小説 | ナノ



水底のリトル・サン


※「春をゆく氷河」続き




透き通ったきれいなブルー。あの日もこんな色をしていた。季節がひとつ変わっても、見上げた空はちっとも変わっていない。あの人と出会った時の空の色だ。




「もう無理やと思う」


目を合わせずに彼はそう言った。その眉尻は、わずかだけどすまなそうに下がっている。ハッキリと別れの言葉を口にすればいいのに、この期に及んで「思う」だなんて曖昧な言葉を使って、それでもまだほんの少しの優しさを見せようとするなんて本当に、ずるいと思う。私は何て言えばいいのかわからなくて、言葉を探して何も言わずに俯いた。本当は何を言うべきなのか、彼が私に何と言ってほしいのかわかっているのに。それでも言葉を紡げない私はどれだけ彼を困らせたら気が済むんだろうか。だけどはっきりと、ああこの時が来てしまったか、とある一種の予感がやっとピースにハマったような、そんな感覚がしていた。


付き合って下さいと言ったのは彼のほうだった。文化祭の実行委員会でたまたま一緒になって、少しずつ話すようになって優しい人柄と笑顔が好きになった。彼も私をいいなと思ってくれていたのが、ほんの少し頬を赤らめて目をそらしつつも、一生懸命言葉を贈ってくれたのが嬉しかった。こうして私には初めての彼氏ができた。


初めての彼氏だったから、どうすればいいのかなんて全然わからなかったけれど、雑誌とかマンガとかでよく見るような、可愛い彼女でいたかった。彼にとって自慢できるようないい彼女でありたかった。お弁当を作ってきたり、髪型やメイクに力を入れてみたり、彼の部活が終わるまで待っていてみたり。ラインや電話も頻繁にしていた。ラインの通知ボタンが光ったら、すぐに返信するようにもしていた。彼はあんまりそういうのに積極的な人じゃなさそうだから、こっちから攻めなきゃ!という友達の受け売りもあって、気が付いたら私は所謂「尽くす女」になっていたらしい。


初めは照れくさそうに笑っていた彼だったけれど、いつの日かその笑顔がいつものそれとは違うものになっていた。気づけばそれは、まるで困ったような苦笑いに変わっていた。尽くしてくれる彼女でええやん、なんて彼の友達のからかいに内心喜んでいた私とは打って変わって、「…せやな」笑った彼の笑顔はやっぱり困った笑顔だった。私はそんな笑顔を見たくなくて、まるで彼が離れていってしまうような気がして。だったらもっと彼が喜んでくれるまで、色々なことをしてあげればいいんじゃないかと思ってしまった。それが私を「尽くす女」からさらに、「重い女」に変えてしまったことに、最後の最後まで気がつかなかった。


それもこれも全部、彼のためと思ってやったことだったけど、ただ単に私が彼に嫌われたくないという思いを押しつけていただけだったのだと、今なら分かる。


「なまえちゃん、ミナミの学校やろ?俺はキタやし、ちょうどいいキッカケかなと思て」
「でも、」
「あんな、なまえちゃん」
「…なに?」
「俺な、束縛されるん、苦手やねん」


ズシリ、と心に重い何かが乗ったような感覚だった。ずっと感じていた違和感が、とうとう現実になって押し寄せた。彼がずっと困った笑顔の裏に隠してきて、言わずにいたこと。私がずっと、嫌われないように必死でもがいてもがいて、それが結果となって彼を困らせてしまっていたこと。


「せやからもう、なまえちゃんとは付き合えへん」


だからごめんな。そう言って彼はもう一度、すまなそうに眉尻を下げて言ってから、踵を返して歩き出してしまった。重い女は嫌いなんやってハッキリ、そう言ってくれたらいいのに。悪いのは彼じゃない、私だ。彼の心を見ないふりして、ただ自分の感情を押し付けてしまっていただけの。ひとりぼっちで恋をしようとしていた私だ。


