白石くんが私のことをなまえと呼ぶようになってからしばらく経った。初めは白石くんが私の名前を呼ぶたびにいちいち心臓を波打たせていたけれど、白石くんは私が思っていた以上に頻繁に私の名前を呼ぶ。しかもまるでとても大切な言葉を囁くみたいな呼び方をするものだから、なんだか自分の名前がものすごく特別なものになったみたいだった。


一方で白石くんは、あの日以来やっぱりどこかぎこちなくなる瞬間がある。でもそれは、もしかしたら本人すら自覚がないんじゃないかと思うくらいふとしたときで、一緒に帰ったり遊びに行ったりするときは普通なのに、私の肩が白石くんの身体にぶつかりそうになったり、そっと手を繋ぐ瞬間とか。決まって私に触れるときに、一瞬だけわずかに白石くんの身体が強張るのが、嫌でも分かってしまうようになった。


やっぱり、あのとき。もともとどこかよそよそしさは感じていたけれど、あの日白石くんの部屋で勉強の息抜きをしていたとき。白石くんの指が私の口元に触れそうになった時に、思わず身体を震わせてしまったことがたぶん決定打だった。私はいまだに白石くんが私に対して思っていることや悩んでいることを察することができなければ、気の利いたことのひとつだって言えないし、白石くんが本音を言ってくれない以上、どこまで踏み込んでいいのかもわからない。白石くんに信頼してもらえるような彼女にはきっと程遠いんだ。大切にされているのは分かっているのに、そんな暗い思いばかりが胸の中で勝手にどんどん膨らんでいく。











「水族館?」
「うん。好きそうやなと思って」


ある日いつもの帰り道で白石くんが差し出してきたのは、親戚からもらったという2枚のチケットだった。少し前にオープンして気になってはいたけれど、まだ行ったことのない水族館。もしかして私が前に水族館が好きだと言ったことを覚えていてくれたのかもしれない。


「ありがとう!ここ、行ってみたかったんだ」
「よかった。ほんなら今度の土曜は?なんか予定ある?」
「ううん、あいてる。楽しみにしてるね」


そう言って笑ったら、白石くんもふっと目を細めて優しく笑った。本当に、白石くんの一挙一動で私の心はあっという間に沈んだり浮き上がったりする。白石くんはそのまま私の手を掬ってぎゅうと力を込めた。その力がいつもより少しだけ強い。どうしたんだろうと思って白石くんを見上げたけれど、やっぱりいつもみたいな笑顔で笑っているだけだった。


「楽しみやなぁ。水族館ってめっちゃデートみたいやない?」
「もう何度もデートしてるのに」
「はは、まあそうやけど。何か定番っぽくてええなぁと思って」
「白石くん、意外とベタなの好きだよね」
「王道は王道って言われるだけの理由があるんやで」


まあ、なまえと一緒やったらどこ行っても楽しいけど。さらりとそう言って笑った白石くんのそれは、あまりに完璧すぎる彼氏のセリフだった。白石くん、そのセリフも王道だよ。と言いながら、熱くなっていく頬を隠すので精一杯だった。ああ、ほらまた。ここで、私も一緒にいられるだけで嬉しいとか、そういう可愛げのあるセリフひとつくらい言えたらよかったのに。そんな私の様子に気がついていないらしい白石くんは、私の言葉に声を上げて笑ったけれど、しばらくすると少し考え込むようなしぐさで足元を見つめる。


「......なまえ」
「うん?」
「土曜日、水族館まわり終わったら、」


白石くんは何故かそのまま言い淀んで言葉を飲み込んだ。一瞬流れた沈黙と同時に繋がれた手の力がまたほんの少しだけ強くなる。なに?と続きを促してみたけれど「いや、夕飯もどこかで一緒に食べてから帰れる?って聞こうとしてた」そう言って笑うだけだった。いまの笑顔、ふいに見せるあのぎこちなさと一緒だ。また心臓がずきりと痛くなる。白石くん。いま本当は、何か別のことを私に言おうとしたんじゃない?そう言いかけた言葉を飲み込んで「うん、わかった。夕ごはんいらないって言っておくね」そう言って何でもないふりをして笑った。


どうして白石くんのいつもと違う様子が、こんなに分かってしまうんだろう。好きなんだから仕方ないけど、結局何もできないなら分からない方がずっとよかった。精一杯の知らないふりが、気づかれないようにちゃんとできていますように。そう願いながら、つながれた手とは逆の手で制服のスカートのはじっこをぎゅっと握りしめることしかできなかった。









そして土曜日。買ったばかりの花柄のワンピースを下ろす。髪の毛もいつもの3倍くらい時間をかけてちゃんとブローした。歩いても痛くなくて、見た目も可愛いパンプスを履き、男ウケするメイク!とかいう特集の雑誌を参考にしてメイクもしてみた。ちょっと奮発して買った可愛いピンクのリップを塗って、何度も何度も鏡の前で確認してから家を出る。大丈夫だ、今日はきっと。せっかくの水族館デートだし、なにより白石くんに釣り合うような、白石くんを満足させることができるような彼女に少しでも近づきたい。待ち合わせ場所に着いたら、もうすでに白石くんは到着していた。私が駆け寄るのに気がついて顔をあげた白石くんは、私を見て少しだけ目を見開く。


