夕暮れの廊下をひたすらに走った。呼吸が苦しいと思うのはきっと、さっきからずっと胸の奥らへんがぎゅうとさっきから締め付けられているからやと思う。さっきの謙也の言葉が頭の中をめぐっている。散々ずるずる引き延ばして、名字さんとの関係の修復を図るのにぐずぐずしていたくせに、いざ名字さんに彼氏ができそうだというところで漸く焦り出す俺は、とにかく名字さんに伝えなければいけないことがある。もう、もし振られるならばそれでもいい。だけど願わくばせめてそれが、名字さんに彼氏と呼べる存在が現れる前がいい。彼氏がおるからごめんなさい、なんて言葉で終わりにしたくないだなんて。この期に及んで我儘すぎる願いだ。ずっと前から分かっていたけど、名字さんのことになると俺はとたんに臆病になってしまう。


いつでも賑やかな校舎が静寂に包まれる中、ぽつんと明かりの灯っている教室は3年2組だった。まだ誰か残ってるんか。いや、もしかして、もしかしたら。一縷の望みをかけてぐっとドアに手をかけて引こうとしたら、微かに、でも確かに話し声が聞こえたような気がして俺は思わず動きを止めてから耳を傾ける。その声は、間違いない。名字さんだった。


「……、でな、」
「えっ、本当に?…」


名字さんに応えるもうひとつの声は男のものだった。例の隣の席のアイツだろうか。隙間から洩れる光に従って目を細めてみれば、俺に背を向けて座っているその姿は確かに水原さんとアイツのものだった。こんな放課後の教室で、ふたりっきりで何話しとるんや。謙也が言っていたみたいに、「秒読み」なんやろか?盗み聞きなんて、とわずかな俺の理性が言うが、胸をじりじり焦がされたような俺はその声を聞き入れることなんかできなかった。聞き取り辛いその声を拾おうと、わずかに身を乗り出した時だった。






「…好き、なんやけど、…」
「……うん。喜んで、…」




はっきりと耳に飛び込んできてしまった単語に文字通り頭の中が真っ白になって、続いて目の前が真っ暗になったような気がした。なんや、やっぱり謙也の言うてたのは正しかったっちゅうわけか。どこかで、ただの噂だと否定したい自分がいたことに気づく。全身の血が頭から真っ逆さまに落ちてくるみたいだった。さっきまでの勢いはどこ行ったんやと自分で突っ込みを入れたくなるくらいに情けなく、俺はドアにかけていた手をゆっくりと降ろす。俺があんなに手に入れたかった、名字さんの笑顔がアイツに向いているのに、もう嫉妬することすら許されないのか。あいつに向ける笑顔も、鈴が鳴るような笑い声も、ぜんぶ、全部。ほんとはずっと、俺のものになればいいと思ってた。俺だけのものにしたかったのに。


今すぐ時間が巻き戻ったらいいなんてこのときほど強く思ったことはない。やっぱりせめてあのとき、すぐに謝ってたらよかった。嬉しかったからまた見に来てほしい、ってそれだけ言って、笑っていれば。苦手やとかまずは友達からとか呑気なこと言っとらんと、なりふり構わずもっと積極的に気のあるそぶりを見せていればよかったんだろうか。そしたら名字さんはアイツじゃなく俺の告白に笑って頷いてくれたりしたんだろうか。そうじゃなくてもほんの少しくらい俺のこと意識して、ただのクラスメイトなんかやなくて、ちょっとだけでも恋愛対象として見てくれてた?





どれだけそこに立ち尽くしていたかはわからない。ほんのわずかの時間だったかもしれないけれど、恐ろしく長いようにも感じた。その間じゅうずっと、数えきれないほどの後悔が情けないくらいに胸を埋め尽くしていく。だけど今更なんぼ後悔したところでもうどうにもならないのは明らかで、どうすることもできずに、そのまま背を向けて薄暗い校舎を引き返した。笑いあう名字さんの声が、いつまでも頭のなかに悲しいくらいに響いている。…俺、こんなに。ほんまに名字さんのこと好きやったんや。白石くん、と俺の名前を呼ぶ名字さんがもうずっと遠い。そしてもう戻ってくることはきっとない。あんなに友達のままでもいいと思ってたのに、いざ叶わないと知るとこんなにも苦しいなんて馬鹿げている。


好きなひとが幸せならええねん、という聖書ぶった建前と、それでもどうしても名字さんを諦めきれないと子どもみたいに泣き叫びたくなるような思いが俺のなかでぶつかりあって混濁する。だけど、もしもここで俺が自分の好意を押し付けて告白したとしても、振られるとかいう以前に名字さんは猛烈に困るだろう。きっとあの子のことだから、彼氏であるあいつに申し訳ないと思い、そしてきっと俺にも身をすり減らすようなこの上ない罪悪感を抱くだろう。困らせたいわけじゃない。それはわずかでも彼女にとってのマイナスにはなりたくないというちっぽけなプライドだった。そんなかたちで彼女の記憶のなかに残ってしまうくらいなら、どこにも告げないままこの思いを葬り去るほうがよっぽどましだ。





校舎を出て角を曲がったら花壇が視界の隅に映る。ちょうど夕陽が山に隠れて消えてしまう瞬間だった。彼女と出会った時のことがフラッシュバックしてしまって、うっかり目と鼻の奥のほうがツンと痛むのをどうにか堪える。あの日名字さんを照らしていた参ってしまうくらいきれいな夕焼けはあっという間に消えてしまって、ただ夕闇だけが虚しく俺を飲み込んでいった。






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