「白石くんに言いたかったことがあるの」



そう言って俺を見つめるなまえの目に、うっすらと涙が滲んだ跡があったから、今度こそ本当に罪悪感に押しつぶされてしまうかと思った。そのまま押しつぶされてしまえばよかった。そのまなざしは真剣そのもので、もう全てを諦めるしかないと悟った。こんなはずやなかった。そんなつもりじゃなかった。今更そんなこと言ったって、全部言い訳にしか聞こえへんけど。


思っていることがあるなら何でも言ってほしいと言われたあの日に、なまえはきっと俺の態度がおかしいことにすでに気がついていて、でもそれ以上追及することはなかった。俺はそれに甘えて、本当のことを告げることはやっぱりできなかった。このままじゃいつかきっと手遅れになると分かっていて。


なまえはいつだって俺の心臓を平気で鷲づかみする。俺を見て笑う表情やしぐさ、発する言葉の端々すべてが、俺のことが好きだと伝えてきて、その度にどうしようもない気持ちになる。水族館のチケットを親戚に貰ったなんて嘘だ。水族館が好きだと言っていたから、休日の部活帰りに窓口まで行って2枚分買った。なまえの喜ぶ顔が見たくて。チケットを渡してデートの誘いをしたら、なまえがありがとう、楽しみ。と言って笑うから、その笑顔に触れたくなってまた苦しくなった。




どこか静かなところで話したいとなまえが言って、しばらく歩き回っていたけれど、土曜日のカフェやレストランはどこも混んでいて静かな場所は見つけられそうにない。なまえがふと見上げたのは大きな観覧車で、列はそこまで伸びてはいなかった。「...乗る?観覧車」そう尋ねたら頷いたので、そのまま列に並んだ。並んでいる間ずっと、なまえも俺も何も言わなかった。しばらくしてから乗り込んで、向かい合わせに座ったら扉が閉じて、完全に二人きりの空間になる。ゴンドラがゆっくりと地上から離れてゆくのを見ていた。再び地上に戻ってくるまでに、俺はなまえからどんな言葉を聞くんだろう。









なまえは黙ったままで、膝の上でぎゅっと拳を握っていた。初めて見た、花柄のワンピース。きれいな色のパンプスもよく似合ってる。いつもはあまりしない化粧をして、ピンク色の唇が潤んでいるのを、こんなときでもずっと目が離せない。


今日、小走りで待ち合わせに現れたなまえはめちゃくちゃ可愛かった。照れるのをごまかすために、俺のため?なんていつもの調子を装いながら言ってみたのに、返ってきたのは思いがけない肯定の言葉で、今度こそ頬が熱くなるのをどうしても隠しきれなかった。


水族館ではしゃぐなまえが可愛くて、その肩を抱き寄せてしまいたい衝動にかられるのを我慢した。クラゲのコーナーで、水槽に顔を近づけ夢中になっている横顔がきれいで、水槽を覗くふりをして何度も見つめていた。ふいに視線を感じて、顔を向けたらなまえが俺のほうをじっと見ていて、もしかしてこっそり見つめていたのがばれたかと思って内心どぎまぎしながら問い詰めてみたら、白石くんがきれいだと思って、なんて言ってまた照れたように笑うから、今度こそ心臓がぎしりと大きな音を立ててきしんだ。そしてその細い腕を引き寄せて、暗がりのなかでもよくわかるほど、俺を誘うように色づく唇にキスをしていた。



ーー俺はちっともきれいなんかじゃない。汚い欲望をきちんと飼い慣らすこともできないまま、無邪気に笑うなまえの横でいつだって本心を誤魔化すように笑ってる。きれいなのはなまえのほうや。俺のことを、純粋に好きでいてくれるなまえのほうがよっぽど。ゆっくり顔を離したら、しばらく目を見開いたまま固まっていた顔があっという間に火がついたように真っ赤になって、視線をうろうろと泳がせているのを見た瞬間に、思い切り頭を殴られたような感覚がした。そしてぐらりと眩暈がした。


