白石くんへの気持ちをもう忘れてしまいたいのに、あの日から気が付けばますます白石くんのことばかり考えていた。放課後になって花壇の水やり当番をしながら、本日何度目かわからない盛大な溜息をつく。白石くんの好きな女の子ってどんな子なんだろう?って、好奇心というには美化しすぎた、嫉妬にも近い薄汚れた思いで気づいたら頭がいっぱいになってしまって、ほとほと自分で自分が嫌になる。


かたや隣の席の男の子は、今日も財前くんの応援に行くんだとうきうきしていた思い人にいい加減辟易しきったらしく、もはや居てもたってもいられなくなったようで、今日こそは邪魔してでも告白する、と苦々しい顔をしながら宣言していた。結局私が彼に協力できたことといったら、彼女への思いや愚痴なんかを聞く程度だったのですごく申し訳ない気持ちになったけれど、それでも充分だと言って彼は笑っていた。今頃告白しているころだろうか。あのギャラリーの中から、彼女を上手く連れ出せたんだろうか。彼の思いはちゃんと実を結んだんだろうか。


だんだんと陽が傾いてくる。そろそろテニス部は練習が終わる頃だろう。なんてまた無意識に考えてしまって、持っていたじょうろを握りなおす。あれから何度も、もう一度白石くんと話したいと思っていた。告白なんてできなくても、せめて謝るくらいは。いつかこの恋心をすっかりなくしてしまえるまで、せめて普通のクラスメイトに戻って、友人として話すくらいなら。毎日、今日こそは今日こそはと決意するのに、こうしてまた今日も何もしないまま、白石くんと目も合わないまま一日が終わってしまいそうになっている。そしてこのまま、白石くんが好きだという誰かもわからない女の子に決して明るくない思いを馳せながら、ずっと変わらない毎日を過ごしていくんだろうかなんて、ぞっとするような未来まで想像してしまう。そんなの絶対嫌なのに。私も彼の10分の1程度でいいから勇気が持てたらよかった。そしたらきっと、私もあのギャラリーの中に飛び込んで、練習しているのを見守って、邪魔はさすがにできないから部活が終わるまで白石くんを待って、部活帰りの彼を呼び止めて、それで、それで。






「…名字さん、」


それは突然幻聴みたいに響いたから、反応が遅れてしまった。あんなに耳に焼き付いていた、でも、ものすごく久しぶりの声が遠慮がちに私の名前を呼ぶ。まさかそんなはずはないと思って、でも幻だなんて思いたくもなくて、思わず振り返ったらやっぱりそこにいたのは少し息を切らした白石くんだった。白石くんは私を見ると、眩しそうに目を細めてから、ちょっとだけ笑う。久しぶりに見るその姿が、声が、笑顔が、白石くんのすべてが、あれほどああでもないこうでもないと考えていた私の心臓を、あっという間に掻っ攫っていってしまう。...やっぱり私は、まだこんなにも白石くんのことが好きだ。ほんとうに、好き。だってその証拠に、白石くんにまたこうして話しかけられて、まるで天に昇ってしまいそうになるくらいに嬉しいなんて。


「ちょっと話があるんやけど、ええかな」


じょうろを片手にしている私に気遣ってか、伺うように丁寧に白石くんが言った。じんわり滲む涙を隠そうとして、白石くんに倣って私もぎこちなく口角を持ち上げる。私、ちゃんと笑えているんだろうか。「うん、大丈夫だよ」振り絞るように答えた声は震えていなかっただろうか。白石くんはほっとしたように短く息をつくと、一歩こちらに足を踏み出した。私はじょうろを置いて白石くんを見上げる。久しぶりに白石くんと向き合った気がする。心臓が一気に騒ぎ出してうるさい。話って何だろう。あれだけ今日こそは白石くんと話したいなんて思っていながら、心の準備なんて全くできていなかった。どこを見たらいいのかわからず泳がせた視線の先で、ユニフォームの奥の白い首筋に汗が滲んでいるのが見えた。白石くんの喉が少しだけ揺れる。


「...俺な、名字さんにずっと謝りたくて」
「え?」
「あの日、おせっかいなこと言うてごめん。ほんまは、応援来てくれて嬉しかったから、また来てやって言いたかっただけなんやけど」


