その日はとてもいい夢を見たような気がする。朝が来て目が覚めた瞬間から、心がふわっと宙に浮いたような心地よさを感じていた。学校に行く準備を整えながら、いつもより少し念入りに髪の毛をブローして、リップも色付きのものをちゃんと塗って、家を出てからもそわそわしながらどこかおかしいところはないか何度も何度も確認してしまった。今日は火曜日だ。


そんなわけで自然と歩く速度が上がっていたのか、いつもより早く下駄箱に着いてしまった。登校してくる生徒たちで賑わう中、同じクラスの友達に挨拶しながら靴を履き替えて、パタリと靴箱を閉じる。そっと辺りを見渡した。...やっぱり時間もちょっと早いし、そう何度も何度も朝から会えるわけないか。期待しているみたいで自分が恥ずかしい。そう思ってこっそりと肩を落としかけた時だった。





「おはよう、名字さん」



空間を優しく揺らした声に、わかりやすく心臓がどきりと音を立てて跳ね上がり、ついでに肩も跳ね上がってしまったような気がする。なるべく動揺を悟られないようゆっくり振り返ってみたら、そこにはやっぱり白石くんが立っていた。白石くんのトレードマークともいえる優しくて爽やかな笑顔が、相変わらず朝から眩しい。


「おはよう、白石くん」
「今日はいつもより早いんやな」
「う、うん、ちょっと早く着いちゃって」
「そうなんや」


ほんの少しどもってしまった私を気に留める様子もなく、白石くんも丁寧な仕草で靴を履き替えた。昨日の今日とは思えないいつも通りの様子の白石くんに、ちょっとだけ肩透かしを食らう。もし、昨日の出来事が夢じゃなかったなら、私たちはお付き合いしていて、私は白石くんの彼女ということになるはずだ。嬉しいようなむず痒いような不思議な気持ちを、朝起きた瞬間から持て余している私に対して、白石くんは全くそんなそぶりを見せないから、もしかしてやっぱり私に都合のよい幻だったんじゃないかとすら思えてくる。そんなことを考えているなんてきっとこれっぽっちも知らない白石くんは、靴を仕舞い終えて顔を上げると、私を見てにっこりと微笑んだ。


「まあ俺もやけどな」
「え?」
「つい浮かれすぎて、いつもより早よ家出てきてしもたわ」


朝、会えたらええなって思ってた。そう言った白石くんの困ったような照れたような笑顔を見るかぎり、やっぱり昨日のことはどうやら夢でも幻でもなかったらしい。それと同時に白石くんも、私に早く会いたいと思ってくれていたんだと思ったらもう本当に今度こそ、情けなく顔が緩んで頬に熱が集まるのが分かってしまった。白石くんはそんな私をじっと見つめてから、やんわり目を細める。


「名字さんも?」
「えっ」
「何やいつもと雰囲気違うな」


もしかして俺のため?冗談なのかからかっているのか分からない温度で言うくせに、相変わらずその瞳があまりにも優しすぎるからとても直視できず、はいもいいえも言えないままただ顔をそむけることしかできなかった。白石くんがいつも通りすぎるだなんて、全然そんなことない。どうやら本当に私は白石くんの彼女になってしまったみたいだけれど、冷静に考えたらそれってとんでもないことなんじゃないだろうか。白石くんは私のことをずっと好きだったと言ってくれたけど、それを知らずに片思いしていたただのクラスメイトだったころの態度とはあまりにも差がありすぎる。言葉やそのまなざしの端々に甘い響きを感じてしまうのは、私が白石くんに負けず劣らず浮かれているからなのだろうか。だけどもしそうじゃなかったとしても、こんなのあまりにも特別すぎて、私はこのままじゃ身が持たないんじゃないだろうかとさえ思えてくる。


「そ、そういう白石くんもいつもと雰囲気違うよ」
「ほんま?どう違うん?」
「えっと、なんかこう...いつもより柔らかいというか何というか」
「まあ、それはしゃあないやろ」
「そうなの?」
「ずっと好きやった子が彼女になってくれたんやから、そんなんもう全人類に対してぐにゃぐにゃに物腰柔らかくなるわ」


