小説 | ナノ




きみの酸素は花のよう






好きな女の子が目の前に座っていてここは俺の部屋で両親は外出中なので留守。ふたりっきり。一生に一度あるかないかの大チャンス。なのに俺は一体何をしとるんや。ルイ16世の業績なんて正直どうでもいい。ため息をついたら「どうしたの?」きょとんとあどけない瞳が俺を見つめるので、「や、問題集。難しなーと思って」やはりどうにもできない。


名字なまえに片思い歴かれこれ2年半の俺は、どうにか名字が彼女になってくれへんやろかと万年頭を悩ませていた。ようやく神様が俺の願いをほんの少しだけ聞き入れてくれて、隣の席になって話すようになって、それなりに仲良くもなって、それだけでもう小躍りしたい気分やった。他の奴よりもちょっとだけ近い位置にいる、と勝手に自負してはいる。オシタリっちゅーのは堅苦しいから、ほらみんなもケンヤって呼んでるし、と煩い心臓の音を隠しながら言ったとき、俺の醜い下心になんかこれっぽっちも気づかない名字は、じゃあ謙也くんね、とあまりにもあっけなく呼んでくれるようになって、それ以来名前を呼ばれるたびに全身がこそばゆくなるような気持ちになり、そして願わくばもっと近づきたいと思った。男とは総じて欲深い生き物である。困ったことに、名字は飛びぬけて美人というわけではないけれど、正直俺はめっちゃ可愛いと思ってるけど、優しいし器量よしなので実は何気に恋敵が多い。この間も体育のとき更衣室で隣のクラスの男が、なまえちゃんみたいな子が彼女やったら幸せやろなーとかなんとか談笑していたのを知っている。なにがなまえちゃんや。軽々しく名前呼びすな。つーかお前彼女おるやろ。そういう俺かてなかなか仲良くなったのに、いまだに苗字でしか呼べてへんけど。へたれ、ではない。断じて。


「謙也くん?」
「な、なに?」
「さっきからずっと考え込んでるけど、大丈夫?」


これっぽっちも進んでいない俺の問題集を見かねて名字が問う。「私世界史好きだから、わからないとこあったら聞いてね。その代わり、数学は教えてほしいな」向けられた笑顔がダイレクトに胸にきた。なんて優しいんや。ほんま女神や。それが単なる名字の長所のひとつやなくて、俺だけに特別に向けられたものだったらいいのに。なんて。俺が世界史の難問に足止めを食らっていると思い込んでいる名字に床に頭をこすりつけて謝りたくなるほど、俺はあまりにも邪なことを考えている。


名字は今、どんな気持ちでおるんかな。...そら勉強しに来てるんやから世界史思ったより簡単だなーとかそんなとこか。そらそうや。例えば俺ときたら、部活がオフになった日曜日、お互い不得手の科目を教えあったほうが課題も早く終わるやろ、ともっともらしい口実を並べ立てて約束をとりつけ、ついでに図書館より俺の家のが近いからとまたもやもっともらしい理由をつけて名字を招くことに成功した。家族がおらんのは偶然やけど、何せ自分の部屋にすきな子がおるっちゅーだけで心拍数は急上昇する。テニスで鍛えたメンタルも体力もなし崩しや。いくら早く走れたって、ボールを拾えたって、名字が振り向いてくれる要因にはならないと俺はこの2年半で痛感したのだ。いつだって、こんなに焦ってるんは俺だけやって分かってる。かっこ悪い、情けない、せやけど。


「謙也くん、少し休憩しない?」
「あ、ああ、ええで!疲れた?」
「うーん...なんか緊張しちゃって」
「は?」
「男の子の部屋、来るの初めてだから」


ちょっとね、と照れくさそうに言う名字の笑顔に今度こそ俺は思いっきり心臓を射抜かれた。あかん。ほんまにあかん。いまの笑顔、誰にも見せたない。やっぱりこの子は、この子だけは誰にもとられたくない。ぎゅうと汗ばんだ手のひらを握り締めた。どくんどくんと鳴りやまない心臓の音があまりにも遠くに聞こえる。


「...俺かてめっちゃ緊張してんで」
「え、そうなの?」
「当たり前や」


好きな子が、俺の部屋にいて、目の前に座ってんのやから。本当はそう言いたかったのに、そこから先の言葉が一向に口から出てくることはなくて、俺はただ名字を見つめることで精いっぱいやった。名字は目を丸くしたまま俺の言葉の続きを待っている。...いや、言うなら今やろ。今しかない。今、言うしかない。言え。言うんや俺。「...名字、」ごくりと唾を飲み込んだ音がもしかしたら名字にも聞こえていたかもしれない。けどそれが何や。そんなことより俺は、名字に言わなきゃいけないことがある。俺は拳を握ったまま大きく息を吸い込む。心臓の音がさっきよりずっと近くで、ずっと大きく響いていた。








「...なまえって、呼んでもええ?」





...いや、あほか俺は。ちゃうやろ。そこはあれやろ、ずっと好きやった、とかそういう。告白をするとこやろ。そら名前で呼びたいのはやまやまやけどそうやないやろ!一世一代のチャンスを逃してしまったような気がする。どうしようもなく自己嫌悪に苛まれている俺の不安を取り払ったのは、ちらりと上げた視線の先に見えた、頬をほんのり染めながら、小さくもはっきりと嬉しそうに頷いた名字やった。


...せやからな、あかんて名字。そんなとびっきりの笑顔向けられたら、みんな勘違いするし、誰だって名字のこと好きになってまうやんか。もうああだこうだ言ってる場合とちゃう。やっぱり、今、ちゃんとこの子のことしっかり捕まえとかなあかんと思う。俺は意を決して顔を上げて正座するともう一度名字を正面から見つめる。「...なまえ」ずっと口にしたかった名前を呼んだ瞬間、名字のまつげがふるりと震えたのが分かった。そこから先の記憶はおぼろげやけど、名字のこれ以上ないくらいに真っ赤に染まったあまりにも可愛らしいほっぺたと、みるみるうちに潤んでいった可憐すぎる瞳だけは、たぶん俺一生忘れへんと思う。







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