余計なこと言うてしもた。白石くんが自嘲気味に言った言葉は、まるで想像していなかったもので、思わず声が漏れてしまった。どうして白石くんが謝るんだろう。ずっと謝りたかったのは、謝らなくてはいけないのは、そっけない態度をとってしまった私の方なのに。


「それから何やよそよそしくなってしもて。俺、また名字さんと普通に話したりしたいねん。...あかんかな」


白石くんはまるでものすごく悪いことをしてしまった子供みたいに眉を下げて言った。呆気にとられていた私は、我に返ると慌ててぶんぶん頭を振る。やっぱりどこまでも白石くんは優しい。白石くんは全然悪くなんかないのにこうやって気にして、わざわざ私を探しにきてくれて、向き合って、私が後ろめたくならないように謝ってくれるなんて。私が好きになった人は、あまりにも完璧すぎる優しさを持っている。白石くん、そんなのずるいよ。だって、こんなの好きにならないほうがどうかしてるし、好きなのをやめることだって簡単にできそうにない。涙が再びにじみそうになってしまったのをぐっと堪えて口を開いた。


「...私の方こそ、ずっと白石くんに謝りたかった。あの時、そっけない態度とっちゃってごめんなさい。白石くんは全然悪くないよ、だから謝らないで」
「名字さん、」
「私もずっと、また前みたいに白石くんと話したかった。...それから、この間言えなかったけど、あの日、テニスしてる白石くん本当にかっこいいって思ったんだよ。だから、また練習見に行きたいって思ってた」


白石くんがあまりに優しいせいで、胸につっかえたままだった私の、ずっと言いたくても言えなかった言葉が嘘みたいにすらすらと口から転がり落ちてくる。積極的な女の子は好きじゃないとか、白石くんが好きな女の子は別にいるとか、もうそんなのはどうでもよかった。白石くんが話しかけてくれたことが、白石くんと前みたいに普通に話せていることが嬉しくて。白石くんは、ほんの少し目を見開いたまま、息を飲んだきり押し黙っていた。「だから私こそ、これからも前みたいに仲良くしてほしいです」...よかった。私、今度はちゃんとなんのぎこちなさもなく、いつもみたいに白石くんに笑いかけることができてる。






「...あかん」


黙っていた白石くんがつられて笑ってくれるかと思っていたのに、逆に眉をきゅっとしかめて俯かれてしまった。「いや、ちゃうねん、あかんことないけど。せやなくて、」思いがけない反応に思わず白石くんを見れば、一瞬目元に手を当ててから顔を上げた白石くんが、真っ直ぐに私の目を見つめた。その表情は今まで見たこともないくらい真剣なもので、思わず心臓が悲鳴をあげそうになる。白石くんから目がそらせない。表情や佇まいからはとても強い意思を感じるのに、どこか泣き出しそうな瞳の色をしているのは私の気のせいだろうか。「...あのな、名字さん」白石くんのほんの少し強ばった声が宙に浮いた。







「俺、名字さんが好きや」





ずっと前から好きやった。私の目を真っ正面から捉えて、苦しそうに言った白石くんはようやく少しだけ笑ったけれど、それはやっぱり泣き出しそうな笑顔だったと思う。白石くんが告げた言葉の意味が理解できない。空っぽになった頭に、何度も何度も白石くんの言葉だけが巡っているけれど、ちっとも飲み込むことができなかった。...だって、そんな、まさか。やっぱりこれは都合がよすぎる幻覚?だって、白石くんには好きで仕方ない子がいるはずじゃなかったの?黙ったままの私を見て、白石くんはまた苦しそうに笑う。


「...ほんまは、言うつもりなかった。名字さんのこと困らせたくなかった。でも、もう無理や」
「え...」
「ごめんな、名字さん。俺、ほんまに名字さんのこと好きやねん」


