あの日放課後の教室でうっかり耳にしてしまった最悪すぎる出来事は、俺を立ち直れへんくらい地獄の底まで突き落とすだろうと思っていたのに、部活動の忙しさにかまけて、幸か不幸か身構えていたよりもダメージが少なくて済んだように思われた。というよりも、むしろ忙しさを理由にしながら、どうにかそのことについて考えないように逃げていた。その証拠に、名字さんとあいつが一緒におる姿を直視することは未だにできひん。


失恋が決定してしまったあの日の翌日、特に誰にも何も突っ込まれることはなかったのに、朝一番で声をかけてきた謙也によれば、分かりやすくこの世の終わりのような顔を俺はしていたらしい。前日目にした出来事を聞いた謙也は、これ以上ないくらいに目を大きく見開き、いや何かの間違いやろとか信じられへんとか、早口で詰め寄るように言うてきたけど、そんなん俺かて信じたくないわという俺の情けなさすぎる一言により、やっとその身を引いて押し黙った。そのまま納得できなさそうに何やブツブツ一人で言うてはった。いや、俺かてそんなん納得したくないわ。でも。


今日も今日とて名字さんはまたあいつと仲睦まじくお喋りを繰り広げている。何や前より距離が近くなったような気がするのは、やっぱり友人から恋人に昇格した証拠なのかと思ったらまた胸がじくんと痛みを増した。名字さんがあいつに笑うのを意識しないようにしているのにどうしても耳がその声を拾ってしまう。もしまた名字さんと普通に話せるようになったら、万が一あいつとの話題が出たとしても何てことない顔をして笑ってみせたい。めちゃくちゃ嫌やけど。...なんやこんなに未練がましい男やったんや、俺って。


実感してしまったらますます情けなくなる。心はまるで鎖でぐるぐるに巻かれたみたいに重苦しいのに、一向にそれが表に出なかったことが幸いだった。あれ以来名字さんとは挨拶どころか一言も口をきいていない。目すら合っていない気がする。これじゃあもう、友人どころかクラスメイト以下や。どうせこの思いが叶わないなら、せめて普通のクラスメイトに戻りたい。たぶん名字さんはまた俺が話しかけたら、驚きはするだろうがきっと前みたいに接してくれると思う。あのときは余計なおせっかい言うてごめんなって素直に謝れば、きっと許してくれるだろう。そんなことはもう分かりきってるのに、あの日の教室での光景が頭をちらつくと途端に身体も思考も停止してどうにもこうにも動けなくなってしまう自分にほとほと嫌気がさす。もう未練がましすぎて本気で笑える。まあでもそもそも、そんなに簡単に忘れられるんなら最初っからこんなに苦労してへんわ。






「ぜんっぜん集中できてへんやないか」


謙也がため息混じりに言い放つ。部活後の自主練での試合中のことだった。試合自体は俺がリードしていたけれど、いつものプレーにブレが生じていたのは自分でもよく分かっていた。謙也相手に誤魔化しなど通用するはずもなく、すまん、と苦笑いするほかなかった。謙也がギャラリーに目を向けたのに倣ってそちらを見てみれば、いつも名字さんが一緒におる女の子の姿が見えた。あの子は謙也と1年の時から同じクラスで、どうやら財前にお熱らしい。でも、当たり前やけどその隣に名字さんはいない。


「また探しとる」
「探してへんて」
「嘘つくな。バレバレやで。そんなんやったら手っ取り早くまた見にきてやーて言うたらええやろ」
「...いや、もう来おへんやろ」
「あんなあ白石。名字に直接言われたんか?彼氏がおるから無理ですーて。言われてへんやろ。そうやっていつまでも引きずってるくらいやったらなあ、もういっそ気持ち伝えてすっきりしてまえ」


謙也の言葉は相変わらず正論で、真っ直ぐ俺の心に突き刺さる。いやまあ確かにその通りなんやけど、と俺はまた重くなった心が軋むのを感じる。気持ち伝える伝えない云々は置いといて、まあ確かにもし普通のクラスメイトに戻れたなら、友人としてまた見に来てやくらい言えるようになるかもなぁ、と呆れるくらいにどこまでも消極的な思考を持て余していた時だった。