ごめん、と呟いたのは、水に垂らしたインクのようにじわじわと広がっていく罪悪感をどうにかして消したかったからだ。家で勉強会をしたあの日、口の端に触れようとした時に少しだけ身体を強張らせたなまえを見て、どんなに苦しくても、辛くても、絶対に自分の欲を身勝手に押し付けるような真似はしないと誓った。それなのに今日、衝動に任せてうっかり触れてしまった唇が思ったよりずっと柔らかかったことや、ほんの一瞬触れただけの唇にいまだに熱が宿っていて消えないこと。自分がどれだけなまえに触れたかったか。キスひとつで顔を真っ赤に染めるのを見て、自分の欲望がやっぱりひどく汚いものだということをまざまざと見せつけられたような気がした。どうしたって結局いつも、自分のなかの本能と理性のせめぎ合いを思い知らされるだけで、








「あのね、白石くん」



落ちる沈黙がまるで永遠のように感じた。窓の外に目をやるとずいぶん高いところまで昇ってきている。あかん。いい加減何か言わないと。意を決して息を吸ったのと同時に、なまえが笑顔を作って顔を上げたから、思わず呼吸を止めてしまった。


「私、白石くんが初めての彼氏なんだ」
「......え?」 
「だから、あんまりうまく出来ないこともたくさんあるし、知らないうちに白石くんのこと、困らせたりしてるかもしれない...でも、」


膝に置かれたまま握られている拳はわずかに震えているように見えるのに、なまえは笑顔を崩さなかった。どうして、


「私、白石くんが好きなの。本当に好き。だから、手を繋いでくれるときはいつだって嬉しいし、その。さっきキスされたのも、びっくりしたけど嫌じゃなかったよ。だから」


なまえの笑顔が泣きそうに歪んだ瞬間、胸の奥が抉られたように痛くなる。なんで俺は、こんな笑顔させてるんやろ。俺が見たかったのは、守りたかったのは、こんな痛々しい作り笑顔なんかじゃなかったはずやのに。なまえが涙を見せないことが、俺をちっとも責めないことが。ひどく悲しくて、苦しくて、そして寂しかった。




「ごめん、なんて言わないで」




ああ、もしかして。俺はずっとこんな思いをさせてきたのか。ぎこちない笑顔を向けながら、くだらないプライドを守って、言い訳をして、傷つくことや傷つけることばかり恐れて、結局こうして傷つけて。口では好きだと言っておきながら、本当のことを言ったら離れていってしまうんじゃないかと思うのは、なまえを信用していないのと同じことなのに。





「なまえ、ごめん」


さっきキスしたときみたいに、腕をつかんで引き寄せて抱き締めた。ゴンドラがぐらりと揺れて、小さく息を飲んだなまえが少しみじろいだけど、構わずさらに腕の力を強くする。



「ごめん、ほんまに」



謝らないでと言われたばかりなのに、それ以外の言葉が出てこない。俺が本当に怖かったことが、ようやく分かったような気がする。しばらく固まったままだったなまえがそっと俺の背中に手をまわして抱きしめたらやわらかくて花のような匂いがして、無性に泣いてしまいたいような気持ちになった。しばらく抱きしめてからゆっくり身体を離して、手をとって正面からまっすぐに見つめたら、その瞳の中に、ずいぶんと切羽詰まったような表情をした自分が頼りなげに映っていた。ほんまに、めっちゃ情けないしかっこ悪い、でも。


「なまえが言ってた通り、俺、ずっと隠してたことがある。全部正直に言うわ」
「...うん」


頷いたなまえの表情は少しほっとしているように見えるのに、声はまだ硬い。きっと聴きたくない話だと思っているのかもしれない。それを少しでも和らげたくて無理やり口角を上げてみたけれど、その表情が変わることはなかった。


「俺な、一緒にいるとなまえに触りたくてしゃあない。もっと抱き締めたいし、いろんな顔も見たい。でもそれが俺の独りよがりで、嫌われたらとか、拒否されたらとか。そんなんばっか考えとった」


しょうもないやろ、引いたよな。そう言って笑ったら、わずかに目を見開いて俺の話を聞いていたなまえが、我に返ったかのように瞬きをした。視線を一瞬揺らして頬を染め、ぎゅっと口を引き結んでから躊躇いがちに口を開く。


