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浮き世も夢と申します






夢を見ていたような気がする。いや、間違いなく夢だ。夢じゃないなら、こんなこと起こるはずがない。目の前に立っているその人は、固く結んでいた口元をふと緩めるとその左手で私の頬に触れた。



「何て顔しとるんすか」



鼓膜を震わせたその言葉はまったくいつもの彼のように辛辣なものだったのに、その表情はいつもとは180度変わってあまりにも、なんていうか、そう、優しい。まるで大切なものにそっと触れる時みたいに愛おしそうに私の頬を撫でていく手は、指先だけがひんやりと冷たかった。だけどその手つきはあまりにも優しく、これが本当にいつもあの毒舌をまき散らしてくる後輩なのだろうか?と疑わずにはいられないくらい。一体私はどんな滑稽な顔をしていたのだろう。目の前の彼はふ、と可笑しそうに少しだけ笑ってから私の目をその真っ黒な瞳でじっと捕まえる。いつものどこか冷めたような、無機質で鋭い瞳はそこにはなかった。一度目を合わせてしまったらあっという間に捕まってもう逃げられないくらい。もう逃がさないというくらい意志の強い瞳の表面はあまりにもやさしい。いや、ぜったいに、おかしい。こんなのいつもの彼ではないと頭では分かっているはずなのに、どうしてか身体が言うことを聞かなかった。目は捉えられ添えられたその手に頬はあっという間に熱を持ち、そのまま身動き一つとれないでいる。また彼が笑った。




「こっち見て、先輩」



今度こそ、いつもの後輩だったら地球がひっくり返っても口にしなさそうなあまりにも似合わない単語をごくごく自然に口に滑らせたと思ったら、彼はそのままゆっくり私に顔を近づける。いやいや、待って。ありえない。ありえない、けど。抵抗しなければ早く動かなければと分かっているのに、このままじゃキスされる、と分かっているのにやっぱり身体は一向に動いてくれなかった。どうすることもできないまま、ぎゅっと目を瞑って覚悟を決めたまさにその瞬間だった。













「いつまで寝とるんすか」




ガン、という衝撃音とまるで冷水をぶっかけられたような冷ややかな声が私の脳天を貫き、一気に思考が戻ってきてついでにさっきまで揺蕩うようなふわふわとした心地があっという間に消え去った。当然私の目の前にいる後輩その人は私の頬に手を添えるどころか、優しい笑顔など携えているはずもなく、冒頭に思ったとおりにやっぱりあれがタチの悪い夢だったのだと思い知らされる。そしてどうやらさっきの鈍い衝撃音は、未だに冷ややかな目で私を見下ろす、もはや見下すレベルに嫌悪感を示している後輩の財前が、私の座っている椅子を思いっきり蹴飛ばした音だったらしい。...タチが悪いなんてもんじゃない。なんて夢を見てしまったんだ。あまりにも最悪すぎて頭を抱えたくなった。


「うわ、ごめん財前...私寝てた?」
「まんじゅうみたいな間抜け面しながらヨダレ垂らして爆睡しとりましたわ」
「え、嘘!...いや、嘘だよね?」
「さあ。ちゅーか、もう閉めたいんでとっとと準備してください」


どうやら放課後の図書室にて私は寝落ちしてしまったらしい。放課後の図書室は静かで人も少なくお気に入りだったので、一年生のころからよく出入りしていた。去年から図書委員になったという一つ年下の財前と何度か顔を合わせ話をするようになるにつれ、最初はあまりにも愛想がなさすぎて若干怖かったけれど、その態度の悪さも慣れてしまえばどうってこともなくなり、いつしか業務内容以外にもいろんなことを話すような間柄になっていた。財前はいつだってあまりにも生意気で、先輩であるはずの私に対しても遠慮なんてこれっぽっちもないけれど、私にとってはこれでも初めて仲良くなった可愛い後輩だった。


「え、もうそんな時間?」
「爆睡もええとこでしたね。なんか色々言うてはりましたわ」
「えっ」
「どんな夢見とったんか知らんけど」


ハ、と鼻で笑うように財前が言ったので、私は図らずも先ほどの夢の内容をうっかり思い出してしまった。ていうか、色々言ったって、一体私は何を口走ってしまったんだろう。まさかあなたにキスされそうになる夢を見ていました、なんて口が裂けても例え明日世界が終わるとしても言えるはずがない。だってそんなの気持ち悪すぎる。言っておくけど私は財前に恋心なんかこれっぽっちも抱いたことなんてない。はずだ。...たぶん。だから余計に夢の内容は私にとっても到底理解しがたかった。財前ならなおのこと理解するどころか二度と口を利いてくれないほどの嫌悪を示しても不思議ではない。とにもかくにも財前には絶対に知られないようにしよう、と心にそっと誓ったものの、内容が内容だけに冷や汗が止まらず、そんな私の様子を伺うようにこちらを見てきた財前の目から逃れるかのごとく、あからさまに目を逸らしてしまった。


