最近、白石くんの様子がおかしい。いつも向けてくれる柔らかくて優しい笑顔とか、一緒に帰るときに繋いでくれる手の温度とか、さりげなく車道側を歩いてくれる優しさとか、そういうのは全く変わらない。変わらないのに、どこかよそよそしく感じるような瞬間が確かにある。


今日だってこうして、初めてお邪魔した白石くんの部屋でふたりで向き合いながら、いつもと何も変わらない様子で白石くんは笑っているけれど、その笑顔にはやっぱりどこか翳りがあるように思えた。私はぎゅうと拳を握りしめて重たい口を開く。


「白石くん、あの」
「ん?なに?」
「私になにか、言いたいこととか...ない?」


まるで面倒くさい彼女の代表みたいな私の言葉に白石くんは、なんもないで、と言っていつもみたいに笑った。でもその目元がまた僅かに翳ったことに気がついてしまったから、またどうしようもないような気持ちが心臓の奥でぐしゃぐしゃに丸まっていく。やっぱり白石くんが、本当は私に何か言いたいことがあるんだって確信してしまった。


ほんとうは気づきたくなんかなかったし、このまま見ないふりをしていたかった。でももしも白石くんが私に言いたいことがあるのに、ずっと言えずに苦しい思いをしているなら、そっちのほうがよっぽど悲しい。いっそ何もかも吐き出してほしかった。例えその言葉が私の聞きたくないような内容でも、あんなに優しくしてくれる白石くんが私のことで苦しい思いをし続けるよりも何倍もいいと思って。だけど白石くんが何にもないって笑うから、私はそれ以上踏み込むことができなくなってしまう。まるでテニスコートのラインのように、丁寧に丁寧に境界線を引かれてしまったみたいだ。


「名字さん、ちょっと休憩しよか。持ってきてくれたバウムクーヘン食べよ」
「うん。私も手伝うよ」
「ええから座っとって」
「でも、」


すぐ戻ってくるから。立ち上がろうとした私を柔らかく制してから白石くんは部屋を出ていってしまった。とん、とん、と階段を下る軽いリズムがやけに遠く感じる。しんと静まり返った部屋を見渡して、私は思わず深くため息をついた。心はこんなに距離を感じているのに、白石くんのにおいがいつもよりずっと近く香って、また泣き出しそうな気持ちになる。


私はものすごく浮かれていたと思う。付き合ったあの日からずっと。そして今回、初めて白石くんの家に来ないかって言われた時は、本当に嬉しかったしどきどきして。何を着ていこうか、何を手土産にしたらいいか、どんな風におうちの人に挨拶したらいいか、色んなことを考えながら楽しみにして、まるで心臓が浮いたみたいにずっとそわそわしていた。そして今日、白石くんの家の近くの駅で待ち合わせしたときや、玄関のドアが開いた瞬間、おうちの人がいないと聞いたとき。いつだって私の心臓は白石くんのせいでせわしなかった。この空間に白石くんと二人きりという事実に思いっきり動揺してしまったことには、きっと白石くんは気づいていないだろう。そしてきっと、いつもより近いその距離や、たまにぶつかってしまう細くて綺麗なのにごつごつしている男の人の手に、ずっとどきどきしてるのも私だけだ。そんな風に浮かれきってばかりいたから、白石くんが私に言えない思いを一体いつから抱えていたのかもわからない。


どうして言ってくれないんだろう。そんなに言い出し難いこと?私を傷つけるかもしれないから?白石くんに言いたいことがあるのはむしろ私のほうだと思う。言いたいことがあるなら言ってだなんて、白石くんに詰め寄る資格なんかもしかしたらないかもしれない。本当に私のことが好きだと言ってくれたあの日の白石くんを信じたいのに、本当は今でも白石くんと付き合っていることが、もしかして全部私に都合のいい夢なんじゃないかって思うときがある。



「お待たせ。紅茶でええか?」
「うん。ありがとう白石くん」


そんなことを考えているうちに白石くんがお盆を片手に戻ってきたから、広げていた参考書をよけてテーブルの上にスペースを作った。湯気と一緒に紅茶のいいにおいがふんわりと漂う。


「私まで頂いていいの?おうちの人に持ってきたのに...」
「いいに決まっとるやん。まだじゅうぶん残っとるし。それに、俺が名字さんと一緒に食べたいねん」


そんな風にまた目を細めて言われてしまったら、黙って頷くしかなくなってしまうから、本当にずるい。頬に集まる熱に気づかないふりをしながら、いただきますと手をあわせて、一人分に切り分けられたバウムクーヘンを口に運ぶ。じんわり広がる甘さが優しかった。お母さんに聞いて、ちゃんといいところのを買ってきてよかった。


「うん、めっちゃ美味い」
「本当だね。口に合ってよかった」


きっとみんな喜ぶわ、ありがとな。白石くんが私だけに向けてくれるその優しい笑顔で言うたびに、心の奥が切なくきしむ。いつもと変わらずこんなに優しいのに、白石くんが何もないって言ってるのに、それを信じることができない自分がひどく情けなく思えて恥ずかしかった。ふいに流れた沈黙を、ふっと思わず吹き出したような白石くんの笑い声が破る。


