出ないで、と思わず笑ったら、本当に思ってるんだよ、とまた名字さんが混じり気のない柔らかな笑顔で言う。その笑顔がやっぱり好きだなぁと思って、うっかり触れたいなぁと思ってしまって、慌ててその煩悩を引っ込める。でも、俺の部屋で名字さんと二人きりという変えようもない事実は、そんな俺の努力を嘲笑うかのように追い討ちをかけてくる。消ゴムに手を伸ばしたらしい名字さんの手が、ふいにこつんと俺の手に当たって、そのままふと見上げた視線が至近距離でぶつかる。どきり、と音を立ててきしんだ心臓を見ないふりして、すまん、と笑って視線を逸らす。そんな様子をじっと見ていた名字さんが、少しだけ眉を下げて重たげに口を開いた。


「あの、白石くん」
「ん?なに?」
「...その、もしかして私に何か言いたいこととか、ない?」


どきり、と今度は嫌な意味で心臓が震えた。伺うような表情の彼女の真意はつかめないけれど、鋭すぎる彼女の言葉に、まさか態度に出てしまっていたのだろうかと思って自分自身にまた辟易した。


「特にないけど、なんで?」
「えっと...なんとなくそんな気がして」
「そうなんや、気い使わせてしもたならごめんな」
「ううん、何にもないならいいの」


私の気のせいだったみたい、と名字さんは笑って、再び問題集に目を落とす。それでもその瞳は少しだけ逡巡してから、意を決したようにまた顔を上げて俺を見つめる。その瞳はあまりに真っ直ぐすぎて、内心で思いっきりたじろいでしまった。


「...白石くん、あのね」
「うん?」
「もし私に何か言いたいことがあるなら、何でも言ってね。どんなことでも、聞かせてほしい」


そう告げる名字さんの眼差しは真剣そのもので、俺の態度にいつもとは違う違和感を感じていて、本当に心から遠慮なく何でも話してほしいと思ってるのだということは痛いくらいに分かった。せやけど、分かるからこそ、こんなに純粋に俺のことを想ってくれる名字さんに、やっぱりこんなに後ろ暗くて邪にも程がある思いをぶつけるわけにはいかない。...名字さん、俺な、ほんまは名字さんにもっと触れたい。その柔らかそうな唇に思いっきりキスして、細っこい身体を抱き締めて、綺麗な身体の隅々まで触って、ぐちゃぐちゃにして、泣いてる顔も笑ってる顔も恥ずかしがる顔だって見たいし、誰も見たことのない姿も全部暴いてやりたいって思ってる。そんな暴力的で欲望まみれの願望をぶつけられるほどの勇気も自信も俺にはなかった。もしもこんなやましい思いを知られてしまって、引かれてしまったら?嫌われてしまったら?きっと俺は一生立ち直れへん。せやからこんな身勝手な思いを、何よりも大切な君に言えるはずがない。




...ごめんな、名字さん。こんなに好きやのに、ほんまに好きやのに。ほんとの気持ちは何一つ伝えることができひん。こんな情けなさすぎる思いも、いつかちゃんと正直に伝えられる日が来るんやろか。その時の俺は、自分の身を守ることで精一杯で、うつむきがちに笑った名字さんが何を思っていたかなんて、想像できる余裕なんかこれっぽっちもなかった。






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