小説 | ナノ



さよならわたしのシンデレラ


どうやら私は運が強いらしい。自分ではそうもはっきり自覚していなかったけど、忍術学園に入学してから3年目以来、私はそれを身にしみて感じるようになっていた。いや、運が強く、なったのかもしれない。もともと私は平凡な、くのいちに憧れて忍術学園に入ったただのくのたまだったはずだ。


「名字さん」
「善法寺先輩」
「いま、ちょっといいかな。薬草箱の整理を一緒にお願いしたいんだけど…」
「はい、いいですよ」


ありがとう、と言ってふわりと笑う一つ上の先輩は、助かるよ。と本当にほっとした顔をしてからすぐに、踵を返した。そんなに急用なのだろうか。頭巾のあちこちに葉っぱがくっついている。また綾部君の仕掛けた穴にでも落っこちたのかな。それは何も今に始まったことじゃなくて、もうこれが私の日常の一部になってしまった。少し前をいくふわふわ揺れる髪の毛を見つめる。そういえば先輩と初めて会ったのは、一体いつのことだったっけ。



その「いつか」を思い出すのはそんなに困難なことじゃない。遡るのはほんの2年前。シナ先生の色の授業で、普通だったら同級生の忍たまを選んで実習するはずだった。礼儀作法や護身を目的に入学するくのたまは、一流の忍びを目指そうとする忍たまよりも、数が圧倒的に多かった。結婚や、学年が上がるにつれ厳しくなる授業や実習のせいで学園を去っていくくのたまが半数以上のなか、生憎私は嫁ぎ先の予定もなければそこそこ成績もよかったので、このまま学園に居続けている。

そういうわけで何人かのくのたまが、色をしかける実習相手を先輩から選ぶことになったのだが、じゃあなまえは善法寺先輩ね、とまるで残り物を押し付けられるようになってしまった私に、当時のクラスメイトたちは同情の視線を送ったのだった。なぜ、と疑問を問うてみても答えは至極簡単で、「不運を貰いたくないから」何てことないようにさらりといってのけられた。「なまえは運強いから、大丈夫でしょ」そんなこと、初耳すぎる。私のどこが強運だっけ?と考える間もなく、薄情者ともとれる言葉をかけられて、私がため息とともに承諾したのも、見ず知らず、それも後輩のくのたまからでさえも「不運」という一言で虐げられてしまう彼があまりに不憫だなあと思ったからであった。


色の授業は苦手じゃなかった。くのたまである前に女の子であるわたしが唯一目いっぱいお洒落のできる瞬間だったし、何より自分の仕掛けた色で男たちが陶酔していく様を見るのは、正直悪い気はしない。だから善法寺先輩にもいつもの調子で、でもあまり過激過ぎてもいけないからいつもよりちょっと控えめに近づいた。「あの…女子トイレのトイレットペーパーが切れちゃったんですけど」なんて、まるで遠回りなやり方だけど、保健委員の先輩と何も接点のない後輩との間にはさりげなすぎる第一声だったと、思う。


予想通り善法寺先輩は、私に対してあまりに無防備で、そして鈍感であった。先輩は初めから私の前ですっころんだり薬草をぶちまけたり穴にはまったりと、噂に聞いていた通りの「不運」っぷりだった。でもそれが私に伝線することがなかったのは、やっぱり私の運が強いからということになるのだろうか。とにかく私はそれを直接的に目撃しはするものの、一度だって彼の不運に巻き込まれることはなかった。だけど、繰り返して言うが、善法寺伊作は私に対してあまりに鈍感だったのだ。頬を染めたのは、ただいつものように不運に見舞われた時に、恥ずかしいなあと照れて笑っていたくらい。その笑顔があまりにも無邪気で純粋だったので、私は彼に対して色を過剰に使うのはばからしいと思えてきた。シナ先生にあとで怒られるだろうなあとぼんやり思いながらも、私は彼に色を使うのをやめた。


3日間という短い実習が終わって、シナ先生が私にくれた判定はほぼ満点に近いものだった。みんなから、すごいじゃない、さすがなまえね、と声をかけられる中、私は正直どうしてこんな点数を貰えたのかさっぱり分からなかった。シナ先生はさすがくのたまの先生らしく綺麗にウインクしながら、「だけど満点はあげられないわね」と言ってちょこっと眉を下げてから微笑んだ。一体どういうことだろう。考えてもよくわからなかったので考えるのをやめてしまった。「あの善法寺伊作から不運を貰わないくのたま」という噂が瞬く間に学園中をかけめぐったのを知ったのはしばらく後になってからだ。