「ついとるで。口の端っこ」
「えっ、ほんと?どこ?」
「もうちょい下や」
「とれた?」
「そっちやなくて、...」


恥ずかしさにあわてて口元を擦る私に、見かねた白石くんが手を伸ばしたから、今度は今までとは違う感覚で心臓が一瞬で大きく跳ねる。何の気なしに伸ばされたであろうその手は、いつもの白石くんの、でもちゃんと男の人の手だ。その手がいま目の前に伸ばされて、もう少しで唇に触れそうになっていると思ったら、身体が勝手に反応して思わず身構えてしまった。白石くんの瞳が僅かに揺れる。あ、と思う前に白石くんはそのままその手を引っ込めて、トントンと自分の口元を指差す。


「こっち。そう、もうちょい左や」
「...ここ?」
「あ、とれたわ」


意外とうっかりさんやな、そう言って笑う白石くんの笑顔が張り付けたように見えるのは、きっと気のせいなんかじゃない。そしてそれに応える私の笑顔も、ちゃんと作れているかわからなかった。私、いま、たぶん間違えた。白線が完全に引かれてしまった。その後も白石くんが会話を繋いでくれたのに、何を答えたのか全く覚えていない。


だけど、どうしたら正解だったんだろう。白石くんと二人きりの部屋で、いつもより近くて。それだけで緊張してしまっていたのに、いつもと違うところに白石くんの手が触れようとしていたら、意識しないほうがおかしいしそんなの無理に決まってる。だって私はもう、白石くんのことを好きすぎるくらい好きになってしまったから。でも、そんなことでいちいち動揺してどきどきしてるのなんてきっと私だけだ。そう思ったら余計に恥ずかしくなってくる。白石くんに、本当の気持ちひとつ言って貰えないくせに。





「あ、もうこんな時間や」
「ほんとだ。私、そろそろ帰るね」
「送ってくわ」
「大丈夫だよ、駅まですぐだし」
「ええから。送らせて」


本当は今すぐ一人になりたかったけど、白石くんはきっとそれを許してくれないって分かっていたから、そのまま申し出を受けて頷く。白石くんと一緒にいるときはいつだって幸せで嬉しくて、少しでも長く一緒にいたかったのに、今は早く一人になりたいだなんて一瞬でも思ってしまった自分に落ち込みそうになる。


「今日は本当にありがとう」
「こちらこそ来てくれてありがとう。次のテスト、期待しとるで」
「白石くん、先生みたいだよ」
「いい点とれなかったら罰ゲームやからなぁ」
「えっ、本気だったの?」 
「当たり前や。いつでも本気やって言うたやろ?」


白石くんの瞳がちらりと光を帯びたような気がして懲りもせずまたどきりとした。名字さんのことに関してはいつでも本気やで。そう言っていたあの日の白石くんを思い出す。白石くん、それって今も本当にそう思ってくれてる?決して言えるはずもない思いが、黒い霧みたいに私の心を過っては消える。


「大丈夫だよ、白石くんが教えてくれたんだもん」
「ほんま?そう言ってくれたら嬉しいわ」
「いい点とれたらお礼するね。何がいい?」
「名字さん、それじゃいい点とれてもとれなくても自分に不利やで」
「あっ、それもそっか」
「気にせんでええのに」
「でも、ちゃんと勉強教えてくれたお礼はさせてほしいよ」
「バウムクーヘン持ってきてくれたやん」
「あれはおうちの人へのお土産だから」
「んー...せやなあ、」
「何でもいいよ」


大袈裟に考えるポーズをとった白石くんがおかしくて、いつものやりとりができていることに安心して、思わずふふと声を出して笑ってしまった。コンビニのお菓子とかジュースとか、購買のパンとか、それとも食堂の定食かな。もし何も思い付かないと言われたら、また白石くんのおうちにお邪魔させてもらえる時にもっと豪華なお菓子を持っていってもいいかもしれない。...もし、またそんな素敵な機会があったらだけど。だんだん人通りが多くなってきて、駅の改札が見えてきた。送ってくれてありがとう、そう言おうと振り返ったときだった。




「名字さん、ほんまに何でもええの?」 
「えっ?」
「勉強のお礼」
「うん、私にできる範囲なら」
「ほんなら、なまえ」
「...え?」
「なまえ、って呼んでもええ?」



まるでそこだけ空間が切り取られてしまったように感じた。私をまっすぐ見つめる白石くんが、まるで許しを乞うような、どこか泣き出しそうな眼差しで立っているから、私はいよいよどうしたらいいのか、白石くんが私にどうしてほしいのか、本当にわからなくなってしまう。ずるい。こんなの。だって、どうして。




「...うん、もちろん、いいけど...」
「よかった」



やっと絞り出した私の言葉に、ほっとしたように白石くんが微笑む。本当は目を背けてしまいたいのに、もうずっと目が離せない。本心には決して踏み込ませてもらえないのに、心の距離をとることは許してもらえない。好きな人に、白石くんに名前で呼ばれて、ものすごく嬉しいはずなのに、こんな気持ちになるなんて思わなかった。また明日、と告げて雑踏のなかで私に手を振る白石くんの気持ちがわからなくて、振り返りたくないのに、まるでこの目に焼き付けるみたいに、何度も何度も振り返らずにはいられなかった。








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