今度こそ冗談で言ったであろう言葉だったのに、私は全く笑えないどころか、ずっと好きやった子、とか、彼女、といった言葉にいちいち反応してしまう。やっぱり私は白石くんの彼女になったということで間違いないらしく、もう全てに降参してしまいたくなるような気分になった。気を取り直して、そのまま他愛もない会話をしながら3年2組まで一緒に歩き、白石くんが教室の扉を開けると、一斉にクラスメイトがこちらを見た気配がした。そして私と白石くんの姿を確認し、まるで待ってましたと言わんばかりにそのまま一気に駆け寄ってくる。


「なあ!あんたら付き合い始めたってほんまなん?」
「一緒に来たんやからやっぱそうやろ!」
「よかったなー白石!ずっとこじらせてたもんな!」
「ほんでなまえはいつから白石のこと好きやったん!?」
「おいおいお前ら、朝から野次馬根性丸出しにすな!名字固まっとるやん!」


わいわいがやがやと文字通り野次馬ばりの質問攻めに呆気にとられていたけれど、忍足くんが声を張ったおかげでほんの少しだけ場が収まる。まだまだ経緯を聞きたいらしいクラスメイトたちを散らしていた忍足くんが、目が合った私にいつも以上に太陽みたいな満面の笑顔を向けてから、席についた白石くんに肩を寄せていた。きっと白石くんは忍足くんに色々話を聞いてもらっていたのかもしれない。






「なんや、無事付き合うことになったんやな!よかったなー!」


そして唯一私の白石くんに対する恋心を知っていた隣の席の彼もしかり、開口一番笑顔で祝福の言葉を送ってくれた。そのまま手を挙げハイタッチしようとしていたけれど「あ、これからはあかんな、こういうの」すぐにその手を下ろしてしまった。


「ありがとう...なんか大騒ぎになってない?」
「そらそうやろ、明日の校内新聞の一面決定やろな」
「えっ!?それはすごく困る」
「ええやん。みんな祝福してるっちゅーことでありがたく受け取っときや」


からからとあまりに他人事のように笑う彼にちょっとだけ溜息をつきそうになる。でもそれも仕方がないかもしれないと思えた。だってみんなの人気者の白石くんだ。すごくモテるのにテニス一本でずっと彼女を作らなかった白石くんにようやく彼女が!となれば、もしも私が当事者じゃなくたってそれは興味があるし知りたくなる。そのお相手が、平凡すぎる私みたいな子だったとしてもだ。


「まあ話聞いてた身やし、友達として嬉しいわ。俺も頑張らなあかんなー」
「そういえば、連れ出し作戦は成功したの?」
「うーん。急にアンタのことそんな風には見れない!てどつかれたけどな!まあ、様子見っちゅーとこかな」


満更でもないようにうんうんと頷く様子からして、それほど手応えがなかったわけではないのだろう。純粋にほっとしていたら「まあ名字は自分の彼氏さんの心配だけしときや」そう言って小突かれて目線を向けた先で、白石くんがこちらを見ていた。目が合った白石くんは、また朝みたいな柔らかい瞳になってちょっと笑った。それだけでまたどきりと心臓を揺らしている私は、あまりにも白石くんへの恋心に振り回されてしまっている。








「なまえ、ちょっと今から顔貸し」
「えっ、何!?まさか呼び出し?」
「ちゃうわ!テニス部見に行くに決まっとるやん!」
「また財前くんの応援?」
「財前くんはな...まあ、今はええの。それより!アンタ自分の彼氏見に行く気ないん!?」


何故白石を好きだったことを黙っていたのかと昼休みに散々問い詰められた友人によって、半ば強制的に放課後のテニスコートに連行されてしまった。テニスをしている白石くんを見るのは、私が白石くんに決定的に恋心を抱いてしまった実にあの時以来で、なんだか緊張してしまう。それにやっぱり今日も相変わらずギャラリーがとても多くて、ちょっとだけめげそうになってしまったけれど「なまえは彼女なんやから堂々としといたらええの」と言った友人が私の手首を一向に放そうとしなかったために、気がついたらギャラリーの一番前まで来てしまっていた。