「あれ、あいつ」


謙也の声に反応して顔を上げてギャラリーを見てみれば、名字さんの友人の隣に見知った顔が現れたのに気づく。名字さんの隣の席のあいつや。女の子ばかりのギャラリーの中に真っ黒な学ランがひときわ目立つ。何であいつがこんなとこに。正直その姿を見たくない程度にはまだ辟易していたけれど、尋常ではなさそうなその様子から目を離すことはできなかった。彼は名字さんの友人と何やら一言二言言い争っていたかと思えば、そのまま彼女の手を取って有無を言わさず引きずるようにして嵐のようにどこかに行ってしまった。


「...なんや今の」


謙也がぽつりと言う。俺も全く同じことを思った。だってまるでそれは、映画や少女漫画なんかでよく見る青春の1ページみたいやった。もし漫画の中だったら、この後絶対に男のほうが、連れ去った女の子に告白する。そんな色めき立った雰囲気が間違いなく二人の間にあった。...いや、だけど、なんであいつと名字さんではなく、名字さんの友人と?やってあいつ、名字さんと付き合うてるんやないんか。頭の中にいくつもの疑問が同時に浮かんでは消えていく。


名字さんという彼女がありながらあいつまさか、早々に他の女の子に手ぇ出しとるんか?もしかして俺らとんでもない修羅場を見てしもうたんやないか。いや、さすがに早合点しすぎや。もしかしたらただの急用なだけかもしれへんし。それにしては雰囲気が確実に恋愛系統のそれやったけど、一体何がどうなっとるんや。ざわざわと色んな感情が一気に騒ぎだす。正直もう自主練どころではない。きっと俺はとんでもない顔をしていたのだろうと思う。謙也が呆れるでも同情するでも激励するでもない、複雑な表情をしながら俺を見やる。


「...なあ白石。やっぱりちゃんと話したほうがええんちゃうか、名字と」


謙也の言葉に、俺は今度こそ頷かざるを得なかった。たぶん今日のこの時間やったら、まだ名字さんは水やり当番で学校に残っとるはずや。それを察したらしい謙也が「ええからはよ行ってこい!」もはや何度目かわからない急かしを俺に入れる。せや、俺はあん時から何も変わってへん。名字さんに泣きそうな笑顔をさせてしまったあの日。名字さんに告白すると決めて地面を蹴ったあの日。結局いつだって無駄に足踏みばかりして、思いを告げるどころか謝ることすらできていないのだから。本当のことだって、名字さんの気持ちだって。何一つ分からないのは当たり前やないか。


友達のままでもいいから、もっかい名前呼んで笑ってほしいってあの時俺は願ったはずやった。絶対に名字さんを困らせないように努力するから、そんくらいのちっぽけな願いやったら、長年の片思いと引き換えに叶えたって罰は当たらへんと思う。すまん、と謙也に短く告げて走り出す。もう陽が西側に傾いて山に近づいていた。もう同じことを繰り返さないために、今度こそちゃんと名字さんに向き合うために、日暮れの校庭を走る。そして予想通り、やっぱり名字さんは校庭の隅っこの花壇の前に佇んでいた。あの日、俺が彼女に恋をした場所で。






「...名字さん、」


整わない息のまま声を振り絞ったら情けなく震えてしまった。名字さんがびっくりしたような顔で振り返った。久しぶりに正面から名字さんをちゃんと見た気がして、目が合って、懲りもせず心臓が一層大きく鼓動したのを感じる。その瞬間に俺はもう全てのものに白旗を揚げたいような気分になった。…ああ、あかん。やっぱり俺この子が好きや。どうしようもないくらいに。彼氏がおるとかおらんとか、この思いを前にしてしまえばもうそんなのは一瞬で消し飛んでしまうくらいに思い知らされる。泣きたくなってしまうようなじんわりと滲む思いを必死で堪えながら口を開いた。



「ちょっと話があるんやけど、ええかな」



未だに声が震えていたけれど、そんなの構わず俺は俺にいまできる精いっぱいの笑顔を向けた。それにつられたみたいに、また名字さんが笑ってくれたらええなって、そんな祈りにも似た思いを必死で隠しながら。







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