小説 | ナノ




春をゆく氷河


※高校生



透き通ったきれいなブルー。あの日もこんな色をしていた。季節がひとつ変わっても、見上げた空はちっとも変わっていない。あの子が好きだと言った色だ。



「無理やと思う」


彼女はうつむいてそう言った。さらりと流れる髪に隠れて表情は分からなかった。泣くのを我慢しているのだろう。だけど、俺は何て言ったらいいのか分からなくて、適切な言葉を探せないままそこに佇んでいた。今考えたら、何かていの良い言葉を探そうとしていた時点でそれはもうすでに終わりの兆しを見せていたのかもしれない。その証拠に俺は、やっぱり、とどこかで漸く合点が来たような、来るべき時が来たのだろうという妙な「納得」さえ得ていたのだった。そして、思ったよりも冷静な自分にさらに失望した。


付き合って下さいと言ったのは彼女からだった。その言葉を振り絞った彼女の、かたかた震える体と桜色に染まるほっぺたにきゅんときた俺は、気が付いたら頷いていた。隣のクラスの、一期だけ委員会が同じになったことのある女の子だった。かわええな、と思って気になっていた子だったから、そんな子からの告白に俺が有頂天にならないはずがなかった。むろん、断るはずもなかった。こうして俺には初めての彼女ができた。


彼女ができたらしたいこと、を前々から妄想たっぷりに仲間と話していた反面、俺は部活に集中することを忘れなかった。彼女のことは一番に大切にせなアカン、とずっと思っていたけれど、俺にとってどうしても譲れないものがテニスだった。最後の大会に向けてほとんど休みナシの放課後返上で練習に身も心も捧げた俺は、当然彼女に構える暇もなく。彼女もそれを察したらしく、文句のひとつも何も言わなかった。頑張ってねって。いつでも笑顔でそう言ってくれた。だから、これでええって思ってた。しゃあないんやって、ずっとそう言い聞かせていた。


いざ大会が終わったら、次は受験地獄がやってきた。夏までテニスにつぎ込んだ時間を返上すべく、俺は、正確にいえば俺たちは、勉強にいままで部活に向けてきた熱意を勉強に切り替えなければならなかった。推薦という手もあったけれど、理数に強い高校にどうしても行きたかった俺は、必然的に猛勉強という道を選んだ。彼女も彼女で行きたい高校があったらしく、ほな一緒にがんばろな、と言い合いはしたものの各々勉強に明け暮れる日々で、それこそラインや電話なんかも数えるほどしかせえへんかった。デートなんてもっての外だ。一足先に合格を決めた彼女は、たまに激励するメールを送ってくる程度で、そこには寂しいとか構ってとか、そういうたぐいの言葉はまったく羅列されてへんかった。ラインの着信で画面が光るたびにほんの少しの罪悪感に駆られて、だけどメッセージを開いてみたら、何の叱責もないことに安堵してしまった俺がいたのは自分でも無意識で、今の今になってから漸く気がついたことだった。でも今なら痛いほどよくわかる、彼女がどれだけガマンしてたかっていうこと。


「謙也くん、ミナミの学校やろ?うち、キタのはしっこやもん。電車で何分もかかんねん」
「でも、」
「あんな、謙也くん」
「…おう」
「うちな、ホンマはずっとな、寂しかった」


ズドン、と衝撃を食らった。ずっと感じていた罪悪感が、とうとう現実になって襲ってきた。彼女がずっと言いたかったこと、でも言えなかったこと。俺がずっと感じていたこと、でも気づかないフリをしていたこと。彼女にずっと、言わせないようにしてしまっていたこと。



「せやから遠距離なん、うちには無理や」



だからさよなら。そう言って彼女は、最後の最後まで泣きそうなのを堪えて笑って、そのまま踵を返して歩き出す。最低やって罵って、ビンタのひとつくらいしてくれたほうがまだマシだ。彼女は何にも悪くない。悪いのは、彼女の好意に甘えてずっと見ないふりをしてきた俺だ。


