小説 | ナノ




ロマンスのよるに逃避行




「お嬢さんお嬢さん、夜の一人歩きは危険ですよ」





「…沖田さん?」


黒い髪の毛が風に靡いた。さらさら頬を撫でている夜風は冷たすぎず、生暖かくもない。目の前の人は目をまんまるく開いたまま俺を凝視していた。人々が寝静まった静かな街を背景にして、彼女と俺は立っている。しずかで暗い、夜道にふたりっきり。あーあ、世界がいまこの瞬間のままで、ずっと止まってくれてたらよかったのになァ。そんなばかげたことを考えてちょっと笑った。ちょっと笑えた。「ばかげた」ことを考えさせる原因が、めのまえのこの人にあるのだと認識したらもっと笑えた。けどそれ以上は、笑わなかった。


「…どうしてこんな時間に、」
「いやァねェ、帰ろうとしたら見覚えある後姿が目に入ったもんで。それよりアンタはいったいどこに行くつもりなんですかィ「こんな時間」に」
「ああ、お仕事の帰りだったんですね。お疲れ様です、毎日毎日遅くまで大変ですね」
「いえいえとんでもない。それよりアンタはいったいどこに行くんですかそんなにめかしこんで?」
「警察のお仕事も大変でしょう?明日も朝お早いんじゃないですか?」
「いえいえそれほどでも。それよりアンタは…またあの男のとこかィ」


ひたすらに俺の質問に答えるのを忌避していたらしいなまえさんのにこやかな表情がぴくりと反応した。俺はSだから、そんな表情が嫌いなわけじゃない。むしろもっともっと、傷ついた顔がみたいとさえ思う。あとどれくらいの言葉を使ったら、俺の満足のいく結果になるだろう?あとどれくらい彼女の行く手をふさいで、困らせたら、満足できるだろう?あとどれくらい彼女の困ったような顔を見たら、満足できるだろうか。そんなこと考えなくてももう、わかりきっていることではあるけれど。


「…沖田さんわたし先を急ぐので通してくださいませんか」
「質問に答えてくださいよ。俺は警察でさァ。夜の女の一人歩きを見逃すわけにはいきませんや」
「それって職権乱用っていうんですよ」
「そんなもん知ったこっちゃありませんよ。それよりアンタが夜中に男のとこに行くほうが問題でィ」


なまえさんは押し黙った。すこし俯いてほんのちょっと、睨むように俺を見あげた。普通だったらそんな顔、男を落とすのにはもってこいなんだろうと思うけど、今回ばっかりはそんなわけにゃいかない。ゆれる理性を我慢して、俺はほんの少し口の端を上げながらなまえさんを見つめかえした。なにもしなくても綺麗な唇がすこし、色づいているのが暗がりなのにわかる。いつもとは違う着物だってことももちろんわかってる。ただそれらすべてが、ある特定の男のためになされていることに腹を立てたらしいのだ、俺は。

だから、ただほんの少し微笑んだ。微笑んでいないときっと、俺はとりかえしのつかないことになると、十分わかっていたから「ねえ、なまえさん」


「あの男のとこに行くんでしょ?」
「…沖田さんには関係ないでしょう?」
「関係ありますよ。俺は警察だから」


「警察だからって、」なまえさんが言いかけて、やめた。言っても無駄だとわかったのかそれとも、話にならないから答えるのもばかばかしいと思ったか。唇をきゅっと結んだなまえさんの瞳がゆれるのが、ばかに明るい街灯のひかりでよく見えた。あの夜、はかなげにゆれていた瞳が、湿っていた声が、手のひらで流れた髪が、指をすべった肌が。今でも鮮明に思い出されてしまってどうしようもなく俺を揺さぶっているっていうのに。それらすべてのものが、ほかの男にとられてしまうなんてもってのほかだ。たまらなく嫌すぎる。想像するだけでも、だ。
いたたまれなくなったので、俯いたなまえさんの細くて白いゆびを握って、ぐっと引っ張った。がくん、と、それにつられて前のめりになった身体になんとか追いついた足は、そのまま俺を追いかけてくる。ちいさく、ほんとうにかすかに息を呑んだ音が夜空に溶けた。星たちはあかるくまたたいていた。静かな街を抜けてゆく。


「沖田さん!放してください、わたし、」
「嫌でさァ。この間言ったでしょ?もうあの男のところには行かせないって」
「それはあなたが勝手に…!」
「ふーん。あんなに善がってたくせに」
「!」
「あれで足りなかったなら、今日また補いましょうか」
「そういう問題じゃ、」
「…だから、」


愛が足りないならば補うし、言葉が足りないならば埋め尽くす。身体が欲しいのなら与えるし、いくらだって誠実になってみせよう。無理な願いとわかっていても、力づくはむなしいと嘆いても、望みははじめからたったひとつだけ。あなたが手に入るならなんだっていい。ただそれだけだ。なまえさんの冷たくほそい指に力をすこしだけ込めてみた。汗ばんでいるような気さえする俺のてのひらのなかで、すこし反応した指を感じて目を細めた。






「他の男のところになんか行かないでください、お願いだから」




あーあ、このまま時間もなにもかも止まっちまったらいいのになァ。本日2度目の願いごと。思って、また微かに笑った。自分でもよくわかるほどに、情けなくて力ない、泣きそうな微笑み。誰でもいいから、誰か、この痛くて醜い感情の止め方を教えてくれよ。









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