今なら間に合うかもしれない。走って走って、追いかけて、ごめんなさいって。私、不安だったんだ、って。嫌われたくなかったんだよって言って。でもそれでも、もう無理かもしれないと思って足が竦んだ。一度付き合えない、って言われてしまったんだから。きっと彼はもう私のこと好きじゃない。だったら私が追いかけたところで、また彼の迷惑になるかもしれない。それにこんな私に、彼のことをまだ好きだなんて言う資格がどこにあるのだろう。そう思ったら足が動かなかった。動かせるはずがなかった。じわり、と涙がにじんで視界がぼやけていった。携帯がぶるぶる震えて、カラオケ行くけど、どこにおるん?っていう友達のメッセージを受信するまで、私はそこから動けずにただただ涙をぼろぼろ流していたらしかった。


卒業式の日、私は彼に別れを告げられた。









あの時と同じ空の色は、ほんの少しだけ私を憂鬱にさせる。新しい生活のスタートなんだからしゃきっとした顔をしなきゃ、といつもよりちょっぴり早起きして向かう。新しい学校に新しい制服、新しい教室、見知らぬクラメイトたち。白地のワイシャツだった制服もセーラー服になって、いよいよ高校生になった実感が沸いてきた。


私たちの学校から持ちあがり式で高校に上がって来た子も多いから、見知った顔もいくつかあるけどやっぱり知らない子も多い。標準語がめずらしいのか、話しかけてくれる子もいたりして、割とフレンドリーな雰囲気のクラスらしい。担任の先生は親戚のおじちゃんに少し似てるなぁだなんてこっそり笑いながらも、初めてのHRを少しだけ緊張しながら聞いていた。


コロン、と何かが落ちたような音がして、思わず視線を向けてみたら小さなハンバーガー型の消しゴムだった。誰が落としたのか分からなかったけれど、ちょうど手の届きそうなところにあったから手を伸ばして拾おうとしたら、コツンともう一つの手にぶつかった。


「あ」
「あ」


その手を辿って視線を上げれば、隣の席の男の子が私と同じように手をのばしてそれを拾おうとしていたところらしかった。ということは、彼のものだろうか。視線がぶつかったからにこりと条件反射に微笑んで、彼よりも早くそれを拾い上げて手渡した。


「はい」
「あ、おおきに」
「ハンバーガー?」
「おん」
「面白いね、そういうの」


男の子はひとつ瞬きをして、「せやろ?」と言って笑った。派手な金髪をしている。怖い人かなぁと思ったけど、どうやらそうでもなさそうだ。友達になるチャンスかもしれない。ふいに視線を動かして彼の胸元の名札を見る。「忍足」と書かれたそれは馴染みがない名字で、何と読んだらよいのか分からなかった。


「なんて読むの?苗字」
「えっ」
「シノビアシ?」
「せやねん、曾曾曾曾曾じいちゃんが忍者でな…ってなんでやねん!オシタリや、オシタリ!」
「そうなんだ、めずらしい名前だね」
「呼びにくかったら謙也でええで」


じゃあ、謙也くんね。そう言えば彼はほんの一瞬だけ間をおいてから、やっぱそのほうが呼ばれ慣れとるわ、と言って笑った。


「自分は?」
「名字なまえ。なまえでいいよ」
「んー、ほな、なまえちゃん」


そう言って笑った男の子の笑顔が、ふいに彼の面影をちらつかせた。どきり、と心臓が反応してしまう。あの時の彼との会話が一気にフラッシュバックして消える。


(ええで、名前で呼んでくれて)
(え?)
(やって、呼びにくいやろ?)
(う、うん!)
(ほんで俺も、…なまえちゃん、って呼んでええ?)




…ちゃんづけいらないのに、不自然にならないように努めてそう言って笑えば、「おーいそこー、うるさいでー入学早々青春なんもええけどなー」先生のやる気のないような声が飛んで、教室がどっと笑いにつつまれた。「怒られちゃったね」肩をすくめて見せれば、「センセー、入学早々やから見逃してくれへんー?」「んーほなしゃあないなーってなんでやねん。忍足かー名前覚えたで」彼が笑って言ったおかげで教室もまた一段と和やかになる。よかった。新しいこのクラスでも、楽しくやっていけそう。隣の席の子も、金髪だけど、見かけによらずいい人みたいだし。



そう思って私は、きゅっと指先を隠すみたいに握りこんだ。彼が好きだと言ってくれた、サーモンピンクのネイルが塗られた指先。







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