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誰かの願いになれますように


※「世界とたたかう全ての人へ」の続き







もう最悪や、と思った。めったにない悪運日。昼休みは話し合いが延びて何か食う前に終わり、研修ではミスるわ定期はおっことすわ、ハードな作業に疲れ果てた挙句電車で爆睡。終点まで行ってしもた。もう誰にも会いたない。こんな日は即効帰って寝るに限る。どうせ家に帰っても夕飯作る気力なんかあらへんしちょうど食欲もないし、パンでも買おうとたまたま寄ったコンビニのプリンに目が留まった。プリン。そういえばあいつ、このプリンよく冷蔵庫に入れとったな。一瞬頭をよぎった恋人のことも、今は考えたくないほどに憔悴しきった夜だった。


ふらつく思考をなんとか保ちながらカギをぶっこんで捻ったらドアが開かなかった。は?なんで?俺もしかして、鍵かけてくの忘れてたとか?最悪に最悪を重ねた想像が浮かんでしまってげんなりしかけた矢先、今度は勢いよくドアが開いたので体勢を崩しそうになったのをなんとかこらえる。え?なんで?ここ俺の部屋やんな。その瞬間に響いた、聞き慣れすぎた声で全てを理解する。俺の意思とはこれっぽっちも関係なく、頭のすみっこがずきりときしんだ音を立てた。


「おかえり謙也!遅かったね」


開いたドアの先でにっこり笑ったのは見慣れた彼女だった。それだけで心臓の奥がきゅうとしぼんだような感覚になる。なんでおるん?もしかして連絡きてたか?あわてて携帯を取り出した俺を見て「謙也だってこの間、突然来たじゃん」けらけらと笑った。いまいち状況が飲み込めないまま部屋に上がって、テーブルの上を見やってみれば二人分の食事がきちんと用意されていた。もうすでに時計は11時を過ぎている。なまえはいつからここにきて、俺を待っていてくれたんだろう。料理がすっかり冷めてしまっていることに、テーブルに近づくより早く気づいてしまった。


「...晩メシ、食べてへんの?」
「うーん、あんまりお腹すいてなかったから」


料理中にいろいろつまみ食いをしたらお腹がいっぱいになってしまったのだとなまえは笑う。俺はつられるように笑った。正直まさかなまえが、夕飯作って俺のことを待っていてくれるだなんて思ってもみなかったし、男からしてみたら最高にこの上なくきゅんとするシチュエーションだ。愛しさが心の奥からじわじわと湧き上がる。だから、今までの暗い気持ちをいつまでも、この最高に優しくて最高に可愛い恋人の前で引きずるわけにはいかない。俺は気づかれないように、ぐっとわずかに眉間に力を入れた。疲れてる顔なんか見せたらあかん。パンの袋を鞄に突っ込んでおいてよかった。


「おおきに!めっちゃ腹減ってんねん」


いつもの笑顔、いつもの笑顔。そう自分にしつこく何度も言い聞かせてからネクタイを緩め、ほんま美味そうやな!と言う。俺は、なまえが隣で笑ってくれればそれでええ。変な気い使わせてしもたらあかん。つまらん顔なんか絶対見せたない。一見無意味なようにも思える、意固地でちっぽけなプライドを崩したくないのは、かつて俺がへたれやと言われ続けた所以だった。


「待たせてしもてスマン。うわ、めっちゃ美味そうやな!」


椅子を引きかけた俺の腕をなまえがそっと掴んだ。困ったように眉を下げて笑っている。俺は留められた腕となまえを交互に見て、わけがわからないままなまえの言葉を待つ。え、なに?俺もしかして、なんややらかしてしもたんか?


そのままゆるく腕を引かれて、あっという間に目の前が暗くなった。頭に感じる優しい感触と、鼻先を掠めた懐かしくてやわらかな匂い。なまえに頭をかかえこむ形で抱きしめられていることに気付くまでだいぶ時間がかかった。「...え?」ようやく出た言葉は情けなくかすれていた。


「無理しなくていいよ。あんまり食欲ないんでしょ?」
「えっ」
「今日は最悪な一日だったんじゃない?」


ぽんぽんと優しく俺の頭を撫でるその手は、まるで赤子をあやす母親のようだと思った。絶対的な安心感が、包み込まれている優しさと確かな愛情がそこにある。なまえには、全部ばれている。


「無理せんでええって、このあいだ謙也が言ってくれたんだよ。辛いときは俺に頼るべきや、って」
「...なまえ」
「だったら私も、謙也が辛いときには一番に頼ってほしい」


大丈夫だよ、全部受け止めるから。ゆっくり言い聞かすようになまえは言って、またぎゅっと俺を抱きしめる力を強くする。確かに数週間前、俺が彼女の部屋を訪ねたとき、疲弊しきった彼女に俺は同じことを言ったかもしれない。だけど自分がいざ言われたらこんな気持ちになるのか。あの時、彼女もこんな気持ちになったのだろうか。こんな風に、泣きたくて、切なくて、愛おしくて、もどかしくて、全部抱きしめたくて、どうしようもないような気持ちに。


「...なまえ」
「なに?」
「結婚してくれ...」
「あはは、いいね」


しよっか、結婚。彼女が俺を抱きしめたまま笑う。来たるべき日のために、だいぶ前からああでもないこうでもないと計画していたプロポーズとは程遠くて、こっそり用意していた指輪も渡せていないし、眺めのいいレストランや煌めく夜景なんかどこにもない。今日はただの仕事終わりの平日だし、ここは何の変哲もない俺の部屋だし、理想とはかけ離れた随分とかっこ悪いシチュエーションだ。だけどそれでも彼女が笑って頷いてくれたから。俺を抱きしめているその細い腕に、永遠を確かめるようにわずかに力が入ったから。これからもずっと、俺の隣におってくれるなら、もう他に何もいらないんだ。







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