「あー、本当に助かったよ。名字さんがいてくれてよかった」
「何か急ぎの用事でもあるんですか?」
「これから面接なんだ。就職の」


彼から就職というワードが出たことに私はいささか驚いて、図らずして作業する手を止めてしまった。気がつけば私はもう5年生で、彼は6年生だった。あと半年ほどでこの先輩は学園を卒業してしまうのだ。出会いがあんな形であったとはいえ、私はあれ以来、何かと善法寺先輩と一緒に居ることが多い。いつの間にか「くのたまの保健委員」と名誉なんだか不名誉なんだかわからない二つ名をつけられ、せっせとトイレットペーパーを女子トイレへと運ぶのが私の日課となっていた。もともと薬草学が好きだった私は新野先生とも仲が良かったし、こうして薬草整理の時には善法寺先輩に声をかけられるくらいには、医務室が馴染みの場所になっていた。居心地がいいと、思っていた。でも先輩はもうすぐここからいなくなってしまう。


「名字さんは、やっぱりくのいちになるの?」
「え?」
「優秀だから、ひっぱりだこになるんだろうな」


いえ、そんなことないです、という声がくぐもった。先輩が卒業する。卒業して、それで、私は?くのいちになったとして、それでどうするの?昼下がりの医務室で、隣に先輩がいて、たまに何もないのに躓いて薬草棚をひっくり返してしまって、私が笑う。他愛もない世間話に花を咲かせる。穏やか過ぎるこの日常以上のものを望んでなんかいない自分がいることに、薄々感づいてはいた。それも所詮一時だけのものだって、分かっていたつもりだったけれど本当は分かってなんかいなかったし分かりたくもなかった。ぽっかりと大きく暗い穴に飲み込まれていく。私が描いていたのは、仮にも忍術学園を卒業した忍びの光景にはとてもじゃないけど似つかわしくない未来図だった。隣にこの人がいることは、ちっとも私の永遠なんかじゃ、絶対なんかじゃないのだと、今更だけど気が付いてしまった。私は善法寺先輩の傍にいすぎたんだ。


「…私、お医者さんのお手伝いをしようかと思ってて」
「え?」
「薬草が好きだから、それで誰かの役に立てたらいいなって思ってるんです」


半分本気で、半分冗談だった。薬草が好きだというのは事実にしろ、恰好をつけてまともな理由を並べたてる振りをして、ほんとはこの居心地のいい場所をいつまでも忘れたくなかったのだ。たとえ隣に先輩がいなくても、こうして一緒にいる時間を思い出せたら私は彼のことを忘れなくていいような気がした。この学園に長く残って、しかもくのたまで医者の助手になった者は過去にひとりもいないだろう。そんなことを言っていたって、いざ先輩が卒業したら私はくのいちとしてどこかに雇われて任務をこなしているかもしれないし、さっさとどこかに嫁いでしまうかもしれない。だけどもうそれでもよかった。少なくとも私はいま純粋に、そうだったらいいのにと願っていた。くのいちになって見ず知らずの男に色を使うよりも、顔も知らないどこかの男に嫁ぐよりも、ひそやかな夢を抱き続けているほうがずっといいと思う。それに、どうせ先輩は遠くにいってしまうんでしょう?


「……名字さん」
「はい」
「これから面接を受ける場所、港町にあるんだ」
「港町…ここから遠いんですか?」
「うん。港町のはずれに、小さいけれど、みんなから慕われてるお医者さんがあってね」
「…」
「そこに来ないかって言われてるんだ」


僕はみんなからも、忍びには向いてないと言われていたしね。そう言って苦笑とも自嘲ともとれない笑い声をそっと空気中に漏らした。先輩がぱたりと薬棚の引き出しを閉める音がやけに大きく響いたような気がして顔を上げてみれば、いつもよりもいささか真剣で、それでいてじいと音が出るんじゃないかと錯覚するくらいに熱心な瞳で私の眼の奥を覗き込む先輩と、目が合った。どきり、心臓がやわく音を立てる。


「名字さん」
「…はい」


私はこの先の言葉をどこかで予想しているのかもしれない、いや、期待しているのかもしれない。期待しても、いいのだろうか。どきどきはやる心臓の音をそっと隠そうとして握りこんだてのひらは、先輩にはばれてしまっているのだろうか。3年前のあの実習で、私が瞳の奥をじっと見つめたときこのひとは、ほんの少しでもこんな気持ちになってくれていたのかな。


「医者の助手、いいと思う。名字さんに似合ってるよ」
「…先輩、」
「きっと立派な医者になるから、その時は。…僕の助手になってくれないかな。きみが、よければ、だけど」


そしてずっと傍にいてほしいんだ、そう聞こえたのは空耳だっただろうか。「…はい、」呟いた声がにじんだ瞬間に、いつのまにかぼろぼろこぼしていたらしい私の涙を、先輩は優しく掬って笑った。いったいどうして私は泣いているんだろう。もしかして、私は、この言葉をずっと期待していたのかなあ。そうだとしたらやっぱり私は強運だと思う。ひそやかな夢にしようと思っていた。ずっとこんな時間が続くと願ってもいいの?それがもしも叶うのならばなんて幸せなんだろう。


まるで子供をあやすようにして私の頭を優しく撫でながら、「すきだよ、名字さんが」微笑んだ先輩のほんのり染まった頬を見て、あの時シナ先生が満点をくれなかった理由がようやく分かったような気がした。






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