白石くんの言葉をうまく飲み込むことができない理由のひとつはきっと、告白されているはずなのに、それと同時にどうしてか白石くんから苦しそうな罪悪感を感じるからだった。どうして謝るの。困らせるって、どうして白石くんから告白されて私が困るんだろう。むしろ、夢を見ているんじゃないかってくらいにふわふわ宙に浮いた気分になってしまっているのに。でも一つだけ分かるのは、白石くんが私の返事にこれっぽっちも期待をしていないということだ。まるで最初から諦めてしまったかのように。白石くんから、好きな人から告白されて困る女の子なんてこの世にいるはずがないのに、こんなに嬉しいのに、まるで白石くんがそのまま私の返事を聞かずに去っていってしまいそうで、それを繋ぎ止めるかのように私は思わず白石くんの手を掴んでいた。


「し、白石くん!」
「...なに?」
「あの...わ、私も白石くんが好き」


声が思いっきり震えてしまったし、顔だってたぶん真っ赤になっていると思う。それでも。どんなに恥ずかしくても、もうこの気持ちを伝えない理由なんてどこにもなかった。白石くんだって、私に話しかけるだけじゃなく言うつもりのなかったはずの告白を私にしてくれた。それがどれだけ勇気がいることなのか痛いくらいよくわかってる。そして、もし拒絶されたらどうしようっていう、恐怖に満ちた思いだって。白石くんは私の言葉に、さっき押し黙ったときよりもっと驚いた表情をして固まっていたけれど、訝しげに眉をひそめてから重たげな口を開いた。


「...いや、え?やって名字さん、隣の席のあいつと付き合うとるんやろ?」
「え!?つ、付き合ってないよ!恋愛の相談には乗ってたけど」


それに白石くんだって、ご執心の女の子がいるんじゃなかったの?と負けじと言葉を返したら、しばらく呆気にとられていたような白石くんが長く長くため息をついたと思ったら「...そういうことか」苦々しく言って笑う。その笑顔はようやくいつもの白石くんに戻りかけていて、ずっと苦しそうだったその表情は、まるで長い長い緊張から解放された瞬間みたいに和らぎはじめていた。


「なんやそうやったんか...いや、めちゃくちゃ焦ったわ。ほんまあほらしな、俺」
「えっ?」
「そのご執心の女の子な、名字さんのことやわ」


一方的に白石くんの手首を掴むようだった私の手を、きちんと手と手を繋ぐようなかたちで再び繋ぎ直すと、白石くんはしばらくの沈黙の後、少しだけ姿勢を整えて息を吸いひとつ咳払いをした。その沈黙がまるで永遠みたいに長く感じた。「なあ、名字さん。仕切り直してもええ?」「う、うん」そう言って、また優しくて真っ直ぐな瞳で私を見つめるから、再び心臓が懲りもせず音を立てはじめる。白石くんに聞こえてしまうんじゃないかと思うくらいに、強く、強く。


 


「好きや。俺と付き合うてください」




はい、と答える声がぼんやり滲んでしまった。白石くんはまたとても嬉しそうに、そして少しだけはにかみながら私の目尻に滲んだ涙を掬ってくれる。あれだけ絶望していた思考が、白石くんによって一気に明るく晴れ渡っていく。もう、白石くんの姿をただ目で追いかけるのはもう終わりなんだ。これからはちゃんと、白石くんの隣で笑いあえる。名前を呼べる。まるでそれが奇跡みたいに思えて、うっかりまた泣きそうになってしまう。もしかして、白石くんもこんな風に、泣きそうな気持ちをかかえていたりするんだろうかなんて思ったら、どうしようもなく胸の奥が苦しくなった。だけどそれはもう、決していやな痛みなんかじゃない。


気がつけば夕陽が山のふもとにさしかかっていて、白石くんの色素の薄い髪の毛に夕陽が反射してきらきらと光っていた。「...きれい」思わず口に出したら「ほんまやな」白石くんも目を細めて私を見て笑ってくれる。こんなに優しくてかっこよくて素敵な人は、絶対に私には手が届かないと思っていたのに。あの日クラス分けの紙を見つめていた私に、今のこんなに素敵な未来を教えてあげたい。白石くんの隣の席になった私に、絶対に隣を譲らないでって言ってあげたい。「白石くん」「なに?」言葉にできない沢山の思いをどうにかして白石くんに伝えたいと思って、そっと優しく握られたままの手に力を込めて微笑んだら、ほんの少し頬に赤みを携えた白石くんが、...やっぱり名字さんにはかなわへんな。そう言って優しく笑ってくれた。






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