小説 | ナノ
メランコリック症候群
謙也が私のことをなまえと呼ぶようになったのはいつのことだったかなあとぼんやり考えたら、それほど最近のことではなかったような気がする。中学2年のクラス替えで知り合った謙也と白石とは、何かと気が合ったのでよくつるんでいた。連中が強豪テニス部で忙しいのを知っていたけど、私は別に彼らの部活とは一切関わりがなかったし、テニスのことはルールすらよくわからないので、がんばって、の一言だけ。つまりただのクラスメイト。たったそれだけ。ノートを貸し借りする、掃除当番を代わってやる、じゃんけんで負けたらお昼の買出しに行く、笑う、話す、つるむ。ごくありがちな友達関係。
思えば謙也は、おせっかいというほどによく私の世話を焼いて、白石や他のクラスメイトに「お前は名字のおかんか」と冗談交じりに言われていた。いつも謙也は当たり前のように私に対して遠慮なんかこれっぽっちもしなくて、たとえば帰宅部である私は早く帰りたいのに、彼は私には選択権なんてないというように、じっと私の目を見つめて誰もいない教室に閉じ込めた。閉じ込めた、というとちょっと聞こえが悪いけど、なまえおまえ今日放課後教室に残っとれ、ええな絶対やでと、まるで補習を言い渡す教師のような有無を言わさぬ口ぶりだったのだから、決して言い過ぎではないと思う。それからかれこれ10分、謙也は何も言わずじっと私の前に座ったまま、怖い顔をしてため息をついたり視線を逸らしたり、また睨んではため息をついたりを繰り返している。え、ほんとになんだこれ。
「あの、謙也」
「なんや」
「なんやはこっちのセリフなんですけど。早く帰りたいんだけどわたし」
「なんでや」
「必殺仕事人の再放送始まるから」
「却下」
「(ええー…)」
「まあ、俺の話を聞け」
「はあ。だから、なに?なんか悩み事?」
「…実はせやねん。なまえにひとつ相談がある」
私は目を丸くした。世にも珍しい。謙也が私に悩み相談なんて。同じクラスになってこのかた、謙也は一度も私に相談事なんかしたことなかったのに。ものすごくレアなので、私は再放送を諦めた。ドラマの再放送なんてあとでいくらでも探せる。それより気になるのは、それほどまでに謙也を悩ますやっかいな出来事だ。私は体勢を整え、座りなおす。
「え、なに?どうしたの珍しい」
「それが、何や告白されたらしいねん」
「は、誰が?」
「…ずっと好きやった子」
え、と私は予想外すぎる発言に目を点にした。ばつが悪そうに、謙也ははあと大きくため息をついて天井をあおぐ。普段友達が多くてみんなで騒ぐのが好きな彼にはあまり見られない、年相応な、恋する男子中学生の姿だ。
「…謙也、好きな子いたんだ」
「失礼やな、そんくらいおるわ」
ぜんぜん知らなかったと呟けば、そらそうやろな、言ってなかったし、と、目も合わせず言う。白石には言ってたのかな。私が知らなかっただけか。謙也も普通の、ごく普通の恋する男の子だったらしい。たとえば謙也は、好きな子が告白されたというショックでさめざめ枕を濡らし、眠れぬ夜を過ごしたりするんだろうか。男の子の恋愛がどんなものかは私にはわからないけど、もし謙也が失恋したとかいうショックで泣きくらす、とまではいかなくても、布団の中でこっそり涙を流してみたりとか、することがあるんだろうか。そんな謙也全く想像できないししたくないけど、考えてみたらちくんと胸が痛んだ。一人でさめざめ泣くほど悲しいことはない。それ以上に、謙也が悲しむ姿なんて正直見たくない。
「下駄箱にな」
「うん」
「隣のクラスの男が手紙入れてんの、見てしもうてな」
「うん」
「そんで、…」
「それで?」
謙也が黙りこくった。今時ラブレターなんて古風なことする男もいるもんだな、と、妙に感心した後、それで、何?と、せかしを入れるまえにごそごそと謙也がポケットを探ったのが分かったので、思考が止まる。ちょっと待って。まさか…と思ったがそのまさかだった。
「……回収してもうて」
残念なことに私の嫌な予感は見事的中した。ひらりと真っ白な封筒が揺れる。あんたアホちゃうか…!私は生粋の関西人でもないのに思わず関西弁で突っ込みそうになったのをどうにかこらえて、肩で大きく息をついて、腕を組んだ。謙也はというと、ちらりと私を盗み見た。「やっぱり、あかんかったよな」当たり前である。
「あかんて思ってたけどな、…思わず」
「思わず、って謙也、あんたそれ一歩間違ったら犯罪だよ」
「せやかて!しゃあないやん身体が勝手に動いてしもたんや」
「…その子はラブレター貰ったの、知らないってこと?」
「せやから、そいつの代わりに本人に渡そう渡そうって思ってたんやけど、」
「けど?」
「無理やった」
はあと肩を落とす謙也に私は少し同情した。正直言って、いつでも明るくてノリがいい謙也のこんな姿を見たのは初めてだし、なあ俺ほんまどないしたらええんやろ、と、搾り出すような声も初めて聞いたからである。相当、その子のことが好きらしい。恋に落ちてしまったら女も男もそんなの全然関係ないらしい。かつてそういう症状に陥った子を、私は沢山知っている。だけどまさか謙也が、恋煩いをしてこんな風に私に相談をしてくるなんて思いもしなかったから、内心私はちょっとだけ動揺している。内緒だけど。