「ごめんね、白石くん!待たせちゃって」
「…いや、俺が早く着いただけやから」
「ほんと?それならよかった」


少し走ったせいで、せっかく整えた髪の毛が乱れてしまったかも。白石くんは私をまじまじと見つめたまま何も言わずにいる。もしかして、失敗だった?勝手に雑誌や何やら参考にしてみたけれど、白石くんの好みじゃなかったのかな。心臓がぐらりと揺れそうになる。いや、だめだ。これくらいのことでへこんでいたら。私は、白石くんに釣り合うような素敵な彼女になるんだから。「白石くん?」いっこうに何も言わないままの白石くんの顔を覗き込むように声をかけたら、はっとしたような白石くんがいつもみたいに優しく笑った。


「すまん。めっちゃおめかししとるやん、今日」
「うん...あの、何かおかしいところある?」
「ううん。かわええ。もしかして俺のため?」


よかった。どうやら失敗したわけじゃなかったみたい。ほっと胸をなでおろしたのも束の間、前にも聞いたことがあるセリフを、あの時と同じ温度で白石くんが言う。あの時はからかっているのかそうじゃないのか分からなくて、照れて別の方向を向くことしかできなかったけれど、今日の私はもうあの時とは違うんだ。少しだけ汗ばむてのひらを握りしめる。ぐっと喉を鳴らしてから顔を上げて、白石くんをまっすぐに見つめた。


「そうだよ」
「...えっ」
「白石くんとデートだから、頑張っておめかししたの」


そう言いながら笑って白石くんの手に自分の手を重ねてぎゅっと握った。今度こそ白石くんが目を見開いたまま固まって、空いた方の手で口元をおさえたと思ったら、そのままそっぽを向いてしまった。この反応も、前に見たことがあるような気がする。白石くん、と声をかけたら、ほっぺたの端を真っ赤にした白石くんが、横を向いたままはあと大きくため息をついた。


「...ほんま怖いわ、なまえ。なんやパワーアップしとる気がする」
「え?なにがパワーアップ?」
「何でもない。ほら、早く行こ」


白石くんが何か呟いたけれど、意味があんまりよくわからなかった。でも、繋いだ手をゆるく引っ張った白石くんが、いつものように目を細めてから笑ってくれたので、まあいいか、と思ってしまう。白石くんがいつもみたいに笑ってくれるだけでこんなに安心する。良かった。一瞬焦ったけれど、出だしはすごく好調だ。今日はこの調子で、あの胸がすくんでしまうような、ぎこちない瞬間を作らずに過ごしたい。白石くんの隣に並んで歩きながら微笑んだ。









土曜日の水族館は家族連れやカップルで賑わっていて、オープンしてしばらく経っても人気があるようだった。ペンギンが泳ぐ様子やイルカのショーは運良く近くで見ることができた。目の前に広がる大きな水槽を見上げて、二人でイワシの群れを目で追いかけたり、頭の上を大きな影を落としながら悠々と泳ぐエイの姿を見て、私はまるで小学生が遠足に来たかのようにはしゃいでいた。そんな私の様子を見ながら白石くんも楽しそうだった。フードコートでご飯を食べたり食後のソフトクリームを交換こしたり、本当に定番のデートみたい。



「見て、白石くん。クラゲだよ」
「ほんまや。めっちゃきれいやな」


館内を全て周り、一番最後の閲覧室はクラゲのコーナーだった。様々な形をした水槽が置かれた小さな部屋がいくつか連なっている。照明が落とされた部屋のなかで水槽だけがライトアップされていて、ふわふわと水中を揺蕩うようにたくさんのクラゲが踊っている。まるで別の世界にいるみたい。そっと水槽に近づいてみると、弾かれたようにクラゲが素早く宙を舞う。


「あ、驚かせちゃったかも」
「はは。ここ、あんまり人おらんからなぁ」


小さな部屋がたくさんあるせいか、水族館メインのアシカショーが始まる時間が近づいているからか、さっきまで沢山あった人影は見られず、気が付いたら白石くんと私の二人だけになっている。静かな音楽が小さく流れていた。貸切みたい、と思わず呟いたら、めっちゃ贅沢やな。と言った白石くんが静かに笑う。二人で覗きこんだ水槽はライトアップで照らされていて、幻想的な光がぼんやりと白石くんを映し出していた。...きれい。その整った横顔を思わずじっと見つめてしまった。本当に、こんなにかっこよくて優しい人が私の彼氏だなんて、いまだに信じられない。視線に気づいた白石くんがこちらを見て少し首を傾げた。思ったよりも至近距離で目が合って、どきりと心臓がゆれる。


