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こっちを向いてマイディア


「なあ」
「…」
「なあて」


聞き逃すはずなどないほどに澄み渡って響いた声は当然わたしの耳まで届いていたけど、まさか天下の白石蔵ノ介が平々凡々な女子生徒、つまり私に話しかけるはずがあるだろうか?いや、ない。あるはずない。きっと前の席の忍足くんかななめ前のミス四天宝寺候補との呼び名が高い山田さんに話しかけたんだろう。そうに違いない。そう思って黙って俯いたままいたら、肩をつんとつつかれたのでそこでようやく顔をあげる。J.K.ローリングの世界は天下の白石蔵ノ介により閉ざされた。びっくりした。


「シカトか。名字さん大人しそうな顔してえげつないなあ」
「…え、わたし?」
「他に誰がおるん?」


呆れたように白石くんが笑った。視線を向けてみたら、忍足くんは席を立っていて山田さんは友達とおしゃべりを繰り広げている。他に周りに人はいない。…あれ。どういうことだ本当に私に用事らしい。どきんと心臓が今更ながら音をたてる。ちょっとまって心の準備ができていません!目の前がちょっとだけちかっとした。ごめん本読むのに夢中で、とかそういう言い訳がましい言葉が上ずったのに、白石くんは気がつかなかったようだった。低すぎず高くもない、甘さを孕んだようなあの声が響く。


「次、現国やんか」
「う、うん」
「教科書忘れてしもて。見せてくれへんかな」


いいよ、と口にすると同時に始業のチャイムが鳴り響き、白石くんは自分の机をこちらにずらしてくっつけた。「なんや白石、教科書忘れたんか」「千歳に貸しっぱなしやってん」「あーそりゃ仕舞いやなあ。返ってこおへんで」「ええわ、これからも名字さんに見せてもらうから」「アホか。迷惑極まりないわ」忍足くんの明るい笑い声が私のからっぽで真っ白な頭の中を巡っては抜けていった。決して笑い事ではないのである。私は生まれて初めて机間の広さを思い知った。全くもって知らなくていい情報だ。なくなってしまってから思い知る、存外近づいた距離に息が詰まって苦しい。まだチャイムが鳴ったばかりだというのに果たして私は一時限持つのだろうか。頭がいっぱいでなにも考えられません。どうしよう。


気まぐれな神様のいたずらで白石くんの隣の席になったのを知ったとき、嬉しいというよりも困ったという焦りで心がいっぱいになった。よろしくな、とあの王子様てきな笑顔で微笑んだ白石くんにとうとう魂というものが抜け出た気がする。こちらこそ、と言えたかどうかすら覚えていない。なんせあの白石くんである。みんなの人気者白石くんである。ひそかに憧れの白石くんである。私はここで一生分の運を使い果たしたと言っても過言ではないだろう。


でもだからって、隣の席になれたからって、仲良くなれるだろうとか話せるだろうとかそういう期待は全くしていなかったわけで。なのに何だろう今のこの状況は。近い。果てしなく近い。白石くんの色素の薄いさらさらした髪が真横で揺れて、それと一緒にほんのり甘い匂いがしてるような気がする。これが隣の席の特権ってやつなのか。恐れ多すぎる。先生、わたし現国どころじゃありません。肩が触れそうで、やっぱり触れないで、揺れている。頬に熱が溜まるのが嫌でも分かってしまった。どきどき高鳴ってうるさいくらいに響く、心臓の音が聞こえていませんように。どうか頬の熱さがばれていませんように。白石くんのファンのみなさんごめんなさいわたし全然そんなつもりなかったんです。恨むなら運命の女神様と教科書を千歳くんに貸してしまった白石くんを恨んでください。


「…名字さん」
「は、はい!?」
「ここ間違っとるで」
「え、うそ」


漢字に正しくルビを振る白石くんがやっぱり身を乗り出したので、ついに肩がこつりとぶつかった。「あ、すまん」「!い、いや、大丈夫っですハイ」私はさっきから一杯一杯だというのに、白石くんは至って冷静でなんでもない風に言うからほんとうにひどいと思った。そして自分の頭の弱さに閉口した。穴があったら入りたいとはこのことだ。こんな漢字も読めないとかばかだって思われたかな思われたよね絶対あああああああああ、いっそ死にたい。


「…っく」
「え、」
「あかん…名字さん、おもろすぎるわ」
「ええっ?」
「腹痛いわ、もう」


ぶはっと突然吹き出した白石くんを私はただ呆然と見つめるしかなくて、「白石ぃーお前授業中やって忘れてへんやろなー」渡辺先生の間延びした声が遠くに聞こえる。どっと教室が笑いにつつまれる。前の席の忍足くんが、白石くんに意味ありげな視線を送ってにやりと笑い、何やっとんねん、と言ったのが少しだけ気になった。




「ありがとな、助かったわ」


授業がこれほど長いと思ったことはきっと今までになかった。チャイムと同時にざわめく教室のなかで、白石くんは丁寧に教科書を差し出しながら言う。私はそれを受け取ってから、未だに笑いを堪えている様子の白石くんをちらりと見た。どうやら彼は笑い上戸らしい。そんなところも白石くんの親しみやすさや人間味を表す素敵な長所である...じゃなくて。もしかして、私また別の何か恥ずかしいことをやらかしてしまったんだろうか。


「あ、あの」
「ん?」
「私、もしかしてまた何か変なことした…?」
「あー、いや、ちゃうねん。気にせんといて」
「いや、ものすごく気になるんですけどそこまで笑われると、」
「変とかそういうんやなくて、ちょっとな。嬉しくて、つい」
「え?」
「名字さんちっとも俺と喋ってくれへんから、嫌われとるんかなーって思ってたんやけど、そうでもなさそうやから」


私が硬直するより早く白石くんは笑った。「真っ赤でトマトみたいで可愛えなーと思って」そう言って笑った。...これが所謂四天宝寺のバイブルと呼ばれる白石くんの実力ってやつなのか。なんということだ。恐ろしい。だってこんなの殺し文句みたいなもんじゃないか。女の子だったらみんな勘違いしてしまうだろう。特に私みたいに、白石くんに密かなる憧れを抱いている女の子だったらイチコロだ。そんな私の脆弱な心情を知るよしもなく、白石くんはさらに追い討ちをかける。



「なあ、今日一緒に帰らへん?」



教科書のお礼も兼ねてアイス奢るわ、そう言って笑う白石くんの頬のはしっこがほんのり染まっていたことさえも、女の子をあっという間に恋に突き落としてしまう魅力的な魔法の一部に違いない。こんな素敵なお誘いを断る女の子がこの世にいるなら見てみたい。でもそれがあまりにも思わせぶりすぎるとか、今までそうやって一体何人の女の子にアイスを奢ってきたのとか、仄暗い思いが一瞬頭をよぎったのも決して嘘ではないけれど、私の返事を待つ白石くんのわずかに緊張を含んだような表情を見つめていたら、そんなのはもうどうでもよくなってしまった。運命のいたずらをしかけた女神様に心の中で最大限に感謝しながら「...よ、喜んで」答えた声は情けないほどに震えていたけれど、さっきよりもさらに嬉しそうに笑った白石くんのことを、今度は憧れなんかじゃなく、もっと近くでもっと知りたいと思ってしまったから。







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