「そんな...引かないよ、付き合ってるんだから。私だってそういうこと、考えないわけじゃないし...」
「なまえ」


なまえの言葉を遮った自分の声が、まるで小さな子どもを諭すみたいに聞こえた。再び俺を見つめた瞳に、さっきとは違ってわずかに熱が宿っていることに少しだけ安堵したけれど、やっぱり。小さく笑ってから息を吐く。


「俺、ほんまは。今日のデート誘ったとき、水族館の後、俺んち寄っていかへん?て言おうとした」
「えっ」
「昨日の夜から、うち誰もおらんねん。明日の夕方まで」


今度こそなまえの顔に分かりやすく緊張が走る。俺は自嘲するように息を吐いてなまえを見つめた。「意味わかる?」なるべく穏やかに言おうとした言葉が思いのほか冷たく響いてしまった。俺を見つめている純粋すぎる瞳が、ゆらりと揺れる。


「なまえが思ってるよりずっと、えげつないこと考えとるんやで。俺は」


なまえは何も言わなかった。何も言わずにただ黙って、握られた手を見つめている。このまま手を離されてしまったらどうしよう。無意識に握る力が強くなっても、なまえはふりほどくこともせずに黙ったままだった。


「わかってる。なまえはそこまで考えてるわけやないって。無理強いとかは絶対せえへん。でも、一緒にいるとすぐ抱き締めたくなったり、キスしたいって思ってしまうのはもう、どうしようもできひん。ごめんな」


すらすらと口をついて出てくる言葉さえ、白々しい言い訳と弁護に聞こえる。じわりと首筋に嫌な汗が滲んだ気がした。頼む。幻滅されてもいい。呆れられても。でもお願いやから、拒絶しないでほしい。そんな祈りにも似た思いは言葉になんかできなくて、心の中で握りしめたまま俺も俯く。しばらく二人とも黙り込んだまま、何も言わなかった。ゆっくりとゴンドラが傾いてゆく。









「白石くん」



それからまたずいぶん長い沈黙が流れて、なまえが顔を上げて俺の名前を呼ぶ。その瞳にはさっきとは違って、強い意志のようなものを感じて思わず心臓がどきりと跳ねた。「なに?」そう答える自分の声は情けなく震えていた。




「行こう、白石くんの家」




思わず目を見開いて固まる。いま、なんて言った?聞き間違いか、俺の。「......は?」掠れた声で呟くのがやっとだったのに、なまえはにっこりと微笑んでいる。握った手のひらにじわりじわりと汗が滲んでいく。


「俺の話、ちゃんと聞いとった?」
「うん」
「自分が何言うてんのかほんまにわかってる?」
「わかってるよ」
「こないだみたいに、真面目な勉強会するわけやないんやで」


なまえが再び俺の目をじっと見つめて、ゆっくり頷いた。どくんどくんと、心臓がうるさく鳴っている。あかん、いや...でも。ほんまのほんまに俺とおんなじ意味で言ってるのかどうかは、まだ分からへん。早とちりしてしもうたらあかん。さもないと、今度こそ本当に取り返しのつかないことになると、ずっと頭の片隅に聞こえていた警告音がいまはうるさいくらいにガンガン鳴り響いている。


「ちゃんとわかってる。白石くんの言ったこと」
「せやったら、」
「白石くんが、私のこと大好きなんだってことも」
「なまえ」
「言ったでしょ。私だって、白石くんのこと大好きだから」


だから大丈夫。行こう。そう言ってぎゅっと俺の手を握るそのてのひらが熱くて、ごくりと唾を飲み込んだ音がやけに大きく響いてしまったような気がする。


もう一度口を開こうとしたその瞬間に、ゴンドラが地上に着いてゆっくりと扉が開かれた。先に降り立ったなまえが振り返って、微笑みながら再び俺の手をとる。俺の大好きないつもの笑顔だった。繋がれた手はさっきキスしたときの唇みたいにじんじんと熱くて、強く力がこめられるのを、何も言えないままただ見つめていた。






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