今なら間に合うかもしれない。自慢の俊足を生かして、追いかけて、つかまえて、ごめんって。これからはちゃんと大事にするからって。こんなでも、俺はお前が好きなんや、って。正直にそのままそう言えばいい。だけど俺の脚は動かなかった。動かせなかった。怖かったのだ。また同じことを繰り返してしまうのが。「遠距離」という言葉が心に重くのしかかって、また構ってやれずに寂しい思いをさせるだけなんじゃないかって。ただただ怖かった。あんなに傷つけて、あんな笑い方をさせて。そんな俺に彼女が好きだと、言う資格があるんだろうかって。


何分何時間経ったかわからないけど、テニス部の連中に打ち上げの声をかけられるまで、俺はただぼーっとそこに突っ立って、早咲きの桜が地面に溜ってくのをぼんやり見つめていた。


卒業式の日、俺は彼女に別れを告げられた。










あの時とおんなじ空の色は、俺に罪悪感を連れてくる。新しい門出にはとてもそぐわない、若干重い心をひきずったまま、俺はクラスについて席に座った。新しい制服、新しい学校、新しい教室、見知らぬクラスメイトたち。まだまだ子供っぽさの抜けなかった中学に対して、高校になるとはやり人はぐんと大人びた印象になるらしい。四天宝寺中から来たヤツはクラスに数えるくらいしかいなかったけれど、大して人見知りでもない俺は、髪色の派手さにも加えて男女問わず色んなヤツに話しかけられたし、話しかけた。担任は体育教師の、ジャージ着たオッサンやった。体育教師のくせに熱血ではないらしい。なんやオサムちゃんと雰囲気が似とるなぁなんて思いながら初めてのHRを新鮮な気持ちで聞いとった。


コツン、と、手を動かした反動で机の上に出しとった消しゴムが転がって、床にポトンと落っこちた。ころころ転がったそれを拾おうとして手を伸ばしたら、ふいにもうひとつの見知らぬ手とぶつかって俺は慌てて視線を上げる。


「あ」
「あ」


隣の席の女の子が俺と同じように背をかがめて消しゴムに手を伸ばしていた。きっと拾おうとしてくれたんだろう。女の子はちょこっと笑って、手を止めた俺よりも先にそれを拾い上げて俺の掌に乗せた。


「はい」
「あ、おおきに」
「ハンバーガー?」
「おん」
「面白いね、そういうの」


標準語やった。クスクス笑う彼女の面影が、俺にさよならを告げた彼女とほんの一瞬だけ重なって心臓がそわりとした。あの日の会話が一気にフラッシュバックする。


(ハンバーガー?)
(謙也くんこういうの好きやろ?あげる)
(ほんま!ええんか)
(うん。おもろいよね、こういうの)




「なんて読むの?苗字」
「えっ」
「シノビアシ?」
「せやねん、曾曾曾曾曾じいちゃんが忍者でな…ってなんでやねん!オシタリや、オシタリ!」
「そうなんだ、めずらしい名前だね」
「呼びにくかったら謙也でええで」


女の子は一瞬考えるようなそぶりを見せてから、じゃあ謙也くんね。と言った。謙也くん。自分で言ったくせにチクリと胸が痛むのは、そのトーンが彼女に似ていたからだろうか。なんて、己の女々しさを認識してしまって心のなかで辟易する。中学のクラスメイトだって、ほとんどみんなが謙也と呼んでいたじゃないか。なのになんで、今更。


「自分は名前なんていうん?」
「名字なまえ。なまえでいいよ」
「んー、ほな、なまえちゃん」


ちゃんいらないのに、と笑った彼女に、「おーいそこ、うるさいでー入学早々青春もええけどなー」ジャージの担任のヤル気のない声が飛んで教室がどっと沸いた。思わず隣を見てみれば、「怒られちゃったね」肩をすくめて眉を下げて、だけど笑っとった。それにつられて俺も笑う。よかった。このクラスでも楽しくやっていけそやな。隣の席の子もええ子そうやし。



そう思って俺は、まっさらなままのハンバーガー型の消しゴムに指先だけでそっと触れた。









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