あの日みたいに忍足くんと白石くんが打ち合いをしていて、白石くんは私に背を向けている。パコン、と心地のいい音が響いて、忍足くんが俊足で追いつき打ち返したボールを鮮やかに拾ってラリーを続ける白石くんは、技だけじゃなくそのフォームさえも完璧を思わせるくらい綺麗で、そしてやっぱりあまりにもかっこよくて息を飲んでしまった。しばらくそのままラリーが続いていたけれど、ボールが途切れた時に忍足くんがちらりとこちらに視線を送り、白石くんに何やらジェスチャーをしている。そのまま振り返った白石くんはこちらを見て、あの時みたいに微笑んだ。そしてまたギャラリーから黄色い声が一斉に上がったけれど、私は気が付いてしまった。その微笑み方が、朝や教室で私に微笑んでくれるときと同じ笑顔だって。だからやっぱり、あの日こちらを見て笑ったように見えたのは私の気のせいなんかじゃなかったんだ。あの時もうすでに白石くんは私のことを好きでいてくれて、こんなにたくさんのギャラリーの中から私を見つけて微笑んでくれたんだ。今更そんなことを確信してしまって、私はまた胸の奥を強く握られているような、泣きたいような気持ちになって思わずフェンスを強く掴む。私、どんどん白石くんのこと好きになってる。








「待たせてごめんな」


テニス部の休憩中に白石くんから送られてきたメッセージは「一緒に帰りたいから、待っててくれたら嬉しいんやけど」と思わず笑ってしまうくらい白石くんらしい控えめなものだった。結局最後まで部活を見ていた私はこれっぽっちも待たされてなんかいないのに、少し息を切らしながら現れた白石くんは、私を見るなりすまなそうにその形のよい眉を下げる。


「ううん、全然待ってないから大丈夫だよ。部活お疲れさま」
「おおきに。見にきてくれて嬉しかったわ」


あの時以来やもんなあ、と懐かしそうに笑う白石くんに、懲りもせずまたドキリとしてしまった。本当はね、白石くん。私あの時にね、白石くんのことが好きなんだって気づいたんだ。それで、今日また白石くんのこと改めて好きになったんだよ。って、素直に言えたらどれだけよかっただろう。


「...うん。今日、改めてじっくり見たらやっぱりかっこよかったよ!その、また見に行くね」
「ほんま?惚れ直した?」
「えっ」


ははっと笑って言った白石くんの言葉はきっとまたいつもみたいな冗談だったのに、分かりやすく動揺してしまった私は思いっきり言葉に詰まってしまった。だってその通りだったから。あの時はまだ、笑ってかっこよかったよって言えた。でも、今はもうそんな気持ちをとっくに越えてしまっているから、まさに惚れ直したっていう言葉がぴったりだ。そんなの恥ずかしすぎてとても言えないけど、でもこんな反応じゃ、はいその通りですって言ってるのと同じだ。そんな感情が一気に態度に出てしまった私の様子を見た白石くんが、一瞬目を大きく開く。


「あ、あのね、そう!本当にかっこよかったよ、白石くん!さすが部長さんというか、テニスのフォームもすごく綺麗で、だから、」
「...わかった、もうええ」
「えっ?」
「俺は名字さんが怖い」
「え、ええ!?」


目を押さえながらしばらく俯いていた白石くんの言葉の意味が分からなくて、もしかして気を悪くさせてしまっただろうかと思いながら慌てていたら、ふいに顔を上げた白石くんの頬がわずかに赤く染まっていた。そしてまた、優しく目を細めて笑う。


「名字さん、俺がからかって冗談言うてるって思ってるやろ?」 
「う、うん」
「まあだいぶ浮かれとる自信はあるけど、からかってるつもりはないで」
「ほんと?」
「いつでもほんまに本気や。名字さんの前では」
「白石くん、」
「俺、ほんまに好きやねん。名字さんのこと」



昨日も言うたっけ。まあええわ。そう言いながらそのまま柔らかく私の手を掬って、昨日みたいに優しく繋いで、でもその指はしっかり絡めて捕まえて。指先からじわじわと熱が伝わってくる。白石くんの言葉の一つ一つがこんなにも甘く響くのに、容赦なく私の心臓を揺さぶってくる。白石くん、私も白石くんのこと、本当に好きだよ。どうすれば全部伝わるんだろう。恥ずかしいのもあるけれど、言葉にしてしまうよりもずっと感情のほうが重たい気がして、「...私も白石くんが好き」そう言うことしかできなかった。白石くんが私の方を見て、繋いだ手に力を込める。その時の笑顔が、いつもの笑顔に加えて、昨日夕陽の中で見た時みたいにほんの少し泣き出しそうな瞳をしていた理由をいつか教えてくれるんだろうかと思いながら、その手を握り返すことだけで精一杯だった。






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