「とりあえず、それ下駄箱に返してきなよ。それか本人に渡す」
「無理」
「…謙也、相当惚れてるね」
「おう。なんたって3年越しや」
私は、謙也がこんなに嫉妬深かったのを知らなかったし恋に辟易してしまうことも知らなかった。もちろん、3年越しなんていう情報も。どんな女の子なんだろう。あの謙也をここまで追い詰めた張本人は。聞いてみたいけど、聞きたくないような気もする。はあと謙也がため息をつくたび、心の奥底がちくんと痛むのは、痛々しいその姿を見ていられないほど同情しているからかそれとももっとほかの。
「一筋縄やいかん子やねん」
「うん」
「遠回しにアピールしても、ちっとも気づかへんし」
「うん」
「ずっと一緒におっても、友達止まりやねん。そのうち神経参ってまうわ」
「へえ(なんかすごい子だな…)」
仮にも有名人で人気もある謙也の好意をあっけなく受け流し、ちっとも気づかず友達のまま、更には謙也の神経を磨耗させるほどの女の子が、果たしてこの学校にいただろうか?謙也は友達も多いしモテるけれど実際そこまでものすごく親密といえる女友達はそう多くないはずだし、そうなればそうとうすごい子である。ちっとも人物像が浮かばない私は、相手を推測するのをやめにして、謙也の課題に向き合うことに専念した。
「でもさ謙也。その手紙受け取って、気持ちに応えるか応えないかはその子の自由だし、謙也の気持ちに応えるか応えないかも結局その子が選ぶことじゃない」
「…せやな、」
「だったら正直に、その手紙渡してそれでもって謙也の気持ちもちゃんと伝えないと、その子には届かないし、きっと謙也だってすっきりしないまま引きずることになっちゃうよ」
謙也はじっと私の目を見つめて、さほど恋愛経験がないのでそんなに参考にならないはずの、でも一応女としての、意見を聞いていた。ていうか、そもそも一体どうして謙也は私なんかに恋愛相談する気になったのだろう。テニス部には女子より女の気持ちが分かると言われる金色くんがいる。それに、白石に相談すれば彼のお姉さんや妹さんの意見のほうが絶対ずっと参考になるはずだし、わざわざこうして放課後の教室に私を閉じ込め額を突き合わせて話し合いなどしなくてもいいはずだ。すっきりしないのは私のほうだ。もやもやしている。謙也の悩みを解決したいと、友人として力になりたいと思う反面、心のどこかでどうしてか納得していない私がいる。間違いなく言葉は本音なはずなのに、どこかに後ろめたさを感じている。
「せやんなあ、」
「…うん」
「せや。なまえの言う通りや。こんなん、フェアやないわな」
「まあ、恋愛にルールなんてないと私は思うけど」
「せやかて、変化球だけじゃあかんっちゅー話やろ」
たまには直球、どストレートで勝負せなあかんよな、と謙也が自嘲気味に笑って、そのままおもむろにさっきの封筒を差し出した。「と、いうわけで」
「はい、これ」
「…は、なに?」
「ええから早う受け取り。俺かて渡したくて渡しとるんちゃうわ」
「え、だけどこれ、例の手紙じゃ」
「せやから。お前宛てや」
はい?と上ずった声が出る。事態がまったく把握できない。謙也は立ち上がると一歩私との距離を詰めた。思わず身体を大きく後ろに引いてしまった私に苦笑いして、やっぱあかんか、と短く言った。
「分かっとったけどなかなかきっついな」
「え、なに…」
「なまえ、好きや」
お前にとって俺はただの友達やって分かってるけど、ずっと好きやった。と言った謙也の瞳が頼りなく揺れていた。その言葉が本当ならば、先ほどから相談を受けていた、例の、一筋縄ではいかなくてとても鈍い、謙也が3年間ずっと片思いしていて頭を抱えてしまうほどの女の子は、私ということになる。みっともない真似してすまん、と封筒を一向に受け取ろうとしない私の手に無理やりそれを握らせて、謙也は一瞬困ったように笑うとすぐに俯いて背中を向けた。謙也はきっと、この恋が叶わないならその縁ごと断ってしまおうと思ってるんだ。そのぐらいの覚悟で謙也は私を呼び出したんだ。私は慌てて謙也の腕を掴む。
「ま、待って!」
「…同情とか、そういうんお断りやで」
「違う、同情じゃない!そんなんじゃなくて…」
私は、さっき謙也から告げられた好きな子がいる発言の後の自分の感情にようやく納得がいったような気持ちになっていた。謙也が、私を好き。それはいままで自覚したこともなかったけれど、じんわりと暖かくしみのようになって私の心に浸透する。謙也に告白されて、うれしいって。そう思っている自分がいることに気が付いた。つまりそれって、私も謙也と同じ感情を持っているってことじゃないのか、きっとそうに決まってる。
「あのね、」
「…」
「私も、謙也のこと好きみたい」
「…えっ」
これはちゃんと断るから、だから私と付き合ってください。封筒を握りしめながら言うと、謙也は勢いよく振り返って顔を真っ赤に染めて、何か言いたそうに口を開けたり閉じたりしていたけれど、へにゃりとその口元を歪めて「...それ、俺が言わなアカン台詞やったな」と言って笑った。