「ん?」
「あ、ううん。何でもない...」
「なに?気になるわ」


何でもないよと言い張る私に対して、いいから言ってみてと意地悪く笑う白石くんは、こうなったら正直に言わない限り諦めてくれない。そして私がそれにとても弱くて、結局いつも観念して白状させられてしまうことももう分かってる。私もこんな風に問いかけ続けたら、本当の気持ちを言ってくれたりするのかな。さっきまですっかり忘れていた暗い思いがまた胸を覆いかけるのを振り切るように、曖昧に笑いながら口を開いた。


「あの、きれいだなと思って」
「え?」
「ライトアップされた白石くん。すごくきれいだったから...」


男の人なのにきれいなんて言われても嬉しくないよね、ごめん。と言って次の水槽に移動しようした私の腕を、白石くんが引き留めた。掴まれた腕から伝わる手のひらがとても熱くて、思わず白石くんを見上げてしまう。白石くんは真面目な顔をしたままじっと私を見つめていて、心臓がまた大きく波打った。こんなに真剣な目をしている白石くんを見るのは久しぶりかも。だっていつでも白石くんは私に対して、慈しむような優しい笑顔を向けてくれているから。そう、白石くんのこんな瞳を見るのはあれ以来だ。私に告白してくれた、あのとき。


「なまえのほうがきれいやで」
「え?そ、そんなことないよ」
「ーーなまえ、」
「なに?白石く、」


白石くんが呼んだ私の名前が掠れていて、いつもより少しだけ熱っぽく感じた。掴んでいた腕を思い切り引き寄せられる。そのまますぐに視界が暗くなって、唇に柔らかくて熱いものがそっと優しく触れた。目を瞑る暇もなくて、すぐに離れていったそれが一瞬だったのかどうかも分からない。ゆっくりと顔を離し、伏せていたまつげを上げた白石くんが今までにないほど近い距離にいる。そしていつもみたいに、でもどこか苦しそうに一瞬だけ笑った。


白石くんが私の腕を離しても、私はなにも言えないまま白石くんを見つめていた。ーーもしかしていま、白石くん、私にキスした?そう自覚してから一気に顔が熱くなって、そのまま顔から火が出そうで、思わずばっと顔を伏せる。あちらこちらに目を泳がせながら、まるで全身が心臓になったみたいに鼓動がうるさい。どうしよう。何か言わなきゃ。でも、なんて言えばいいんだろう。しばらくじっとなにも言わずにいた白石くんが、かたく強張った声で呟くようにぽつりと言った。







「......ごめん、」





その言葉に思わず顔を上げる。白石くんがあのぎこちない表情で眉を下げながらこちらを見ていて「そろそろ出よか、」そのままふいと背中を向けてしまった。


ーーどうして謝るの。私、またなにか間違えた?急にキスしてごめん、っていう意味?それとも、キスしてしまったこと自体、謝らないといけないことだって白石くんは思ってるの?また胸の奥が痛くなって、じんわりと涙が滲んでくるような気がする。まるで火傷をしたみたいに、熱を移された唇がまだじんじんと痺れるように熱くて痛い。







「白石くん、待って」




白石くんは振り返らない。いつもなら、私が名前を呼んだらいつだって笑って振り向いて、追いつくまで待っていてくれるのに。いつもあんなに近くにあった背中がいまはとても遠い。引き止めるための声が詰まって、にじみかけた涙をどうにか飲み込む。つん、と鼻の奥が痺れるみたいに痛かった。閲覧室を抜けて一気に視界が明るくなって、気がついたら出口付近まで来ていた。人ごみに遮られたおかげで、ようやく速度を落とした白石くんにやっと追いついて、そのまま手首を掴む。白石くんが足を止めた。


「なんで謝るの?」
「……いや、」
「ごめんって...どういう意味のごめんなの?」
「それは、…」
「私にキスして、ごめんっていう意味?」
「ちゃう!」


勢いよく振り向いた白石くんの声が思いがけず大きくその場に響く。白石くんが私に対してこんなに大きな声を出したのは初めてで、思わずびくりと肩が震えてしまった。ハッと我に返った白石くんがばつの悪そうな表情をして黙り込む。昼下がりの平和な水族館に似つかわしくない私たちを見て、なんだなんだと周りの人たちが遠巻きに囁いているのが聞こえてくる。


私が見て見ぬふりをしていたくて、いつか解決するかもしれないと思って、わからないふりをしたかったことが。形を留めておきたかったものが、ガラガラと崩れていく音が聞こえる。「ーー白石くん、私ね」それでも、白石くんの手を離したくない。握る手にぎゅっと力を込めた。





「ずっと白石くんに言いかったことがあるの」





白石くん。私、きっと白石くんが思ってる以上に白石くんのことが好きで、白石くんに似合うような素敵な彼女になりたかった。でも、きっとこのままの私たちじゃそんなのは無理なんだ。もう、どんな結果になったとしてもしかたないって観念する。だから、私に対してはいつだって本気だって、本当に私のことが好きだって、そう言ってあの日優しく笑ってくれた白石くんを、まだ信じていてもいい?







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