「何やその反応」
「いや、別に普通ですけど」
「先輩、誤魔化すのクソほどヘタなんやから小賢しい演技するだけ時間の無駄っすよ」
「相変わらずキレッキレで毒舌ぶちかましてくるよね」


それでこそ財前だよ!といつもの財前になんだか安心してしまったので思わず本音を零してしまったら、案の定私の失言を待ってましたとばかりに財前が拾って「へえ」いつも私を揶揄って馬鹿にするときと同じように、口の端の片方をきれいに吊り上げ意地悪く笑う。そしてほんのちょっとだけ首をかしげて言った。


「何やそれ。俺に優しくされる夢でも見ました?」


...どうして。どうしてこの後輩はあまりにも私の全ての思考をお見通しとばかりに見抜いてしまうのだろう!いや、ポーカーフェイスなど縁遠く、どこまでも隠しきれない分かりやすい私の生まれ持った性のせいなのか。とにかく、何か言わなければ。だんまりは肯定と捉えられてしまう。いや、そもそも下手に否定したところで財前には全てお見通しなんだっけ?冷や汗だらだらのまま目を泳がせる私をしばらく黙って見つめていた財前は、さっきまで馬鹿にしたように吊り上げていた口元をふと引き締めると、その鋭い瞳で私を正面から捉えた。そして私との距離を一歩詰めるから、私は思わず身を硬くして財前を見上げてしまう。それはまるでさっき見た光景のようだった。あれ、もしかして、私まだ夢見てる?


「...なんて顔しとるんすか」


財前は、固く結んでいた口元をふと緩めて左手で私の頬に触れた。鼓膜を震わせたその言葉はまったくいつもの彼のように辛辣なものだったのに、その表情はいつもとは180度変わってあまりにも、そう、優しい。まるで大切なものにそっと触れる時みたいに愛おしそうに私の頬を撫でていく手は、指先だけがひんやりと冷たかった。...って、ちょっと待って。これじゃ本当に夢の内容と同じじゃないか。財前は何が可笑しいのか、ふ、と少しだけ笑ってから私の目をその真っ黒な瞳でじっと捕まえる。たださっきの夢と決定的に違うのは、さっきの夢の中よりも財前の手が冷たいのがリアルに感じられて、その距離はまるで呼吸が聞こえてしまいそうなくらいに近くて、目の前にいるのは紛れもなく正真正銘の財前その人だということ。...いや。いやいや、ぜったいに、おかしい。


「もしかしてさっきの夢ん中でも俺、同じことしとった?」


私の反応を見て全ての答えを知ってしまったかのように、財前は私の返事なんて待たなかった。「ほんなら話早いわ」しれっと言ってのけるその台詞に、ああやっぱりこれは現実の、本物の財前だなあなんてそんな呑気なことを考えている場合でもないけれど、そんなことくらいしか考えられないほどに、今の状況に頭が全く追いつかない。それすらももう全てお見通しの財前はまたふっと口元を緩めて笑って、逃げられないと思うくらいに強いその真っ黒な瞳でじっと私を捉える。









「好きや、なまえさん」





告げられた言葉は夢とはあまりにも違う、夢よりももっとずっと甘やかで優しい温度を持っていたから、呼吸が止まってしまうかと思った。そして財前はそのままゆっくりと顔を近づけてくる。まるでそうなると私が知っているのを、もうとっくにわかっているかのように、あまりにも自然に。だから私もますます身動きが取れなくなって、覚悟を決めてぎゅっと目を瞑る。財前の冷たい指先から伝わる微かな熱が、触れられたところからまるでマグマみたいに熱くなって身体中を一気にかけめぐってゆく。そしててのひらよりもずっと熱く火照っている熱が唇に触れたその瞬間に、今まで知ることのなかった感情が鼓動と共に全身をめぐりながら流れ込んでくるみたいだった。一向にやむことのない心音と、財前の熱のこもった微かに優しさを孕む瞳が、私にこれが夢ではなく現実だってことを痛いくらいに教えてくる。だけど私からしてみれば、それはあまりにもふわふわ揺蕩うような心地よさで、まるでさっきのハッピーエンドの夢の続きみたいだった。






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