小説 | ナノ




幸福はなみだの味がする


※社会人




「ねえ、謙也は...」
「ん、なに?」
「どうして私なの?」
「は?」
「ほんとに、私でいいの?」


しまった、と思ってあわてて口をつぐんだけれど、覆水盆に返らずとはまさにこのことである。ぽかんとしたままの謙也が目線の先にいる。しまった。言葉には、思っていても言っていいことと悪いことの二種類があることくらい、そして時と場合をわきまえなければならないということだって、脳と口が直結している自覚のあるうっかり者の私でも知っている。やっぱりなんでもない、と慌てて目の前で手を振ってみるけど、相変わらず謙也はぽかんとした表情のまま。ただ私を見下ろしていた。ああ、もう確実に間違えたな。仮にも男女が夜の営みをしている今このタイミングで言うことでは絶対ないはずだ。案の定謙也は呆けたような表情から一転して、むっと不機嫌さを露わにしてみせた。


「...それは、どういう意味で言うてんの?」
「え、いや、あの...何でもない。やっぱり気にしないで」
「できるかアホ」


ため息まじりのその声にふいに私は泣きそうになる。昔から謙也にはアホやアホやと言われてきたけど、今日ほどアホやと自分で思ったことはなかった。自分の言葉に自分で傷つくなんてばかみたいだ。優しい謙也のことだから、私が知らないところでもきっとたくさんの女の子たちに好意を寄せられていたであろう学生時代。そんな沢山の中から私を選んでくれたあの日、傍にいることを許してくれたあの日から、ずうっと心のどこかにひっかかっていたもやもや、それがよりにもよって今日という日にぽろりと零れ落ちた結果だった。それはワインの染みのように、じわりじわりと広がって弱ってしまったこころを侵食していく。ごめんね、謙也。どうか嫌いにならないで。一体いつからこんな風になってしまったのか、どうやら私は参ってしまうくらい謙也のことがすきらしい。


「あのな、なまえ」
「...はい」
「今更、俺が妥協してなまえと付き合うとる思てんの?」
「お、思いません」
「ほんなら、」


なまえは俺やなくてもええの?と、困ったとも苦しいとも違う表情で聞いてくるものだからありったけの力をこめて首をぶんぶん横に振る。せやろ、そう言って止めていた手をやさしく動かす。ガラスを扱うように、私の不安を溶かすように、そっと。付き合ったあのころから変わらずいつだって、謙也のてのひらは大きくて、優しくて、私をすっぽり丸ごとつつむ。だけど、だから、自分に自信の持てないままの私は心のどこかにもやを残したまま、ここまでずるずる引きずり続けてしまった。答えはもうとっくに分かってるっていうのに、謙也にすごく愛されてることもちゃんと分かってるっていうのに、こんな幸せなことが、この世界のなかで他にあると思えないのに。しあわせすぎて不安になるなんて、なんて贅沢が過ぎるんだろう。


「俺が好きなんは今までもこれからもお前だけや、...って、何べんも言わすなや恥ずいやん!」
「うん、ごめん...」
「俺なあ、思うねんけど」
「な、なに?」
「なまえはもっと自信持ったほうがええで」
「!」
「俺にめっちゃ愛されとるって自信」


足りひんのやったらいくらでも表現したるわ。これからもずっとそうするつもりやけど。なんて、優しくキスをされてしまっては頷くしかない。付き合いたてのあのころはふたりとも恥ずかしがって、手を繋ぐだけで精一杯だったのに、今となってはこんなに上手に体温を重ねあっている。ふたりでなら何でもできると思ってしまう。そしてそれが、謙也の隣にいられることが当たり前のようにこの先ずっと続くだなんて、なんて幸せな出来事なんだろうか。


「俺はなまえやないとあかん。今までも、この先もや」
「うん」
「なまえがどうかは分からんけどな」
「私も謙也がいい。謙也じゃなきゃいや」


せやんなあ。謙也が微笑んでまた、やさしく私にたくさんのキスを落とすから、ああほんとうになんて私は幸せ者なんだろうか、と思ってそっと目を閉じる。今までの私も、これからの私も。決してこのひとを手放すことなんて絶対ない。こんなに心地いい場所を世界のどこにも知らなかった。


「なまえ」
「うん」
「愛しとるで」


私も、と謙也の耳元で呟きながら、明日のことを考える。謙也が、絶対にこれが似合うと言って譲らなかった純白のAラインのドレス。誰を隣同士にしようかとああでもないこうでもないと言い合った席次表。何度も何度も二人で試食して決めた料理のコース。何枚も書き直しながら泣いてしまった手紙。その一つ一つを思い出しながら、やっぱり涙が出そうになる。式で号泣する花嫁なんて格好がつかないから、せめて今のうちに泣いておいたほうがいいかもしれない、と的外れな提案をしてみたら、顔を上げた謙也が同じく泣きそうな顔をして笑っていたのを見て、ついに涙腺が決壊してしまった。ありがとう、謙也。私を世界一幸せなお嫁さんにしてくれて。この先ずっと一緒に隣で歩いていく人が、あなたでよかった。





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